第10話 至高の鍋と、狼肉の芳醇赤ワインシチュー
「――こちらが、今回の最終的な査定結果になります。ご確認いただけますか、フトシさん」
冒険者ギルド・マルタ支部の受付カウンターで、セリアがどこか緊張した面持ちのまま、一枚の明細書を差し出してきた。
その目は、まだ目の前にいる大柄な少年の規格外な成果を信じ切れていないようだった。
今回、俺が森で単独討伐したオークの素材のうち、自分で消費する分の「極上肉十キロ」だけをアイテムボックスに残し、それ以外の全ての部位をギルドの買い取り所に回していた。
解体職人のガルドが裏の解体所で手際よく処理してくれた素材の山は、どれも素晴らしい状態だったという。
特に、オークの個体から採取された『睾丸』は、大商人や貴族たちが精力剤の最高級原料として血眼になって買い求めるため、通常の肉や皮とは比較にならないほどの一級品として扱われる。
セリアが手元の書類を確認しながら、思い出したように顔を上げた。
「あ、それとフトシさん。今回討伐されたオークとファングウルフの『魔石』ですが、こちらはご自身で持ち帰られますか? それとも本日ここで換金いたしますか?」
「魔石、か」
俺の呟きに、セリアは分かりやすく説明を付け加えてくれた。
「はい。魔石というのは、魔物の体内――主に心臓の近くに形成される純粋な魔力の結晶のことです。この世界では、魔導コンロや魔導灯といったあらゆる魔導具の動力源として欠かせないエネルギー資源なんですよ。そのため常に需要が高く、ギルドでも安定した価格で買い取りを行っています。熟練の冒険者様ですと、ご自身の魔導具の燃料としてキープされる方もいらっしゃいますが、新人の頃は換金して当面の生活費に充てられる方が多いですね」
なるほど、魔導具の燃料。これから旅をしながら料理をする身としては、いずれ自分でも使う機会があるかもしれない。
だが、今はまず「足元の道具」を揃えるためのまとまった資金が最優先だ。
「今回は全て換金で頼みます」
「かしこまりました。では、オークの討伐報酬、特級品である睾丸の売却益、ファングウルフ三体分の特級毛皮、底値の安定している各魔石の査定額をすべて合算いたします。ガルドさんへの解体手数料と、フトシさんが引き取られた肉十キロ分の代金を相殺いたしまして……今回の純利益は、九万二千ゴールドとなります」
セリアが提示した数字を見て、俺は静かに胸を震わせた。今回の報酬だけで九万ゴールドを超えるとは、オークの希少素材と魔石の価値は伊達ではない。
元々手元にあった約八万ゴールドの資金と合わせれば、総額で十七万ゴールドを超える大金が革袋の中に収まることになる。
この世界では一ゴールドが日本のほぼ一円に相当するため、大人がまとまった事業を始めるのにも十分すぎる額だ。
「助かる。これで、次のステップに進めそうだ」
「本当に、Fランクの新人さんとはとても思えない手際です……。あ、ガルドさんとの『夕方の助手』の件も、ギルド側で正式に承認しておきましたので、明日からよろしくお願いしますね」
「ああ、ありがとう」
セリアに礼を言い、ずっしりと重くなったギルドカードと革袋をアイテムボックスへと収納する。
俺の目指す目的地は、自分の力で魔物を狩り、その場で極上の料理を提供する「さすらいの料理人」だ。
そのために必要なのは、潤沢な資金、そして何よりも、俺の相棒となるべき「専用の調理器具」と、いつか構える「自分だけの屋台」だった。
まとまった金が手に入った今、まずは足元を固めるための道具を揃えるべきだろう。
ギルドを出た俺は、夕闇が迫りつつある交易都市マルタの商業区へと足を向けた。
通りには、様々な種族の商人が声を張り上げる市場や、怪しげな掘り出し物が並ぶ専門店が軒を連ねている。
俺はその中から、ずんぐりとしたドワーフの職人が営む高級金物店へと入った。
