第32話 獣人帝国への船旅と、荒々しき港の塩焼き
ポルト・ラーラの広場に『たこ焼き』という名の新たな熱狂を根付かせた数日後。
俺は旅立ちの準備を整え、この街で世話になった人々に別れの挨拶をして回っていた。
まずは、港を見下ろす高台にある領主邸へ。
通された応接室で、辺境伯レオン様と令嬢のクロエ様は、名残惜しそうにしながらも俺の決断を温かく受け入れてくれた。
「そうか、海を渡ってガルディア帝国へ行くか。フトシ殿がもたらしてくれた『たこ焼き』のおかげで、我が街の活気はかつてないほどに高まっている。漁師たちもデビルオクトパスを喜んで獲るようになり、街の財政も潤うばかりだ。この恩は決して忘れんぞ」
「とんでもありません。俺の方こそ、最高の鉄板を打っていただき、料理人としてまた一つ成長することができました。ありがとうございます」
俺が深く頭を下げると、クロエ様が無邪気な笑顔で身を乗り出してきた。
「フトシ君の料理が食べられなくなるのはすっごく寂しいけど、獣人帝国にもきっと、まだ誰も知らない美味しい食材がたくさん眠っているはずよ! 向こうでも、あなたの料理でみんなを笑顔にしてあげてね!」
「はい、必ず」
続いて、市場へ足を運ぶ。
俺の屋台の常連であり、大量のクラウドコッドを卸してくれていた魚屋の親父は、目を丸くして驚いていた。
「なんだと!? 獣人の国に行くって!? 兄ちゃん、あんな味のわからねえ連中のところに行ってどうするんだ。向こうじゃ、魚をただ焼いて塩をぶっかけるだけの飯しか出ねえぞ!」
「だからこそ、俺の料理を食べて驚く顔が見てみたいんですよ」
「がははっ! 兄ちゃんらしいや! ま、達者でな。あんたのフィッシュバーガーの味は、俺たちがしっかり引き継いでいくからよ!」
そして最後に、定宿にしていた『潮騒の亭』の主人に深々と礼を言い、俺はポルト・ラーラの巨大な波止場へとやってきた。
そこには、海洋国アクアリスの誇る巨大な外洋航行用の帆船が停泊していた。
獣人帝国ガルディアとの交易に用いられるこの大型船は、商人や冒険者などの旅客も乗せている。
莫大な資金を持つ俺は、少し奮発して等級の高い個室を予約していた。
「よし、乗るぞ」
「キュイッ!」
「ワフッ!」
頭の上のシルクと、足元のメイと共にタラップを登る。
やがてドラの音が鳴り響き、巨大な帆が風を孕んで、船はゆっくりとアクアリスの港を離れていった。
―――
獣人帝国ガルディアまでの船旅は、二泊三日の予定だった。
アイテムボックスの維持管理に頭を悩ませる必要もなく、屋台の仕込みに追われることもない。
完全な『お客さん』として乗船した俺にとって、この三日間は至れり尽くせりのバカンスのようなものだった。
客船の内部は驚くほど豪華で、揺れを軽減する魔導具が完備されているため、船酔いの心配も全くない。
初日の昼下がり、俺は船内に併設されたシックなバー・ラウンジのカウンターに腰掛けていた。
この異世界では十五歳が成人であり、十七歳の俺は堂々とお酒を楽しむことができる。
「お客様、こちらはアクアリス産の白ワインに、柑橘の果汁と少しの塩を合わせた『シーブリーズ』というカクテルです。潮風を感じさせる爽やかな一杯となっております」
「ありがとうございます」
給仕からグラスを受け取り、一口含む。
キリッとした白ワインの酸味に、柑橘のフレッシュな香りが混ざり合い、後味にほんのりとした塩気が残る。
