孝霊天皇~崇神天皇
神武天皇が大和国で王になってからしばらくの間、代々の王は大きな事を為すこともなく、近隣の権力者(特に磯城県主)と仲良くしながら国力を高めていった。
7代孝霊天皇の頃から動きが見え始め、彼は四人の妃を迎えている。6代孝安天皇までは妃を一人しか迎えなかった(神武天皇も大和に来てからは一人)ので、それだけ財に余裕が出てきたことの証でもあり、関係を深めておきたい各地の権力者の数が増えたということでもあるだろう。そして孝霊天皇は領地拡大を目指し、彦五十狭芹彦命と稚武彦命の二人の王子に吉備への遠征を命じる。それはかつて神武天皇が日向国から大和国に進軍したルートを逆に辿るものだ。思うところもあっただろう。吉備国を平定した二人の王子は大吉備津彦命・吉備津彦命と呼ばれるようになり、吉備氏の先祖となった。
その後も8代孝元天皇の王子・大彦命が北陸に派遣、大彦命の子・武渟川別が東海道に派遣、9代開化天皇の王子・彦坐王とその子・丹波道主命が二代に渡って丹波に派遣されている。彼らは後に四道将軍と呼ばれ、日本書紀には彼らが一斉に出兵したように記されているが、系図を見る限り、年齢差がかなりありそうなので実際は時期を開けているだろうと思われる。また、年長の王子は他国へ攻め入り支配階級に収まり、年少の王子は大和に残って父の後を継ぐという末子相続のシステムが活きていることがわかる。
御間城王(10代崇神天皇)の在位中に征圧計画は一区切りつき、御間城王は自らを王の中の王、大王であると名乗るようになった。だが、そのような権力と財を持つということはその地位を狙うものが現れるということでもある。既に、大彦命の遠征の最中に御間城王の寝首を掻こうと叔父の武埴安彦が兵を用意していたことがあった。その叛乱計画は不思議な力によって未然に防ぐことができたが、ここから王族間での権力争いが激しくなっていく。