「いらっしゃい……って、やけにガタイのいい兄ちゃんだな。うちの頑丈な得物でも探しに来たかい?」
店主のドワーフが、俺の分厚い胸板と丸太のような腕を見上げて豪快に笑う。
「いや、武器じゃない。一生物になるような、最高に頑丈な鉄鍋を探しているんだ」
「ほう、鍋か!」
店主は意外そうな顔をしたが、すぐに職人の目になって、店の奥から一つの巨大な鍋を運んできた。
それは、炭黒色に鈍く光る、ずっしりとした鋳鉄製の厚手鍋だった。
日本のダッチオーブンに似ているが、魔力を通しやすい鉱石が混ぜられているらしく、熱伝導率と保温性が極めて高そうだ。【鑑定】を使用すると、その詳細が脳内に流れ込んでくる。
【黒剛鉄の万能煮込み鍋】
詳細:ドワーフの熟練職人が叩き上げた鋳鉄鍋。極めて頑丈で、均一に熱を伝える構造を持つ。長時間の煮込み料理に最適。
「これをもらおう。それと、持ち運びができる魔導コンロと、切れ味の鋭い出刃包丁もくれ」
「まいど! 兄ちゃん、見る目があるな。だがその鍋、普通の人間じゃ持ち上げるだけで一苦労だぜ?」
「それくらいなら問題ない」
俺が片手でひょいと重厚な鋳鉄鍋を持ち上げると、ドワーフの店主は驚きに目を丸くした。
「お、見事な力だ。それだけ良い筋をしていりゃ、その鍋も本望だろうよ。しっかり使い込んでやってくれ」
「ああ、大事にする、ありがとう」
さらに市場を回り、料理の基本となる良質な岩塩、独特の渋みと酸味を持つ調理用の赤ワイン、状態の良いハーブ、そして肉の臭みを消して風味を引き立てる『クグの実』などのスパイスを大量に買い込む。
これらの荷物も、容量無制限のアイテムボックスがあれば、重さを一切感じることなく持ち運ぶことができた。
準備は整った。
次はいよいよ、手に入れた道具たちの「試運転」だ。
すっかり日が落ちた頃、俺は拠点にしている宿『黄金の麦穂亭』へと戻った。
エントランスに入ると、いつも通りに忙しなく動き回っていた恰幅のいい女将さんが、俺の姿を見つけて声をかけてきた。
「おかえり、フトシ! 今日も元気に頑張ってきたかい? 夕飯かい? 今日の日替わりは仕込みが良いから、期待してておくれよ」
「いや、女将さん。ちょっと相談があるんだが」
俺が真剣な声音で切り出すと、女将さんはその場の空気に飲まれたように、少し背筋を伸ばした。
「なんだい、藪から棒に。あんたがそんな顔をしてると、まるで重大な事件でも起きたみたいじゃないさ」
「実は、新しく自分の調理器具を買い集めてな。料理の試運転をしてみたいんだ。もし迷惑でなければ、宿の厨房の片隅か、あるいは裏庭のスペースを少し貸してはもらえないだろうか。火器は自分で用意したコンロを使う」
俺の言葉を聞いた女将さんは、ぽかんと口を開けた後、すぐに優しい笑顔を浮かべて自身の胸を叩いた。
「なんだい、そんなことかい! あんた、料理が趣味だったのかい。それなら、わざわざそんな道具を使わなくたって、うちの厨房にある鍋や火床を自由に使っていいよ? 丁度、今日の仕込みも一段落したところだしさ」
その心優しい申し出は、本当に有り難かった。だが、俺は首を横に振った。
「ありがとう。でも、今回はお断りさせてほしいんだ。これから先、自分の足で旅をしながら料理を作るために、買ったばかりの自分の道具たちの癖を掴んでおきたい。つまり、道具の慣らし運転なんだ。だから、場所だけを貸してほしい」
俺の生真面目なこだわりと、料理に対する並々ならぬ熱量を感じ取ったのだろう。
女将さんは一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐに深く頷いてくれた。
「なるほどねぇ、職人のこだわりってわけかい。分かったよ、そこまで言うなら止めやしないさ。裏庭の井戸の近くを使いな。あそこなら、万が一火の粉が散っても安全だからね。水も使い放題だよ」
「感謝する」
