光孝天皇
陽成天皇は子供が生まれる前に退位したため、藤原基経らの群臣が集まって次の天皇を誰にするか話し合った。まず始めに候補に挙がったのが恒貞親王。仁明天皇の時代に皇太子になったが、廃太子の処分を受けた親王だ。
だが恒貞親王はきっぱりと断る。親王は既に出家しており、皇位を嫌っていた父の淳和天皇の影響を受けた彼が辞退するのは当然と言えた。
続いて左大臣の源融が「私も嵯峨天皇の子なのだから、なんなら私がなってもよい」と申し出るが、基経に「あなたは臣下に下った方ではありませんか」と却下された。
そしてまた群臣の相談の上、候補にあがったのは文徳天皇の異母弟、時康親王だった。このとき親王は既に55歳。基経の請願を受諾したが、自分は所詮、中継ぎの天皇でしかないのだろうと悟り、即位する(光孝天皇)と、すぐさま自分の子供たちを全員臣籍降下させた。そして政務や皇太子の選定も基経に任せることにした。天皇自身は政務にはあまり携わらず、宮中行事など芸術方面に力を入れた。
即位から3年半後、天皇は病に倒れ、群臣が集まって緊急に皇太子を決めることになった。最有力候補は陽成上皇の同母弟の貞保親王だったが、母親の高子と基経は陽成天皇のおいたの件で険悪になっており、貞保親王を天皇に付けたくはなかった。そこで少々強引ながらも、一度は臣籍降下させた源定省を皇族に復帰させ、定省親王とし、天皇の許可を得て皇太子とした。源融は立場がない。
天皇は立太子したその日のうちに亡くなった。




