最終話
肌を焦がすような強烈な陽射しが照りつけている。
雲ひとつない、昼下がりの夏空の下。
遮るもののない広い野原を、少年たちを乗せた二頭の竜が駆けていく。
草地を染め上げるように群生する赤い可憐な小花たちを蹴散らして、茶色い髪の少年が叫んだ。
「私の勝ちだ!」
少し遅れてその場に駆け込んだ竜の背に乗る少年は、悔しさを滲ませて言った。
「次は、……次こそは僕が勝ちますっ!」
笑いながら茶色い髪の少年が竜の背から滑り降りる。
少年は野原にすとんと座り込むと、暑いと呟いて髪の生え際を濡らす汗を拭う。
ついでに腰につけていた水筒を外し、喉を鳴らして茶を嚥下した。
「ジェレミー、飲むか?」
同じく竜から降りて隣にやって来た金髪の少年に、彼は水筒を差し出す。
「ありがとうございます、エリク様」
ジェレミーとエリクが並ぶと体格差が際立った。
九歳にして既に背が高いエリクに比べて、同い年のジェレミーは線が細く、色もかなり白い。
だがその容貌は腕利きの人形師が製作したのかと思えるほど美しい。
ジェレミーは切なさを滲ませて漏らした。
「お父様みたいな立派な竜騎士になりたいのに、まだまだなんです」
「そんなことはない。どんどん走らせるのが上手くなっているじゃないか」
「そうかなぁ……」
「ガーランド公爵はジェレミーが竜騎士になるのにまだ反対している?」
「はい。でも……お父様はお嫌みたいだけど、僕は絶対に竜騎士になってみせます!」
ジェレミーが力一杯そう答えると、エリクは笑って肩をすくめた。
二人は暑さに耐え切れず、袖やズボンの裾を捲り上げて竜の影で涼をとった。
遠くから、微かに人の声がした。
二人が顔を上げて空を見上げると、夏の青空を一頭の竜が飛んで来ていた。
「姉様だ」
エリクがそう言うなり、隣に座っていたジェレミーは弾かれたように立ち上がった。捲り上げたままだった裾を急いでなおす。風で滅茶苦茶になっていた髪を、手櫛で整える。
二人の元へ竜に乗って駆けつけたのは、エリクの姉のルイーズだった。
ルイーズを束の間見上げてから、ジェレミーは膝をついた。
金色の髪を風に踊らせながら、竜に跨ったままルイーズは弟のエリクを見下ろして言った。
「紅茶の準備が整ったとお母様が呼んでいたわよ」
分かったと返事をしながら、エリクは自分の竜の背に上がる。
その様子を見届けてからルイーズはそばにいるジェレミーにも微笑みかけた。
「ジェレミーもおいで。一緒にお茶しましょう」
「は、はいっ……!」
白い頰を桃のように染めてジェレミーは答えた。
子竜を鮮やかな手つきで操るルイーズを、惚れ惚れと見つめてしまう。
エリクが王宮に戻ろうと話しかけたが、ジェレミーは上の空でまるで聞いていなかった。
ジェレミーは竜に乗るのも忘れ、立ち尽くしてルイーズを見つめた。
既に竜で空へと駆け始めたルイーズの後ろ姿を目で追う。
「ジェレミー! 聞いてるか?」
エリクに話しかけられてハッと首を左右に振る。
「すみません、今乗ります……!」
「ぼんやりしてどうした? 疲れたか?」
「いえ……。ーールイーズ様は竜に乗っていてもお綺麗です……」
「そうか? 母上にそっくりだぞ。中身まで似ていて、すぐに私を怒るんだ」
「王妃様もお綺麗だから……」
王宮の大きなテラスには既に茶菓子が並べられていた。テラスの手すりに腰掛けて、何やら菓子をつまみ食いしているのが国王だと気がつくと、ジェレミーはそこに混ざるのを躊躇した。
テラスへと上がる数段の階段を上がれず、たたらを踏んでいると、エリクがジェレミーの二の腕を掴んだ。
「ほら、ジェレミーも座って!」
エリクと席に着いて紅茶を飲んでいると、テラスに王妃が登場した。腕にカゴを抱えてにこやかにこちらへやって来ていた。
「みんな、トースを焼いたのよ!」
その途端、皆の笑顔が凍りついた。
王妃の焼くトースが劇的に不味いことを、誰もが経験上知っていた。
王妃の手によってカゴがテーブルの上に置かれると、席に着いていた皆はそこから敢えて目を逸らした。カゴの中には溢れるほどのトースが入っており、せっせと王妃が焼いてくれたのだと分かる。
王妃は満面の笑みで着席し、国王にトースを薦めた。国王は器用にも残念そうな顔を作った。
「本当にすまないが、もう紅茶と菓子をたくさん食べてしまったんだ」
「まあ、残念だわ」
「ああ。本当に残念だ。もう少し早く持ってきてくれれば……」
だがそこへ不幸にも登場してしまったのが、ジェレミーの父だった。
ガーランド公爵はテラスで国王一家と自分の息子が同席していることに驚き、息子を注意しようと歩いて来たところだった。
近くにやって来るガーランド公爵に気づいた王妃のアマリーは、トースを一枚手に取ると、彼に差し出した。
「マチュー! 良い所に来てくれたわ。新作のトースなの」
ガーランド公爵の顔から表情が消えた。
目の前に突き出されたトースから、妙に生臭い香りがする。一体何を入れたのか。
