第89話 常春の山の春山菜と、季節外れの冷たい風
山の入り口にあった広場を離れ、俺たちは緩やかな斜面を登っていた。
足元には柔らかな落ち葉が積もり、木々の隙間から差し込む陽光が地面にまだら模様を作っている。
森を抜けるまでにも魔物に襲われた以上、ここから先も油断はできない。
俺は如意の金剛棒を片手に持ったまま、周囲へ意識を向ける。
先頭を歩くメイは時折鼻先を上げて匂いを探り、頭の上のシルクも長い耳を細かく動かしていた。
ベルは少し高い位置を飛びながら木々の間を見渡し、ウンディーネは相変わらず水の枕に身を預けたまま、ふわふわと後ろをついてきている。
みんなが自然に周囲を警戒してくれているおかげで、俺も足元の山菜探しに集中できそうだ。
「おっ……。」
斜面をしばらく登ったところで、地面から突き出している緑色の若芽が目に入った。
落ち葉の間から先端だけを覗かせているものや、そこから少し伸びたものが、何本もまとまって生えている。
俺は近くまで寄ると、すぐに【鑑定】を使った。
【笹筍】
詳細:常春の山林に自生する若芽。瑞々しく歯切れの良い身を持ち、採取直後はほのかな甘みがある。一方で時間が経つにつれてえぐみが強くなるため、採れたてを下処理して調理するのが望ましい。
「笹筍だな。」
しゃがみ込み、土から十分に顔を出している一本を確認する。
皮にはしっかりと張りがあり、見るからに瑞々しそうだ。
「炊き込みご飯もいいし、若いところなら焼いても美味そうだな。」
出汁を利かせすぎず、笹筍の香りを残した炊き込みご飯。
柔らかな部分なら、大きめに切ってそのまま焼くのも良さそうだ。
とはいえ、目についたものを片っ端から採るつもりはない。
先端しか出ていない若すぎるものや、そのすぐ横から生えている小さな芽は残す。
十分に育っているものだけを選び、根元の土を軽く除けてから、ミスリル打ち込み特注解体ナイフで切り取った。
サクッと軽い感触が手に伝わり、切り口から透明な水分が滲み出す。
「やっぱり瑞々しいな。」
採れたての状態を保てる俺のアイテムボックスとは、相性の良い山菜だ。
俺は食べ頃のものを見極めながら、まず依頼で指定された規定量を確保していく。
必要な分が揃ったところで、それらを納品用として分けた収納空間へ入れた。
周囲には、まだ十分に育った笹筍が何本か残っている。
群生を荒らさないよう数を見ながら、今晩自分たちで食べる分だけを少し追加で採り、こちらは別の収納へ分けた。
「よし。笹筍はこれでいいな。」
一種類目は無事に確保できた。
さらに斜面を登っていくと、木々の間を抜けた風が頬を撫でる。
その風に混じって、青々しい独特の香りが鼻をくすぐった。
「ん?」
俺は足を止め、風上へ顔を向ける。
葉や茎を切った時に立つような青い香りに、少し癖のある山菜らしい匂いが混じっている。
匂いを追って少し進むと、太めの淡い緑色の茎を伸ばした植物が斜面にまとまって生えていた。
【独活草】
詳細:常春の山林に自生する香りの強い山菜。若芽は柔らかく爽やかな香りを持ち、瑞々しい茎にはほのかな苦味がある。外側の皮にも香りが残るため、部位ごとに調理法を変えることで余すところなく食べられる。
「やっぱり独活草か。」
太く育った一本の茎に指を添えてみる。
張りがあって、水分もしっかり含んでいそうだ。
穂先はまだ柔らかく、葉も開き切っていない。
茎なら酢味噌和え。
皮は細く切ってきんぴらにすれば無駄なく食べられる。
穂先は衣を薄くつけて揚げれば、この香りと柔らかさを楽しめそうだ。
「フトシ、それもおいしいの?」
いつの間にか肩の近くまで降りてきたベルが、独活草を覗き込んでいた。
「多分な。茎と穂先で食べ方を変えたら、色々楽しめそうだ。」
