称光天皇
躬仁親王は11歳のとき、後亀山上皇が吉野へ戻った隙に実仁と改名し後小松天皇から譲位された(称光天皇)。そして後小松上皇が院政を敷く。
この皇位継承に怒った元南朝側の武士は兵を挙げたがまもなく鎮められ、足利の説得に応じて後亀山上皇も京に戻った。だが後亀山上皇の皇子はしばらくしてまた吉野へ行ったという。
天皇は生まれつき病弱で、将来を不安視されていた。また、日ごろの行いに問題があった。世継ぎはどうなるのだろうかと囁かれたことが天皇のコンプレックスになったのか、元々気性の荒い人物だったのか、天皇はしばしば家臣や女官を鞭で打つというサディスティックな趣味に走っていた。あまりに酷いので征夷大将軍の足利義持が上皇に苦言を呈したほどだ。
天皇が18歳の時、寵愛していた女官が妊娠して待望の子供かと思われたが、天皇は「この子は貞成王の子だ」と言って認知しようとしなかった。貞成王は崇光天皇の孫であり、天皇に世継ぎが生まれなかった場合の有力な皇位継承候補者だったので、それを過剰に意識してこのような発言になったのかもしれない。
そして天皇には3つ下の弟の小川宮(本名不明)がいたのだが、これが天皇に輪をかけて気性の荒い人物だった。酒の席で実の妹に淫らなことをしようとしたり、天皇がペットとして可愛がっていた羊を撲殺したりと、兄弟の仲は最悪だった。
ある時天皇が重い病気に罹って死の淵をさまよったとき、上皇らは小川宮を儲君(事実上の皇嗣)にした。だが奇跡的に快復した天皇はそれを知って激怒。そのせいで上皇とも不仲になってしまったという。将軍の義持はなんとか仲を取り持とうと奔走したようだ。
だが小川宮は22歳の時に急死。あまりに突然だったので暗殺されたのではとも囁かれた。
上皇は新たな皇嗣として貞成王を養子にして親王宣下したのだが、天皇にとっては自分の后を寝取った相手。これが天皇を激怒させることになる。仕方なく貞成親王は出家して皇嗣を辞退した。
残念なことに天皇にはその後、皇女が一人誕生しただけで世継ぎの子が生まれないまま28歳で病死することになる。上皇は貞成親王の子の彦仁王を養子にして皇位を継がせることとした。このとき、貞成親王には後崇光院の号が贈られたが、問題が起こらぬよう親王は辞退している。