壮絶な葛藤の末、仕方なくガーランド公爵がトースを受け取ると、パリッと音をさせて一口目を口に含んだ。
「どうかしら?」
「ーー変わった味がします」
「ほうれん草を入れてみたの。野菜が苦手な子どもたちが食べられるかと思って」
大人でも食べられないのではないか、とガーランド公爵は聞こえないくらいの大きさで呟いた。
アマリーが問い直すと、彼は答えた。
「……ほうれん草を無駄遣いしないでください」
「なんですってぇ!?」
そこへ父の窮地を救おうとジェレミーが口を挟んだ。
「王妃様のアイディア、素晴らしいです」
褒められたアマリーは、満面の笑みを浮かべた。
「ジェレミーったら、なんて良い子なのかしら!? 父親には似なかったのね!」
ガーランド公爵がむせた。
ゴホゴホと咳をし、胸を拳で連打する。
紅茶を満たしたカップを片手に、アマリーが公爵のすぐ側に向かう。カツカツとヒールを鳴らしながら。
「喉に詰まらせたら大変だわ。一杯いかが?」
「結構です!」
「ーーもう一枚いかが?」
「……」
ジェレミーは王妃と父の様子を冷や汗をかきながら見守っていた。物心ついた頃から、この二人はなぜか常に牽制しあっていた。
気さくな人柄で臣下や民からも慕われている王妃と仲違いしても、良いことは何一つないように思われるのだが。
昔王妃と何かあったのかと尋ねてみても、父は頑として教えてくれないのだった。
「お母しゃま、トーシュちょうだい」
テーブルの下から愛らしい声がすると、三歳になったばかりのシャルルがアマリーのドレスの裾を引いた。
「トーシュ!」
「トースね! シャルルったら、食べたいの? 嬉しいわ。たくさん食べてね」
キラキラと弾ける笑顔でアマリーは末の王子であるシャルルにトースを手渡した。
するとシャルルはトースを手にしたまま、テーブルを離れてテラスを降りて行ってしまった。
どこへ行くのか、と慌てて紅茶を放り出したアマリーと彼の乳母が追う。
庭園を横切り始めたシャルルを思わず抱き上げる。
「どこに行くの?」
「るうにあげるんだもん」
シャルルの言うるう、とは竜のことだ。
アマリーは自分が焼いたトースが竜のエサになると気づき、少なからずがっかりした。
「竜にあげちゃうの? シャルルが食べてくれるんじゃないの?」
「だって、おかあしゃまのトーシュ、みんな食べないもん!」
三歳児からの辛辣な返事に言葉に詰まっていると、後ろから聞き慣れた笑い声が上がった。
声の方向を振り返ると、そこには国王ーージュールがいた。
彼はアマリーに怒られないよう、俯き加減に顔を隠して笑っていた。
「笑うところじゃないでしょう。酷いのよ……、シャルルったら! 私のトースを……」
ジュールはまだ笑いながらも、アマリーをシャルルごと抱き締めた。
「シャルルは竜が好きだからな。ーーそろそろ乗る練習をするか?」
「まだ早いわよ!」
アマリーが顔を曇らせて止めるのも聞かず、シャルルは乗る! と連呼してアマリーの腕から滑り降りた。
そのまま竜騎士たちの訓練場まで、一目散に駆け出そうとする。それに追い縋った乳母は手なれた様子でシャルルを抱き上げ、まだ竜に会いに行こうと暴れる彼を宥めながらテラスに引き返し始めた。
乳母の腕の中のシャルルは、口をへの字型にしてさも不服そうにしていた。
アマリーはくすりと笑ってジュールを見た。
「あの子ったら、ああいう顔をすると赤ちゃんの時と顔が同じだわ」
テラスに戻ろうとアマリーが歩き出すと、ジュールに腕を掴まれた。何かしらと反射的に振り向く。
シャルルが赤ちゃんだった時の様々な表情を思い出し、薄く笑っていたアマリーとは対照的に、ジュールは真面目な顔で言った。
「……両親に会いたいか?」
アマリーは虚をつかれた。
即座に首を左右に振ろうとしたが、それもすぐに思いとどまった。
息をゆっくりと吸い込み、吐き出しながら答える。
「会いたいわ。ーーでもね、陛下」
アマリーは両腕を伸ばしてジュールの背に回し、そっとその胸の中に飛び込んだ。甘えるようにそうするのが、好きだった。
「私ね、自分の人生の中で、今が一番幸せよ」
ジュールはアマリーの頭の上に、頰を押し付けた。
時折ジュールは自分がアマリーを妃にしたせいで、彼女から大事な一部を失わせた気がしてならなかった。それは子どもが生まれてもなお、消えることがない罪悪感でもあった。
自分を見つめたまま、物思いに耽る鋼鉄の瞳を覗きながら、アマリーは尋ねた。
「陛下は後悔しているの?」
ジュールはニッと笑い、即答した。
「全くしていない」
思わず笑いが溢れる。
ジュールらしい答えだと思っていたし、そう答えると聞く前から分かっていた。
二人はどちらからともなく、テラスへと戻り始めた。
国王と王妃を呼ぶ声がテラスから聞こえる。
二人は殆ど同時に返事をしていた。
そうしてゆっくりと、歩き出した。




