応神天皇
政務に忙しい太后(神功皇后)は、幼き我が子の養育を河内国の誉田(現在の大阪府羽曳野市辺り)を治める五百城入彦王子に頼んだ。この王子は成務天皇の同母弟で、成務天皇が太子時代の第二王位継承資格者だった人だ。幼き大王は気比大神に自分の名前を献上したが、お返しに貰ったのがイルカの大群だったので名無しになっていた。そこでこの地の名前から誉田別尊と改めて名付けられた。また将来的に五百城入彦王子の孫娘を大后にする約束を取り付けた。太后からすると、誉田別尊の血統を疑う人々を黙らせたい、五百城入彦王子からすれば自分の血縁から大王を出したい、という思惑からの婚約だが、当の本人たちは姉弟のように仲良くやっていたようだ。
太后が亡くなると大王は正式に即位。武内宿禰のサポートを受けながら自ら政務を始める。その方針は太后のそれをそのまま継承したもので、韓の国々の技術と文化を積極的に取り入れていった。百済からは学者を呼び、大陸の思想(儒教)を学んだ。
五百城入彦王子の3人の孫娘、高城入姫命、仲姫命、弟姫命は皆、年頃になると誉田別大王の后となった。また当然ながら息長の一族の姫・息長真若中比売も妃となった。この妃が産んだ稚野毛二派王子は王位継承候補になることはなく臣下に下ったが、息長氏の祖となった(息長の一族はもともと有力豪族だが、ここで大王家から分かれた氏族となったことで格が上がった)。
誉田別大王の治世は大きな問題が生じることもなく安定したものだったが少しだけ困ったことがあった。それは後継者だ。自分が物心つく前からの約束で、五百城入彦王子の孫娘たちの子供の誰かを太子にする筈だったのだが、大王が老いてから妃に迎えた宮主宅媛の子、菟道稚郎子王子が可愛くて仕方がなかったのだ。少々気性の荒いところもあったが、賢く勉強熱心で政務を任せてもいいと思える能力があった。
大王は太子候補の二人、大山守命(高城入姫命の子)と大鷦鷯命(仲姫命の子)を呼び出した。ちなみに弟姫命の子供は王女ばかりだったので太子候補にならなかった。
「お前たちの子供たちも元気なようだが、どうだ可愛いか?」
「可愛いです」「可愛いです」
「じゃあ、小さい頃と大きくなってからとではどっちが可愛い?」
大山守命は素直に自分の子供のことを思い浮かべ、大きくなってからです、と答えたが大鷦鷯命は父の言いたいことを察して、小さい頃のほうが手が掛かるからかえって可愛い、と答えた。
大王は大喜びでそうだろうそうだろうと頷き、菟道稚郎子王子を太子にすることを決めた。後日それを正式発表し、これで思い残すこともないとしばらくして静かに亡くなった。