近衛天皇
鳥羽法皇(出家した)の后、藤原璋子は白河法皇の死後から冷遇されるようになり、さらには新しい后の藤原得子に呪いを掛けたと疑いを掛けられ、自分の居場所が無くなったと落飾(高貴な身分の女性の出家)する。そして数年後にひっそりと亡くなった。
崇徳上皇は院政をあきらめざるを得なくなったが、自分には和歌があるさと歌会をしながら余生を静かに過ごそうと考えた。そんな時、同じ屋敷に住む同母弟の歌う声が聞こえてくる。雅仁め、今様なぞに夢中になりおってと上皇は苦笑する。
雅仁親王は藤原信西の妻を乳母とし養育されていたが、政権争いには無縁と思われ、のんびりと育てられた。学問や武芸に優れているわけでもなく、芸術方面でも凡庸な親王だった。ただ「今様」と呼ばれる歌にはどっぷりとハマって毎日のように歌っていた。しかし今様は庶民の流行歌であり父(鳥羽法皇)や兄(崇徳上皇)はそんな親王を軽んじていたようだ。
そんな雅仁親王も源懿子という妃をもらい、守仁王を儲けたのだが懿子は出産してまもなく亡くなってしまう。そこで藤原得子は守仁王を引き取り養子とした。重仁親王に引き続き、法皇と璋子の間に生まれた親王の子を養子にしたのには天皇候補の義理の親となることで政治的影響力の強化を目論んでいたためだと思われる。
体仁親王は2歳で即位(近衛天皇)したため、藤原忠通が先代同様摂政となったが、同じころ忠通の弟の頼長も頭角を表し、藤原氏の身内での権力争いとなっていた。だが頼長は有能な人間でありながら、少々厳しすぎる処断を行うところがあり次第に朝廷内で孤立していく。天皇もまだ少年で難しい政治のことはわからなくとも頼長の性格を嫌うようになっていった。
天皇は生来病弱だったが17歳のときに病に罹り、目を患ったのち亡くなってしまう。
そして誰が言い出したものやら、頼長が天皇を呪ったのだという噂が流れるのだった。
この後源平合戦の時代になっていくため、保元物語・平治物語・平家物語・吾妻鏡も参考にしていきます。なので次の更新はしばらく後になります。