なるほど、これは白身魚のカルパッチョや、ホタテのレアソテーなど、繊細な海鮮料理の味を極限まで引き立てる素晴らしいペアリングになりそうだ。
お酒そのものを楽しむだけでなく、「どの料理に合わせれば最高の一皿になるか」を考えるのは、料理人にとって非常に有意義な時間だった。
部屋に戻ると、シルクとメイがふかふかのベッドの上で気持ちよさそうに丸くなっていた。
俺は窓から広大な海を眺めながら、羊皮紙のノートを広げ、これから向かう獣人帝国でのレシピ案を書き出していく。
(獣人たちは身体能力が高く、肉体労働が多い。そして『腹がいっぱいになればいい』という気風。……つまり、繊細な味付けよりも、強烈なスパイスの香りと、ガツンと胃袋にくる濃厚な旨味が求められるはずだ)
アイアンボアの極上肉を、たっぷりのニンニクと果実シロップを効かせた甘辛いタレで豪快に焼き上げる『スタミナ丼』。
赤身の強いフォレスト・フォウルの肉を、ピリ石の粉とクグの実のスパイスでマリネし、魔豚の脂で香ばしく揚げる『スパイシーフライドチキン』。
俺の手持ちの調味料と技術を使えば、彼らの常識を覆すほどの『ご馳走』を作れる確信があった。
レシピの構想を練っているだけで、あっという間に時間が溶けていく。
快適な船旅は瞬く間に過ぎ去り、三日目の昼。
水平線の彼方に、ついに広大な大陸の影が見えてきた。
「見えたぞ、ガルディア帝国だ……!」
甲板に立ち、潮風を全身に受けながら俺は目を細めた。
徐々に近づいてくる港街の全貌は、石造りで洗練されたマルタやポルト・ラーラとは全く異なっていた。
巨大な丸太を荒々しく組み上げた建造物が立ち並び、港には無数の漁船や荷船がひしめき合っている。
遠目からでも、活気というよりは「熱気」に近い、野生のエネルギーがむわっと伝わってくるような気がした。
船が着岸し、タラップを降りて入国審査の検問所へと向かう。
「次の者、身分証を出せ」
検問所に立つ衛兵は、筋骨隆々とした狼の獣人だった。身長は二メートルを優に超え、分厚い胸板と鋭い牙が覗いている。
俺が冒険者ギルドの『Eランク魔石カード』と、商人ギルドの『銀色の会員証』を提示すると、狼の衛兵は鋭い嗅覚で俺の匂いを嗅ぎ、カードの刻印を確認して鼻を鳴らした。
「ふむ、冒険者であり商人か。怪しい匂いはしねえな。よし、通れ。ガルディア帝国へようこそ、人間」
「ありがとうございます」
あっさりと検問を通過し、俺は獣人帝国の地を踏みしめた。
街の大通りは、なんともワイルドな光景だった。虎、熊、猫、犬など、様々な獣の特徴を持つ人々が、驚くべき怪力で巨大な木箱や魚の入った樽を軽々と担いで歩いている。
すれ違う際の足音すらも重々しく、種族特有の体臭と、むき出しの土の匂いが混ざり合って鼻を突いた。
「すごいな……圧倒的な生命力だ」
俺は街の空気を肌で感じながら、まずは今夜の寝床を探すことにした。
大通り沿いにある、一際大きくて頑丈そうな木造の宿屋にチェックインする。
部屋に案内されると、獣人たちの巨体に合わせて作られているためか、ベッドも天井も何もかもが一回り大きかった。
荷物を置き、少し休憩したところで、窓の外はすでに夕闇に包まれ始めていた。
「腹も減ったし、まずはこの国の料理を勉強しに行こうか」
「キュイッ」
「ワフッ」
メイの認識阻害はここでも完璧に機能しており、獣人たちの鋭い嗅覚や直感をもってしても、ただの無害な野良の子犬にしか認識されていないようだ。
俺は宿の一階にある、広々とした大衆酒場へと足を運んだ。