俺がそう返すと、ベルは興味深そうに独活草へ顔を近づけ、少しだけ鼻を動かした。
俺は苦笑しながら採取に戻る。
独活草は無理に引き抜かず、茎を傷めないよう根元を確認して切り取っていった。
切るたびに、爽やかな香りが周囲へ広がる。
(酢味噌は甘くしすぎない方が良さそうだな。)
味噌のコクと酸味を合わせつつ、この香りとほろ苦さを残したい。
そんなことを考えながらも、まずは依頼分を優先する。
規定量を揃えて納品用の収納へ。
そのあとで、茎と皮と穂先を一通り味わえる程度に自分たちの分も採り、別の場所へ収納した。
「これで二種類目。」
残るのは棘木の芽だ。
俺たちはさらに山の中へと進んでいく。
時折、メイが茂みの奥へ顔を向けたり、シルクの耳がピクリと動いたりする。
何かの気配はあるようだが、こちらへ近づいてくる様子はない。
ベルも木々の間を飛びながら周囲を見てくれているため、俺は足元や低木の枝先を確認しながら進んだ。
しばらくすると、少し先からベルの声が飛んでくる。
「フトシー! これじゃない?」
声の方を見ると、ベルが棘の生えた低木の上で手を振っていた。
枝先には、黄緑色をした丸みのある若芽がいくつも顔を出している。
「多分、それだ。」
近づいて【鑑定】を発動する。
【棘木の芽】
詳細:棘の多い低木の枝先に生える柔らかな若芽。青々しい香りと心地よいほろ苦さを持つ。短時間の加熱で香りが立ち、特に薄い衣をつけて揚げると、若芽の柔らかな食感を楽しめる。
俺は枝先の若芽を見つめた。
まだ葉が開き切っておらず、ふっくらとして柔らかそうだ。
「……これは天ぷらだな。」
「てんぷら?」
ベルが聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「薄い衣をつけて、油でさっと揚げる料理だよ。この芽にはかなり合うと思う。」
「へえー! それ食べてみたい!」
ベルは若芽を眺めながら嬉しそうに笑うと、別の枝を探しに飛んでいった。
俺も棘に気をつけながら、食べ頃の芽を選んで摘んでいく。
一つの枝から全部採ることはせず、次に伸びる芽はきちんと残した。
柔らかな若芽を摘むと、独活草とはまた違う青い香りが漂ってくる。
薄い衣をつけて、火を入れすぎないよう短時間で揚げる。
仕上げは岩塩を少し振るくらいで十分だろう。
まずは依頼で必要な規定量を確保し、納品用へ分ける。
そのあとで、自分たちが食べる分だけを追加で摘んだ。
これで三種類とも揃った。
俺は依頼書を取り出し、その場でもう一度内容を確認する。
笹筍。
独活草。
棘木の芽。
アイテムボックスの納品用に分けてある三種類を順番に確かめる。
どれも依頼で指定された規定量を満たしていた。
「よし。これで依頼分は問題ないな。」
仕事として受けた以上、食べる分と納品する分を曖昧にするつもりはない。
最初から分けておけば、帰ってから取り違える心配もなかった。
自分たちで料理する分も、それぞれ十分に確保できている。
依頼も終わったことだし、そろそろ山を下りるとしよう。
来た道を戻り始めてしばらくしたところで、道脇に生えている一本の笹筍が目に留まった。
「……なんだ、これ?」
他のものより明らかに育ちが悪い。
単に生えたばかりという感じではなく、途中で成長が鈍ったように細く、先端もわずかに白っぽくなっている。
周囲の葉や木々には、特に変わったところは見当たらない。
俺はしゃがみ込み、その笹筍へ指先で触れた。
「……冷たい?」
ひんやりとした感触が指に伝わる。
念のため根元の土にも触れてみると、そこも妙に冷たかった。
立っている俺の頬に当たる空気は暖かい。
数歩離れた場所の土へ触れてみれば、そちらは日差しを受けてほんのり温かかった。
(この辺だけか?)
