醍醐天皇
敦仁親王が父から譲位されて即位した(醍醐天皇)のは13歳の時。摂政は立てなかったが、父の宇多上皇の意向により、左大臣に藤原基経の子、時平を。右大臣には菅原道真を任命した。時平は決して無能な人物ではなかったのだが、このとき二十代。そして道真は五十代で、知識や取り計らいに関しては道真のほうが長けていた。時平はそこにコンプレックスを抱いていたのか、自分のほうが上の位なのだからと強引に意見を押し通すことがあり、道真はしばしば困っていたという。
天皇はまだ年若い少年だったが、朝廷としては早めに皇太子を決めておきたかった。そこで非公式ではあるが、天皇の弟を皇太弟にしてはという意見が囁かれるようになった。
それを嫌がったのが時平だった。時平には妹の穏子がいて、将来的には彼女を天皇の后とし、産んだ子を皇太子にと考えていた。また、天皇の異母弟である斉世親王は菅原道真の娘を妃にしており、彼が皇太弟となれば権力争いは必至であった。そこで時平は天皇に対し、道真らがあなたを退位させ、斉世親王を天皇にしようと企んでいるようだ、と告げる。当時17歳の天皇はそれを信じ、道真とその仲間たち、および道真の子供たちを左遷あるいは流刑にすると発表した。これに驚いたのが宇多法皇(出家した上皇)で、道真を擁護しようと自ら天皇に面会しようとしたが聞き入れられなかった。道真は太宰府に左遷され、斉世親王は出家した。この事件のすぐ後に、藤原穏子は天皇に嫁いだ。
それほど身分の高い家柄ではなかったものの学問を修めることで右大臣まで上り詰めた道真だったが、そこからの急転落に完全に意気消沈。既に高齢だったこともあり2年後には亡くなった。
穏子が待望の皇子の保明親王を産むと、時平の後押しでただちに皇太子となった。天皇と時平の関係は良好で、協力し合いながら善政を行ったといわれている。
だが数年後、道真の失脚に加担した藤原定国が病死、藤原菅根が落雷に当たって死去、時平が病死、道真の後に右大臣になった源光が溺死と不慮の死が続き、これらは道真の祟りではないかと囁かれた。醍醐天皇は後の世に聖帝と称えられるが、道真の処分については汚点であり、黒歴史にしようと関係書類を破棄させている。それでもまだ道真の祟りを恐れ続けた。
皇太子の保明親王が21歳の時突然亡くなると、天皇は道真の怒りはまだ治まらぬのかと、ついには右大臣に復帰させる。死んだ後のことではあるが、とりあえず道真の子たちにとっては名誉回復となった。だが、2年後、保明親王の代わりに皇太子となった親王の子、慶頼王が5歳という幼さで亡くなってしまう。そのため次の皇太子は保明親王の幼き弟(慶頼王より年下)の寛明親王とした。
さらに5年後、平安京を激しい落雷が襲い、朝廷の役人たちが多数亡くなる。その様子を見た天皇は道真の祟り未だ消えずと愕然とし、そのまま体調を崩してしまう。そして寛明親王に譲位すると数日後に亡くなった。




