人魚⑩
夜も更けた五反田駅前を胸を張って歩く女性が一人。
周囲の視線を釘付けにし人々が自然と道を開けるのは、着ている服がどこもかしこも傷だらけで返り血もいくつかついているからだろう。
女性の立ち振る舞いから暴漢に襲われたというわけではなく、取っ組み合いの喧嘩をしたかあるいはそういう暴力的な職業を生業としているか、視線を送る人々の想像はそのあたりが限界のようだがそう外れてもいない。
実際はグリムを立て続けに三体狩ってきた後のため、服は傷だらけで血を浴びたわけなのだから。
「えーっと」
カザリから聞いた話ではこのあたりのはずだったと駅前からさらに先へ足を進める。
目立たなくてわかりにくいと先に言われていた通り、目当ての店は奥まった場所にあるため何回か通り過ぎてからようやく気付くことができた。
しかしながら彼女がその店の扉に手をかけると、ガチャリと音が鳴って開かない。
「え? うわーマジか」
よくよく見ればクローズと書かれた看板が置かれており、ドアの窓から覗いてみれば店内は人気もない。
「ここだよね? え? やってないの?」
見上げてみれば「Grimms Square」という店名が書かれた看板。
聞いていた店名と違うが場所は間違いないはずだし店名も前半は一緒だ。
しかしここで粘ったところで店がやっていないという現実は変えられないため、女性は渋々引き返す。
するとそこに立っていたのは似たようにこの店を訪れたであろう男性だ。
「あーっと、今日はやってないみたいだよ」
「そうか……タイミングが悪かったな」
「だね。せっかく来たのに残念」
女性が肩をすくめると男は同意するように軽くため息をついて見せた。
「この店は初めて?」
「ああ、噂だけは耳にしていてな。少し前に友人が世話になったので挨拶に来たんだが、いないなら仕方ない」
「私も弟がこの店によく世話になってるみたいでさ。挨拶がてら来たんだけど、まぁやってないならしょうがないね」
ふと彼の青い瞳が自分を観察するように動いていることに彼女は気が付いた。
そういえばカザリにもっと身なりに気を使えと言われていたことを思い出したが、彼女はそういったことに興味が持てないので今日もグリムと戦った後のぼろぼろの姿だ。
グリムに傷をつけ傷をつけられ、そして最後は首を刈り取る。
そういうことにしか興味が持てないのでカザリにどれだけ言われても改めるつもりはないが、目の前の身なりのいい男にそうじろじろと見られると居心地の悪さというものはどうしても感じてしまうものだ。
「同業者か」
「なんか言った?」
「姉さん!?」
不意に横からかかった声に視線を向ければ昔から変わらない陰気な雰囲気を漂わせた男が立っている。
見るとすぐにいじめたくなる衝動に駆られる愛すべき弟の姿だ。
「バナじゃんか! 久しぶり!」
「ひ、久しぶり。どうしてここに……」
近寄ってバナの頭をぐりぐりと撫でれば嫌がるように彼は逃げ出した。
「ちょ、もう僕は子供じゃないって! 会うたびに頭を撫でるのやめてくれないかな……」
「やめないよ。私がやりたいんだし。ああそうだ。そっちのお兄さんに自己紹介してなかったけど、私はブリスって言って――あれ?」
男の姿がない。
さっきまでいたはずなのだが周囲を見渡しても姿かたちもない。
「まぁいいか」
「なんなんだよもう。僕はただ単に今日もここで累さ、じゃなくてお酒が飲みたいだけなのに。なんで姉さんがここにいるんだ。僕のプライベートな空間にまで入ってきてほしくないのに」
「ぶつぶつ言ってるの聞こえてるよ。バナがここのグリムに助けられたって聞いたからお礼を言いに来たんだよ」
「姉さんがグリムに? 意外だな」
「意外なのはこっちだよ。あんなにグリムのことを嫌ってたくせにそのグリムがやってる店の常連になるなんてさ」
「それは……色々と事情があって……」
ブリスは別にグリムを嫌ったり憎んだりしているわけではない。
グリムがいてくれるおかげで充実した毎日を過ごせているのだから、彼らがいなくなってしまっては困る。
アドレナリンが多量に分泌され鼻血が出るほどの興奮の中で自分の生死を感じるなどグリムとの戦闘以外にないのだから。
だがバナはブリスと違ってそういった感情をグリムに抱いていないはずだ。
むしろ両親を殺したグリム全体を嫌っており、師匠であるアルメルよりグリムに敵対的な遊佐と近い位置にいたはずなのにどういった心境の変化なのだろうか。
今日ここを訪れた理由にはそのあたりが気になったということもあるのだが、生憎と店がやっていないのでは確認のしようもない。
バナに聞いたところで答えないだろうから。