俺は育ちの悪い笹筍へ【鑑定】を使う。
【低温に晒された笹筍】
詳細:周囲の温度が一時的に低下したことで成長が鈍っている。食用に問題はない。
「この辺りだけ冷え込んだのか?」
常春のオリエンスで、一時的とはいえここだけ温度が下がった。
少し妙な話ではある。
ただ、俺はこの山について詳しいわけではない。
これだけで何かがおかしいと決めつけるのも早いだろう。
俺が首を傾げていると、後ろからふわりと水の気配が近づいてきた。
それまで水の枕の上で気ままにしていたウンディーネが、いつの間にか身体を起こしていた。
『……?』
ウンディーネは周囲を見回すと、少し下った場所を流れている細い沢へ視線を向ける。
そのまま枕から降り、沢の側へ移動した。
しゃがみ込み、流れる水へ白い指先を触れさせる。
「どうした?」
俺が声をかけると、ウンディーネは水面を見つめたまま、少しだけ眉を寄せた。
『……水の流れが、ちょっと変。』
「流れ?」
俺には、澄んだ水が小石の間を流れているようにしか見えない。
ウンディーネはしばらく指先を水につけていたが、やがて小さく首を振った。
『ううん。ほんの少しだから、気のせいかも。』
そう言って水から手を上げる。
声も普段と大きく変わらない。
俺も育ちの悪い笹筍へもう一度目を向けたが、原因が分からない以上、今ここで考えても仕方がない。
その笹筍には手をつけず、俺たちは再び山を下り始めた。
採れたての山菜が手に入ったことで、帰りの足取りは自然と軽くなる。
(笹筍は、やっぱり炊き込みご飯だな。)
鶏の出汁に生醤油と本みりんを合わせて、笹筍の風味を消さない程度に味を整える。
独活草の茎は酢味噌和え。
皮はきんぴら。
棘木の芽と独活草の穂先は天ぷらにすれば、同じ山菜でも違った味わいを楽しめそうだ。
実際の味や香りを見ながら、細かいところは調整すればいい。
「フトシ、おいしい料理、楽しみにしてるね!」
俺の肩へ戻ってきたベルが、嬉しそうに笑った。
「ああ。せっかくの採れたてだからな。」
メイも足取り軽く斜面を下り、頭の上ではシルクの耳が揺れている。
依頼も終わり、晩飯の材料も手に入った。
さっき見つけた冷たい土のことは少し気になっていたが、周囲の空気は相変わらず春のように暖かい。
その時だった。
ヒュウ――。
一本の風が、山の上から吹き抜けた。
「……寒っ。」
思わず足が止まる。
首筋を撫でていった風が、はっきりと冷たかった。
ほんの一瞬。
それでも、オリエンスに来てからこんな冷たさを感じたことはない。
「今の風、冷たかった……。」
肩にいたベルが羽を畳み、俺の首元へ少し身体を寄せた。
前を歩いていたメイも足を止める。
頭の上のシルクも長い耳を立て、二匹揃って遠くへ顔を向けた。
その先には、オリエンスの街を見下ろすように巨大な大聖樹がそびえている。
俺もそちらへ目を向けた。
ウンディーネは、少し離れた場所で立ち止まっていた。
いつもの気の抜けた表情は消え、青い瞳がまっすぐ大聖樹へ向けられている。
「ウンディーネ?」
呼びかけても、返事はなかった。
その時、木々の間を抜けて、もう一度風が吹いた。
風に乗り、一枚の大きな葉がこちらへ流れてくる。
俺は反射的に手を伸ばし、その葉を受け止めた。
青々とした緑色の葉だった。
だが、その端だけが、ほんのわずかに黄色く変色している。
俺は手の中の葉へ目を落とした。
隣では、ウンディーネが何も言わず、大聖樹を見つめ続けていた。




