恒良親王(天皇)と光明天皇①と後醍醐天皇③
後醍醐天皇が山を下りると、足利軍の兵が近づいてきてさっそく三種の神器の引き渡しを要求した。天皇はそれに従ったが、そのまま身柄を拘束され花山院に幽閉されてしまった。
光厳上皇は足利尊氏から治天の君とされていたが、改めて持明院統から天皇を即位させたいという意向を見せ、院宣を出して、同母弟の豊仁親王に践祚する(光明天皇)。このとき院政を敷くために豊仁親王を養子にしている。そして即位には三種の神器が必要であるので後醍醐天皇から渡してもらう必要がある。尊氏は吉野山の後醍醐天皇が三種の神器を光明天皇に渡すかわりに、後醍醐天皇の皇子である成良親王を皇太子にすることを交換条件にするつもりだった。
光明天皇は即位の礼を行うとまもなく足利尊氏を征夷大将軍に任命した。
だが、後醍醐天皇は……。
「すり替えておいたのさ!」
なんと、光明天皇に渡した三種の神器はまたもや偽物だったというのだ。そして自分は本物を持って花山院から脱出。吉野山へと逃げ込むとそこで復位を宣言した。つまり、恒良親王の即位は無かったことにした。この行動を以って成良親王は皇太子を廃され幽閉されることになった。
後醍醐天皇は北畠顕家や新田義貞に救援の軍を要請した。だがどちらも足利勢の軍との戦いで手が回らず、吉野山に駆け付けるのは困難だった。
一方、恒良親王は尊良親王と新田義貞らと共に敦賀の金崎城に籠るとそこで天皇として活動を始めた。だがまもなく足利勢の軍に攻められ苦戦。兵糧もつきかけて義貞が救援要請をしに城を空けたところ、その隙をつかれて攻め込まれ、尊良親王は自害、恒良親王は捕らわれてしまう。恒良親王は成良親王と同じところに幽閉されたがやがて毒殺されてしまった(これは『太平記』の記述によるもので、もうしばらく生きていたという説もある)。
やむを得ず義貞は吉野の後醍醐天皇の元へと向かうがその途中で討ち死にする。また北畠顕家も同様に吉野へ向かう途中で無念の討ち死にをする。
頼りにしていた二人の武将の死の知らせを聞いた後醍醐天皇は気落ちし、体調を崩して最期の時を悟る。そして義良親王に皇位を継がせる遺言を残すと息を引き取った。