俺は女将さんに深く頭を下げると、足早に宿の裏庭へと向かった。
月明かりが静かに照らす裏庭で、俺は買い込んできたばかりの【黒剛鉄の万能煮込み鍋】と魔導コンロを設置した。
アイテムボックスから取り出したのは、街道で狩り、ガルドに綺麗に解体してもらった『ファングウルフの肉』だ。
ガルドの話では、この肉は非常に引き締まっていて硬いが、適切な処理をしてじっくり煮込むことで、ホロホロの極上肉に化けるという。
「よし、俺の異世界での初調理、始めるか」
まずはプロの鉄則に従い、肉の表面に浮き出ている余分な水分やドリップを、清潔な布できれいに拭き取る。
これを行うだけで、肉特有の生臭さを劇的に抑えることができるのだ。
次に、新調した出刃包丁を入れていく。
筋肉質な肉質は確かに手強いが、繊維の方向を見極めて的確に刃を入れれば、美しい断面が顔を出す。
食べ応えと縮みを計算し、やや大きめの塊にカットした。
そして、ここからが最も重要な工程だ。
焼く直前の肉に、市場で仕入れた純度の高い良質な岩塩を均一に振る。
さらに、すり鉢で細かく砕いた『クグの実』のスパイスを揉み込んでいく。
煮込み料理だからと後から塩を入れるだけでは、肉の芯まで味が染み込まず、肉そのものの旨味がぼやけてしまう。
この段階で下味の塩をしっかりと浸透させることで、加熱時に肉汁が逃げ出すのを防ぎ、肉本来のポテンシャルを内側から引き出すのだ。
魔導コンロに火を灯し、鋳鉄鍋をじっくりと熱する。
温まった鍋底にウルフの脂身を馴染ませ、下味をつけた肉の塊を投入した。
――チュウゥゥゥ、ジュワァァァァ!
静かな裏庭に、肉が激しく焼ける心地よい音が響き渡る。
強火で一気に表面を焼き固め、中に豊かな旨味の肉汁を閉じ込める。
表面が美しいきつね色に変わり、香ばしい焦げ目の匂いが立ち上る。
この『メイラード反応』による香ばしさこそが、シチューに深いコクと複雑な風味を与える隠し味になる。
表面に完璧な焼き色がついたところで、地元の赤ワインを贅沢に、ドボドボとボトル半分ほど注ぎ込んだ。
――ジュワァァァッ!
アルコールが激しく蒸発し、葡萄のフルーティーな甘みと酸味が肉の脂の香りと混ざり合う。
俺は木べらを使い、鍋の底にこびりついた肉の旨味の結晶を、赤ワインに溶かし出すように丁寧にこそげ落とした。フランス料理でいう『デグラセ』の技法だ。
さらに、森で採取しておいたふっくらとした白いキノコ『シロシメジ』と臭み消しのハーブを惜しみなく投入した。
シロシメジからは、濃厚で上品な極上の出汁が出ることを【鑑定】で知っている。
あとは、火を弱火に落とし、蓋をしてじっくりと時間をかけて煮込んでいく。
一時間、二時間と、夜の時間が静かに流れる。
俺は鍋の前に腰掛け、時折表面に浮き出る余分なアクや余分な脂を丁寧に取り除きながら、ただひたすらに鍋の中の様子を見守った。
分厚い黒剛鉄の鍋は、弱火の熱を均一に内部へと伝え、ファングウルフの頑固な肉の繊維を優しく、確実に解きほぐしていく。
やがて、裏庭全体を支配するほどの、圧倒的に芳醇な香りが完成を告げた。
赤ワインの角は完全に取れ、シロシメジの濃厚な旨味出汁、そしてファングウルフの脂が渾然一体となり、極上のデミグラスソースのような深い焦茶色のスープへと変化している。
ここで一度、スープをすくい上げて味見をする。
赤ワインの酸味とキノコの旨味、肉のコクは素晴らしい。だが、長時間煮詰まったことで少し全体の塩気のバランスに尖った印象がある。
俺は仕上げの調律として、ほんの少しの岩塩をパラパラと振り入れた。
最後の一振りの塩が加わった瞬間、スープの味が劇的に変化した。
バラバラだった酸味、コク、旨味の輪郭がキリッと引き締まり、完璧な調和を魅せたのだ。
これこそが、料理人の味の引き算と足し算だ。
「……よし、完璧だ」
器に盛り付け、まずはスープを一口、口に運ぶ。
「――っ、美味い……!」
