後土御門天皇と西陣南帝
23歳で即位した成仁親王(後土御門天皇)は、父の院政という助けを受けながら勉強を続けてきたが、この頃から足利氏やその家臣のお家騒動、そして全国の守護大名の権力争いが激化していく。
この争いはやがて東軍・西軍に分かれた大規模な戦へと膨らんでいった(応仁の乱)。
戦が京で起こったため、上皇や天皇は東軍の足利将軍家の花の御所に避難したが、これは足利氏にとっても利になることだった。これで自分たちの後ろ盾に天皇がいることになるからだ。
しかしそれに対抗するために西軍大将の山名宗全は、南朝後胤を「南帝」として担ぎ上げることにした。小倉宮の末裔ということなので小倉宮聖承の子か孫なのかもしれないが、よくわからない。
後花園上皇は東軍から西軍討伐の綸旨を出してほしいと頼まれるがそれを断る。そもそも応仁の乱の一因はかつて自分の出した綸旨だったからだ。自分が天皇の時代に足利将軍に対抗するために張り切ったことが仇になってしまったとういうことになる。責任を感じた上皇は院政をやめて出家し、両軍に停戦を促したが聞き届けられることはなかった。そして法皇は哀しみの中、数年後に病気で亡くなった。
戦は長引き、京の町は焼かれ、朝廷・公家の領地はどさくさまぎれに守護大名に奪われて財政は貧窮した。多くの公家が戦火の及ばぬ地方へと避難し、皇室行事もままならなかった。しかし天皇と将軍足利義政はそんな状況から目をそらして花の御所で宴会に興じていたという。
一方、西陣南帝は、山名宗全が高齢で亡くなって以降、両軍の和議に入ると邪魔者扱いされて事実上追い出される羽目になってしまった。南帝はその後各地を転々としたが行方はわからない。それから四百数十年の間、南朝後胤は歴史から姿を消す。
約11年にも渡った応仁の乱が終わると天皇は焼け果てた京の復興と、皇室行事の復活を行なおうとするが、それをするにはあまりにも財が足りなかった。天皇の在位期間は長かったが戦乱と貧困に苦しめられた36年だった。天皇が亡くなった時、葬儀の費用もままならずしばらくの間御所に遺体が置かれたままだったと言われる。




