垂仁天皇
御間城大王(崇神天皇)亡き後は大后・御間城姫(大彦命の娘)との間に生まれた王子、活目入彦が大王(垂仁天皇)となった。即位と前後して彦坐王の娘の狭穂姫命を妃とした。
王族の人数が増えるにつれ、血のつながりが近すぎず遠すぎずの婚姻も増えてきた。これは一族の富と結束を守る意味もあり、また王族の血を尊いものとしてその純血を守る意味もある。この頃になると王位の継承は末子相続の慣習よりも、妃の身分の高さが重要視されるようになった。活目入彦大王と狭穂姫命の婚姻は多分に政治的意図の含まれるものだったが、当の二人はラブラブカップルだったようだ。
狭穂姫命の兄、狭穂彦王は大王の地位を狙っていた。狭穂姫命が妊娠初期の兆候で体調が悪くなり実家に帰ってきたときに大王の暗殺を命じる。元々そのつもりで嫁がせたのかもしれない。大王の宮に戻ってきた狭穂姫命は兄の言うとおりにしようとするが、どうしても出来ず、涙ながらに大王に兄のことを告白する。大王はお前は悪くないと后を慰めながらも叛乱者を討つため兵を集めた。
狭穂姫命は兄への愛情を捨てることができず、生まれたばかりの王子・誉津別命を抱えたまま、大王のもとから兄が兵を集めていた陣地へと逃げていく。大王の部下は何とか二人を連れ戻そうとするが結局取り戻せたのは赤ん坊の王子だけ。狭穂姫命は大王と戦場で声を掛け合いながら自らの命を絶つ。
謀反は鎮圧され、大王は最愛の后の忘れ形見である誉津別命に愛情を注ぐ。だが幸か不幸かこの王子には障害があったらしく成人しても言葉を喋ることができなかったという。しかしそのおかげで権力争いに巻き込まれることもなく、父に愛された人生を送ることができたのだ。
活目入彦大王は狭穂姫命亡き後、心の傷をなぐさめるがごとく、そして大王としての責務を果たすため丹波道主命の娘たちを妃に迎えた。そのうち長女の日葉酢媛命が後継ぎである大足彦尊を産むことになる。
垂仁天皇の頃から、大和朝廷は朝鮮半島の国々を意識するようになったようだ。大加羅国(朝鮮半島南部の国)の王子ツヌガアラシトや新羅の王子・天日槍との接触があったと日本書紀に記されている。ただし、天日槍との接触に関してはかなり疑わしい。彼との接触の後、85年後に垂仁天皇が「彼が残した宝が見たい」と言って天日槍の曾孫にその宝を見せてもらう、という奇妙なシチュエーションが記されているからだ。彼の来日時期については「日本書紀」では垂仁天皇の時代と記されているが「但馬国司文書」では孝安天皇の時代と記され、「古事記」ではハッキリ時代が明記されない昔話という扱いで「播磨国風土記」では神として扱われている。
何故天日槍にこだわるのかというと、彼は後に登場する神功皇后の先祖とされているからだ。その系図と天日槍の父の新羅王、その代々の在位年数を照らし合わせれば大和朝廷のおよその時期が見えてくるはずだが暦の数え方の違いなどでよくわからないというのが現実である。