三条天皇
居貞親王は一条天皇の即位とともに皇太子となった。当時の藤原氏の最高権力者の兼家の孫だったということもあるが、この頃には冷泉天皇の子孫と円融天皇の子孫が交互に天皇になるという不文律ができていたようだ。皇太子時代には兼家の娘や孫娘を后に迎えていたが、巡りあわせが悪かったのか子供は生まれなかった。ただ一人、藤原娍子との間にだけは子供を多く儲けていたが娍子は兼家とは遠縁であった。
居貞親王は先代から皇位を継ぎ即位(三条天皇)。皇后を娍子とした。そして皇太子はというと、一条天皇の中宮の彰子が親代わりとして育てていた敦康親王を皇太子にして欲しいと申し出る。しかし道長はそれを却下して彰子の実子の敦成親王を皇太子とした。
天皇が即位したときには36歳。摂政をつける年齢でもない。この時の藤原氏の最高権力者は道長だったが天皇とは交流が薄く、先代から引き続き内覧(関白に準ずる地位)を任せたが関白にすることはなかった。道長も天皇の縁を深めようと娘の妍子を差し出し中宮としたが、生まれてきたのは世継ぎにはならない禎子内親王だった。
道長はこれで三条天皇と仲良くするのを諦め、孫の敦成親王の即位を待つようになった。
不幸なことにこの頃、天皇はとある薬を飲んだ後に眼病を患い視力を落としていた。道長はそれを知り譲位を勧めたが天皇も意地でそれを拒否していた。しかし、やがて内裏で2度も火災が起きたことで精神的にもダメージを受けた。
眼病や火災など、何やら怪しすぎることが重なっているが歴史書ではあまり深掘りされていない。
天皇はある晩、失明寸前の目で月を見上げながら歌を詠む。
心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
(つらいことばかりの人生だけれども、生きていればこの月も恋しく思う時がくるのだろう)
天皇は道長を呼び、敦成親王に譲位することを告げる。そしてその条件として我が子の敦明親王を皇太子にせよと命じた。道長はそれを約束した。




