嵯峨天皇
神野親王は即位(嵯峨天皇)すると、平城上皇の子の高岳親王を皇太子とした。
ところが譲位してまもなくすると、幸か不幸か平城上皇はすんなりと体調が回復した。これならばまだ政務を執れたと譲位を後悔した上皇だったが、そこを藤原薬子に励まされ(あるいは焚きつけられ)平城京から上皇権限で令を発し、まるで朝廷が二つあるような状態にして混乱を招いてしまった。そして折悪しく天皇のほうが病気になり、平城京からは三種の神器の神璽を返してはどうか(つまり、上皇を重祚させよ)と申し出があった。そしてとうとう上皇は平城京を都とすると発令する。
そこまでされては天皇も黙っているわけにはいかず、平城京に勤める家臣を呼び戻すと、薬子を宮中から追放し、仲成を左遷すると令を発した。上皇はそれを聞き、強硬手段を採るために兵を集めようとしたがその前に天皇側の兵が動き、仲成を討つ。行く手を遮ぎられた上皇は降参。出家してもう政務に関わらないという意志をみせた。また、薬子は服毒自殺した。
この件で天皇は上皇側についた人々を処罰することになるが比較的寛大な処置をとった。ざっくり言うと何もかも薬子と仲成が上皇をそそのかしたのが悪いということにして、他の関係者は重くて流罪、だいたいは左遷で済ませた。ただ、高岳親王は廃太子とした。上皇は出家したがそのまま上皇としての立場は維持された。
このとき天皇の子は何人かいたが、まだ乳児だけだったので、異母弟の大伴親王を皇太弟とした。大伴親王は、上皇や天皇の同母妹の高志内親王を妃としていたため、異母の兄弟の中でも特に近しい関係である。また、ここしばらく皇族の女性から天皇が誕生していないため、皇族の血を濃くしたいという思いがあったのではと考えられる。桓武天皇が多くの子を残したのはそれが狙いだったようだ。しかし、大伴親王自身は、元々臣籍降下を願っていた人で皇位には着きたがらなかったようである。
天皇は父に倣って、多くの后を娶り、実に50人もの子を儲けた。景行天皇もビックリな数だ。しかし、そんなに数がいると、朝廷の財政で養えなくなってしまうことに気づき、天皇はそのほとんどの子たちを臣籍降下させている。
即位してから十四年目、天皇は右大臣の藤原冬嗣に、大伴親王に譲位したい旨を伝える。冬嗣は、
「今、譲位されますと上皇が二人、天皇が一人となり、ものすごく公費が必要になります。ここ数年は凶作続きですから、民の負担が大きくなってしまいます。せめて豊作の年を迎えてから譲位してください」と頼むが、天皇は聞き入れず譲位を敢行した。