店内は、一日の労働を終えた獣人たちで立錐の余地もないほど混み合っている。
丸太を半分に割ったような長机に陣取り、誰もが自身の顔の大きさほどもある木製のジョッキでエールを煽り、大声で笑い合っていた。
「おう、人間の客とは珍しいな。空いてる席に座りな!」
熊の獣人である店主が、豪快な声で案内してくれた。
俺はカウンターの隅に腰を下ろし、周囲の客が食べているものを観察した。
メニュー表などという洒落たものはなく、厨房から次々と運ばれてくるのは、呆れるほどに巨大で、そして極めて「シンプル」な料理だった。
「店主さん、俺にも彼らと同じものを」
「おう、今日の獲物の塩焼きと骨スープだな! すぐに出すぜ!」
ドンッ、という重い音と共に俺の目の前に置かれたのは、皿からはみ出すほど巨大な魔物魚のぶつ切りだった。
ウロコを剥がれ、ただ直火で表面を黒焦げになるまで炙っただけの代物だ。味付けは、全体に無造作に振りかけられた粗塩のみ。
そして隣には、魚の巨大な骨がゴロゴロと入った、濁ったスープの入った深皿が添えられている。
周囲の獣人たちは、その巨大な魚の塊を両手で掴み、骨ごとバリバリと食いちぎり、エールで流し込んでいる。
「美味い」というよりは、文字通り「エネルギーを補給している」といった貪欲な食べっぷりだ。
俺もナイフを取り出し、巨大魚の身を切り分けて口に運んだ。
「――ッ」
噛み締めた瞬間、強烈な弾力と共に、滴るような極上の脂と魚本来の旨味が溢れ出した。
(……なんだこれ。素材の質が、尋常じゃなく高いぞ)
アクアリスの海産物も素晴らしかったが、このガルディア近海の魔魚が持つ生命力と脂の乗りは、それすらも凌駕しているかもしれない。
粗塩が脂の甘みを引き立てており、確かにこれだけでも十分に食える。
次に、濁った骨スープを木のスプーンですくって飲む。
魚の骨髄から濃厚な出汁がたっぷりと溶け出しており、非常に力強い味わいだ。
だが。
「……もったいないな」
俺は思わず小さく呟いた。
素材の良さは圧倒的だ。しかし、直火で無造作に焼いたせいで、表面は焦げているのに芯の部分は少し生ぬるい。
粗塩は均等に振られておらず、一口ごとに塩辛すぎたり味がしなかったりする。
さらにスープに至っては、アク取りという概念が完全に欠如しているため、濃厚な出汁の奥に強烈な生臭さとエグみが残り、お世辞にも洗練されているとは言えなかった。
『腹がいっぱいになればいい』。
ポルト・ラーラの宿の主人が言っていた言葉の意味を、俺は舌で完全に理解した。
彼らはこの圧倒的な素材のポテンシャルを、ただの「燃料」としてしか見ていないのだ。
(もし、この巨大魚に岩塩を振って臭みを抜き、柑橘を搾ってカルパッチョにしたら。もし、この骨スープのアクを丁寧に取り除き、魚醤とシロシメジの粉末で味を調えたら……)
料理人としての探求心が、ふつふつと湧き上がってくるのを止められなかった。
足元ではメイが、俺が切り分けた魚の身を嬉しそうに平らげ、シルクも骨の周りの身を器用に食べている。
酒場に響き渡る獣人たちの豪快な笑い声と、むせ返るような熱気。
この荒々しくも生命力に満ちた国で、俺の持つ料理の技術とスパイスが、彼らにどんな驚きと喜びを与えることができるだろうか。
明日はさっそく、この街の市場を歩いてみよう。
口の中に残る荒削りな脂の余韻をエールで静かに洗い流しながら、俺は明日から始まる新たな料理の挑戦への、素朴で熱い期待を胸に抱いていた。




