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歴代天皇即位の軌跡  作者: じゅう
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仁徳天皇

 菟道稚郎子王子(うじのわきいらつこのみこ)は裕福な大王家の子として生まれ、何不自由することなく育った。彼は百済から来朝した学者を家庭教師として漢字や儒教を学び、その物覚えの良さから父である大王の寵愛を受けた。そのまま成長すれば彼は山城国の菟道(現在の京都府宇治市辺り)を治める首長となって幸せな人生を歩むはずだった。

 しかし、父王がその愛情ゆえに、彼を太子に指名してからその人生は狂いだす。周りの人間の態度が明らかに変わった。異母兄の大鷦鷯命(おおさざきのみこと)のように変わらず接する者もいたが別の異母兄の大山守命(おおやまもりのみこと)は明らかに彼を敵視するようになった。理由は彼もわかっている。菟道稚郎子王子の母親は和珥(わに)氏の姫だが大山守命や大鷦鷯命の母親は王族の姫で、太子となるならばより高貴な血統の者であることが常識だったからだ。菟道稚郎子王子は大鷦鷯命に、やはり自分は大王になるのにはふさわしくないのではないか、兄上こそ大王になるべきではと相談したが、大鷦鷯命は大王が決められたのだからそれに応えるのだ、と励ますのみだった。

 父王が亡くなると、菟道稚郎子王子は大鷦鷯命から緊急の連絡を受けた。大山守命が兵を集め、お前の命を狙って夜討ちを掛けるつもりだ、と。彼はそれを聞いて自分の側でも兵の準備をし変装して大山守命の目をあざむき返り討ちにした。この事件は菟道稚郎子王子を更に悩ませることになる。

 大王家の古い慣習は末子相続であり、自分が大王になることも不思議ではない。だが、最近では王子の母親の身分が重要であり、また、兄を差し置いて弟が上に立つことは儒教の教えに反する。父王が自分を太子に指名したことは間違っていたのか。いや、大王の言葉に逆らうことはそれこそ間違いではないのか。このような相反のせいで自分は己の身を守るためとはいえ、異母兄を殺してしまった。

 思い余って菟道稚郎子王子は自らの命を絶った。


 大鷦鷯命は難波で大王に即位すると(元々菟道稚郎子王子が大王になると思っていたので大和から出て宮を作っていた)、すぐさま第一王子の去来穂別王子(いざほわけのみこ)を太子とした。太子の母親の大后は、異例なことに王族ではなく家臣の葛城襲津彦(かつらぎのそつびこ)の娘の磐之媛命(いわのひめのみこと)であった。悲劇を繰り返したくないという思いから急いで太子を決めたかった為、王族の姫を選んでいる暇がなかったからだろうか。或いは磐之媛命が強くそう願ったからかもしれない。彼女はとても嫉妬深い性格で、大鷦鷯大王(仁徳天皇)が幾人かの女性を妃として迎えようとするが、磐之媛命の直接・間接的な妨害を受けた話が伝えられている。これは磐之媛命の女としての独占欲もあっただろうし、自分の子を大王にするためにライバルとなる王子を誕生させたくないという思惑もあったのだろう。例外的に日向の髪長媛(かみながひめ)に対して特に嫌がらせをしていないのは身分が低かったからと考えられる。

 大鷦鷯大王の時代には、民が貧しい暮らしをしていると知り、税を6年もの間徴収しなかったと伝えられている(この時代の「税」というのは農作物の一部を納めることと公共工事への強制参加を意味している)。にわかには信じられない話だが、神功・応神の時代に莫大な蓄財をしていたのか、新羅や百済からの朝貢だけでも十分賄えていたのかもしれない。課税再開にあたっては大規模な治水工事を行っているのでモチベを下げないために民の心を掴んでおきたかったという狙いもあっただろう。

挿絵(By みてみん)

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