「いろいろそのグリムたちに聞きたいことがあったんだけど、店がやってないなら仕方ないね」
「え? 店やってないの?」
「みたいだよ」
「そんな……昨日も閉まっててもう二日も会ってないのに……あぁ、駄目だ。現実が認められずに手が震えてきた」
「うぇーちょっと変じゃない?」
「変じゃないよ。姉さんだってグリムと殺しあわなきゃ手が震えるくせに」
「まぁ……」
そう言われるとそうなので言い返せない。
しかしグリムに会わないと手が震えるというのは魅了でもされているのだろうかと疑ってしまう。
魅了されると挙動不審になるというが、弟は常日頃から挙動不審なので姉であるブリスの眼をもってしても弟が正気なのかはわからなかった。
「こんなに長期間店を閉めるなんて何かあったのかな……」
「うーん。カザリなら何か知ってるかもしれないけど」
「聞いてみてよ! 姉さんカザリさんと仲いいんだろ! 早く早く今すぐ聞いてくれ!」
「うわ、なんだよ必死で気持ち悪いな。まぁいいけど」
弟の気持ち悪さに口をひん曲げながらスマートフォンを取り出すと、まるでその様子を見ていたかのようにカザリからの着信が入った。
少し驚きつつも出てみれば、いつもの疲れたような様子でカザリが声をかけてくる。
『あー悪いねこんな時間に』
「別に気にしないでいいよ。ちょうどこっちもカザリに用があったところだから」
『用?』
こっちの話のほうがすぐ終わるだろうと店のことを聞いてみれば、どうやら彼女たちは沖縄に旅行中らしい。
数日は戻ってこないという話をバナに伝えると、彼はそのまま崩れ落ちてしまった。
本当に気色悪いなと思いつつもブリスはカザリに礼を言う。
「さんきゅ。で、そっちは何の話? 狩りの依頼?」
『まぁ依頼といえば依頼なんだが、ブリスも知ってる通り魔剣の件で人手が足りなくてね。本部の狩人が全員別件で埋まっていて頼める相手がブリスしかいないんだよ』
足元に転がっている弟は見るからに暇人なのだが、ひとまずそのことは黙って話を聞き続ける。
『ちょうど今話に出た累たちグリムの件でさ。狩りが終わった直後で申し訳ないんだが至急沖縄に向かってほしい』
「沖縄に?」
『どうも累たちに対抗心を燃やしたのか現地の狩人たちが暴走し始めたみたいで……ブリスには現地に向かって彼らを収めてほしいんだよ。累たちと争いになったら彼らじゃ勝ち目がない。無駄な犠牲は出したくないし、それで関係を悪化させたくもないしね』
今の話だけでは状況がよくわからないものの、ブリスの好きなグリムとの殺し合いというわけではないらしい。
あまり気乗りしないがカザリは友人だしいろいろと世話にもなっているので断るという選択肢はなかった。
それに例のグリムたちと話ができるならちょうどいい。
「わかった。すぐ向かうからあとで情報送って」
『助かるよ。今度何か奢る』
「そりゃ楽しみだね。あと暇な狩人が一人いるからそいつも連れてく」
そう言ってブリスは足元でうずくまっているバナを蹴り上げるのだった。
***
外へと視線を向けてもそこには誰もいない。
激しい雨がプールに溜まった水をけたたましくはじくばかりで、少し前までそこで優雅に泳ぎ、笑みを見せてくれたアウラは消えてしまった。
「これでいい」
そう思っているのは確かだというのに不和の胸にあるのは巨大な喪失感ばかりだ。
たった半年ばかりを共に過ごしただけの相手だというのに、なぜこうも体が重くため息ばかりが出しまうのか。
それはきっとアウラと過ごした半年間が充実していたからに他ならないのだが、不和にはどうもそれだけが理由とは思えなかった。
(何か大切なことをこの半年間で思い出せそうだったのだが、それがするりと手から滑り落ちていったような……)
益体のない考えだと不和は何度目かのため息をついた。
「いつまでもこのままではいかんな」
ソファから立ち上がり、不和は二階へと上がると倉庫代わりの部屋へと入る。
若いころから撮り続けたいくつもの写真が山のようにしまわれており、そろそろ終わりの見えた自分の人生を改めて見つめなおす意味でも、これらを整理しようと前から思っていたのだ。
自分が死んだときにはこの写真を友人やその家族、懇意にしてくれた人々に送るのもいい。
そう思いながらアルバムを収めた段ボールを一つずつ開いていく。
「ふむ。この頃はまだ人や街並みが多いな」
二十代のまだ新米の頃に撮った写真だ。
最初は日本各地、次に世界各国と活動が広がっていき、そこに住む人々の自然な笑顔は今でも脳裏に鮮明に思い浮かぶ。
その土地で撮った自然や動物、街並みなどもこうして見返してみれば技術や構図などはまだまだだがどれもいい写真だと自信を持って言えた。
