陽成天皇
幼くして即位(陽成天皇)した貞明親王であったが、清和上皇の意向により、藤原基経が摂政となり政務を執った。
しかし天皇は先代と違って少々やんちゃな子供だった。父の清和上皇や母の高子がそれを窘めていたようだが、天皇が12歳のとき、清和上皇が出家して修行の旅に出てしまうと天皇は荒れだした。なお、清和上皇は厳しすぎる修行のために体調を崩してそのまま亡くなってしまった。その頃の天皇の行いは、やんちゃの延長線上にあるようなものもあるが、武烈天皇の行為のようなシャレにならないものもあり、その言い伝えがどれだけ本当なのかわからない。朝廷では天皇は物の怪憑きではないかと噂された。基経は天皇をしばしば諫めたが、母の高子は天皇をかばい、両者は険悪になっていった。基経は本気で嫌になったのか、摂政をやめたいと何度も辞表を出したが認められなかった。
そんなある日(天皇16歳)、天皇は宮中で乳兄弟の源益とふざけて相撲ごっこをして遊んでいたが、そこでうっかりエキサイトしてしまったためか不幸にも打ちどころが悪かったせいか、益が亡くなってしまう。宮中での出来事でハッキリとした取り調べが行われたわけではないが宮中では天皇が人を殺したと囁かれた。天皇はまもなく「私は病気なので天皇の座を降りたい」と書状を出したが、これは悪さした高校生が自主退学という名の強制退学をさせれられたようなもので、堪忍袋の緒が切れた基経に退位を迫られたからのようだ。
このとき天皇は何人かの后を迎えていたが、まだ若かったため皇子・皇女は誰も誕生していなかった。




