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歴代天皇即位の軌跡  作者: じゅう
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崇徳天皇

 顕仁親王が即位した(崇徳天皇)のは5歳のときだったので、摂政として藤原忠通が就いたが、最高権力者が曾祖父の白河法皇なのは相変わらずだった。

 一方、強制的に譲位させられた鳥羽上皇は祖父を疎ましく思いつつも、その絶大な権力を羨望し、じっと耐えて自分の天下を待った。その間、中宮の璋子との間に多くの子を儲けたがそれは独占欲のあらわれだったのかもしれない。しかしそうして生まれた子供には不幸が続いた。通仁親王は目に障害があったうえに病弱で6歳で亡くなり、君仁親王は四肢に障害があってまともに立ち上がることができず公式行事に参加することができなかった。また、禧子内親王と恂子内親王は賀茂神社の斎院となるものの病気で辞めることになってしまったという。その後に生まれた雅仁親王は健康な男児であり、のんびりと育てられた。

 政務を曾祖父に任せていた天皇は、和歌に没頭し歌合せの会を頻繁に開いて遊んでいた。やがて天皇が年頃になると、忠通の娘の聖子を后としたが、巡り合わせが悪く身籠る様子はなかった。

 そんな頃に、白河法皇は病に倒れそのまま帰らぬ人となってしまう。老いてなお壮健だった法皇だったが病に罹るとあっけないものだった。そしてその後を襲ったのが鳥羽上皇である。目の上のこぶが取れた上皇は、白河法皇の作り上げた院政というシステムに乗っかり権勢を振るった。

 かつて白河法皇に関白を辞めさせられた藤原忠実を復帰させ、忠実の娘の泰子およびもう一人藤原の娘の得子を后として迎えた。

 対照的に璋子は冷遇されるようになった。白河法皇が亡くなったときには子供を身籠っていたのだがその子・本仁親王は幼いうちに出家させられた。

 そして得子が最初の男子である体仁(なりひと)親王を産むと、鳥羽上皇のややこしい計画が始まった。体仁親王は、なかなか子供の生まれない聖子のもとに養子として出され、まもなく皇太子となった。天皇の異母弟を養子にしたということになる。聖子は体仁親王をかわいがったが、天皇としては自分の実の子でもないのでそれが面白くなく、次第に女官の兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)を寵愛するようになった。その可愛がり方が露骨だったので、周りの人々は目を背けたくなるほどだったという。やがて兵衛佐局は、天皇にとっての初めての実子である重仁親王を産むが、今度は鳥羽上皇の意向により、重仁親王を(体仁親王を養子に出したため男子のいなくなった)得子の養子とすることになった。なんだか変な話なのだが、このとき重仁親王の乳母となったのが、武将の平忠盛の妻だった。忠盛は天皇の歌合せにもよく参加した親しい人物だったのでそれを信頼して預けることとした。

 そして体仁親王が2歳のときに、鳥羽上皇は天皇に体仁親王への譲位を促す。白河法皇や鳥羽上皇がやってきたように幼い天皇を立てて上皇が後見として院政を行うシステムが確立していたのでまっとうな話だと思い天皇は譲位した。しかし……。

挿絵(By みてみん)

 体仁親王に譲位する宣命文には「皇太子に」と書かれるはずが「皇太弟に」と書かれていた。院政システムでは親→子の流れでないと院政ができなかったのだ。

 鳥羽上皇が自分を嫌っていることは知っていた。だが、この騙し討ちのようなやり方には激しく怒りを覚え父を恨んだ。

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