きっと心から楽しんで撮影していたに違いない。
「ここからは海の写真か」
少し年月が開き、次のアルバムには海の写真しかない。
どこかの海岸から撮ったもの、崖の上から、海辺の小さな町から、車から、船の上からなど様々だ。
いい写真だと自画自賛できるものだが、先ほどまでの写真と比べるとこちらから感じるのは強い海への執着心だ。
恋焦がれているといってもいい。
「どうしてこれほど海が好きになったんだったか」
先ほどの海以外の写真を保存したアルバムと海を撮り始めてから保存したアルバム。
この間には一年ほどの空白の期間があった。
「そうだ。確かここで何か海に対して思うことがあったはずなのだが、それが何だったか……。どうしても思い出せん」
今まで思い出せなかったのは歳のせいだとばかり思いこんでいたが、こうして考えてみればおかしなことだ。
ほかの出来事は今でも鮮明に思い出せるのに、自分がこれほどに海というものに執着したその原因が全く思い出せないのだから。
何か奇妙な違和感を感じ、不和はほかの段ボールを次々と開けてアルバムを確認していく。
「そういえばアイスランドの写真が多いな」
世界各地を回ったのは確かだが、その中でもアイスランドで撮ったものが格段に多いようだ。
だが思い起こしてもなぜアイスランドの海がそれほど気に入ったのかがわからない。
しかしそれらの写真を見ると胸にこみあげるものが確かにある。
この衝動は何なのだろうか。
「ん? これはもっと昔のか?」
手に取ったアルバムは海に執着し始める前に撮った写真が収められているようだった。
中身を見ればこれもアイスランドで撮った写真のようだがどれも見覚えがない。
さっきまでは「ああこれはあの時の」といった風に思い出せたのだが、ここに収められた写真はどれも記憶になく、まるで別の誰かが撮って収めたような感覚さえあった。
だがこの構図は自分が撮ったという確信があり、ページをめくるたびに胸へこみ上げる寂寥感にわずかな不安が交わると、不和の手は止まることなくアルバムのページを次へ次へとめくっていく。
「これ、は……」
女性だ。
寒々しい冬の海を背に立ったアイスブルーの髪色の女性。
「どうして。なぜここに」
こちらへ優しく笑みを向ける女性を撮ったものがあった。
クレープを食べて目を丸くして驚いた女性を撮ったものがあった。
温泉に入って顔を赤くした女性を撮ったものがあった。
オーロラを見上げて瞳を輝かせる女性を撮ったものがあった。
何枚も何枚も彼女を被写体に撮った写真がいくつもアルバムに収められている。
それは写真家として撮ったものではなく、恋人との思い出を残すために撮られたどこにでもあるような普通の写真だ。
そしてそこには彼女とともに写った若かりし不和の姿もあった。
「なんだ。なんなんだこれは……」
自然と涙が零れ落ちる。
こんなものを撮った記憶もなければ写真の女性との記憶もない。
だが抑えきれない衝動が次々と涙になってあふれ出た。
「どうして覚えていない!」
大切な思い出のはずだ。
大切な女性だったはずだ。
なのにそれを思い出せないどころか今の今まで記憶の片隅にも存在していなかったことが憎らしかった。
この写真がなければ死ぬまで忘れたままだったろう。
彼女の存在に気付けたことに対する安堵と、あまりにも愚かしい自分への罵倒が不和の内面で荒れ狂った。
「ぐ、ぅぅ……」
歯をかみしめて苦しみに耐えるのは容易なことではなかった。
それもどこが原因ともわからぬものであればなおさらのこと。
不和はあるべきはずの記憶が失われていることと、失ってはならない女性の記憶がないことにうめき声を上げながら体を縮めて蹲る。
どれほどそうしていたかわからなくなったころ、不和は強く握りしめたために折曲がった写真へ弱弱しい視線を向けた。
そこには変わらぬ笑みで不和を見つめる女性の姿があった。
アイスブルーの髪に光を反射する白い肌。
そして感情を隠したような薄い笑み。
そこに立っているのは人間の女性に間違いないが、その髪その顔そしてその笑みを見間違えることはない。
「本当にお前なら、私たちはあの時に会っていたのか……だからあんな顔を」
彼女にとってあの時あの場所で出会えたことがどれほどの奇跡だったかなど気づきもしなかった。
「アウラ……」
霧の中の記憶に縋り付くように、不和は繰り返し繰り返しその名を呼んだ。
読んでいただきありがとうございます。
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