後一条天皇
三条天皇の譲位を受け、敦成親王が即位した(後一条天皇)のは9歳の時。藤原道長は天皇の外祖父であり摂政として代わりに政務を執った(計画通り)。皇太子には、三条天皇の意向通りその皇子である敦明親王が立太子したのだが……。
道長は敦明親王を皇太子にすると約束していても、天皇にするとは約束していなかった。
道長は娘の彰子が産んだ一条天皇の二人の皇子を二人とも天皇にしたいと思っていた。だが、ここ最近の慣例通り冷泉天皇の統と円融天皇の統との代わりばんこではそれがいつになるのかわからない。そこで敦明親王には皇太子を辞退してもらおうと企んでいた。企んでいたというよりは露骨に態度に表していた。
三条上皇が存命の間は義理を通して皇太子を丁重に扱っていたが、上皇が譲位後1年で病気のため亡くなると、道長は貴族たちに、敦明親王の宮には遊びに行くなと圧力を掛けた。役人や身分の低い下働きの人間も同様に遠慮するようになったため、東宮御所は寂しい場所になり、敷地内は雑草がぼうぼうになってしまったという。そんなときに皇太子は道長から娘との縁談を持ちかけられる。その際には篤くおもてなしいたします、と。だがそこには「そうしてほしかったら皇太子を辞退せよ」という含みもあった。敦明親王は現状のしんどさに耐えかね、道長の申し出を受けることにした。母の娍子は反対したが、親王は自分はもともと堅苦しい生活が嫌だったのだと言って押し通した。
道長は敦明親王の意向を聞きいれると、特別に上皇に準ずる尊号(小一条院)を贈り、約束通り娘の寛子を妃として差し出した。そしてわざとらしいくらいに丁重に扱った。親王の食事の時には道長自ら食器を磨いたり毒見役を引き受けたという。
このようなやりとりを経て、天皇の一つ違いの同母弟の敦良親王は新たな皇太子となった。
天皇は4歳のときに父を亡くし藤原の人間に囲まれて育った。幼くして即位してから二十年の間、天皇とはこういうものだと自分の立場には何の疑問もなく生きたのだろう。天皇自身の業績は記録されていない。何不自由ない生活を送ったが、平安時代の貴族の食事は栄養学的に良質なものとは言えず、天皇は糖尿病に罹ってしまう。そのせいなのか、天皇は后を一人しか迎えず、子供も皇女二人だけだった。そして糖尿病が悪化し天皇は亡くなった。
大鏡の記述分はここまでです。次の部からは今鏡・愚管抄などを参考にしていきます。