口の中に広がったのは、言葉を失うほどの深いコクだった。
下味の岩塩が肉の旨味を内側から支え、赤ワインの心地よい酸味が、肉の力強い野性味を完璧に気品ある旨味へと昇華させている。
そこにシロシメジの上品な出汁が重なり、スープというよりも、一つの完成された濃厚なソースのようだ。
絶妙な塩加減が、すべての食材のポテンシャルを何倍にも跳ね上げている。
続いて、ホロホロになったファングウルフの肉を噛み締める。
歯を立てた瞬間、肉の繊維が優しく解け、閉じ込められていた肉汁と赤ワインの旨味がジュワリと溢れ出した。
全く硬さを感じさせないその柔らかさは、まるで高級レストランで何日も煮込まれた特選ビーフのようだ。
スパイスのピリッとした爽やかな刺激が後味を引き締め、いくらでも食べ進められる。
「これなら……客に出しても、絶対に満足してもらえる」
自分の選んだ道具、プロとしての確かな技法、そして丁寧な塩加減によって、未知の食材を最高の一皿へと変えることができた。
胸の奥から湧き上がる確かな手応えに、自然と満足気な笑みが浮かぶ。
ふと振り返ると、厨房に繋がる勝手口の扉が少しだけ開き、そこから信じられないといった様子でこちらを見つめる女将さんの姿があった。
あまりの芳醇な香りが、裏庭から建物の中にまで漂っていたらしい。
「ちょっと、フトシ……。あんた、一体全体、裏庭でどんな魔法を使ってるんだい? 宿の食堂中が、お腹の減る信じられないくらい良い香りで満たされちゃってさ。仕込みをしてた手が止まっちまったよ」
女将さんは驚きと好奇心が入り混じった顔で、じっと黒い鋳鉄鍋を見つめている。
俺は小さく笑みを浮かべ、アイテムボックスから新しく取り出した深めの陶器の器に、ホロホロに煮込まれた肉と、濃厚なソースのようなスープをたっぷりと盛り付けた。
「場所を貸してくれたお礼です。もし良ければ、温かいうちに食べてみてください」
「えっ、いいのかい? じゃあ、ありがたくいただくよ……」
女将さんは嬉しそうに器を受け取ると、備え付けの木製スプーンで、まずはスープを慎重に口へと運んだ。
その瞬間、彼女の目が限界まで見開かれる。
「――な、何これ!? 信じられない……! 濃厚なのにちっともしつこくなくて、お肉の旨味がこれでもかってくらい押し寄せてくるじゃないさ! このお肉、まさかファングウルフかい? あんなに硬くて筋張った肉が、なんで口の中で溶けるみたいに柔らかくなってるんだい!?」
続けて大ぶりの肉の塊を頬張った女将さんは、あまりの美味しさに頬を抑え、何度も何度も幸せそうに頷いた。
「これ、本当にあんたが作ったのかい? そこらの高級料理店のシェフだって、こんな味は出せないよ。塩加減も絶妙で、スパイスの使い方もプロの手際だ。まいったねぇ、こんな凄い料理人を泊めてたなんてさ」
「喜んでもらえて良かったです。これから自分の足で旅をしながら料理を作りたいので、そう言ってもらえると自信になります」
俺の言葉に、女将さんは器を抱えたまま、しみじみとした表情で俺を見た。
「旅の料理人、かい。あんたならきっと、行く先々でたくさんの人を笑顔にできるよ。……そういえばさ、いつも『女将さん』って呼ばれてるけど、私の名前はマーサっていうんだ。これからは気軽にマーサって呼びな。あんたみたいな凄腕の料理人と、もっと仲良くなりたいからね」
「ありがとうございます、マーサさん。俺はフトシです。これからもよろしくお願いします」
マーサさんは「よろしくね、フトシ!」と、太陽のような温かい笑顔を咲かせた。
手に入れた道具の癖は完全に掴んだ。確かな調理技法と絶妙な塩加減が、異世界の食材に命を吹き込む。
資金は徐々に溜まり、道具の扱いも馴染んできた。
明日からはガルドの下での解体修行が始まる。俺の「さすらいの料理人」への道は、今、確実に、そして力強く前へと進み始めている。




