持統天皇
草壁皇子は天武天皇と皇后の鸕野讃良皇女の子で、20歳のときに皇太子となった。
大津皇子は草壁皇子の一つ違いの異母弟だが、その母親は皇后の同母姉の大田皇女だ。つまり血統としては草壁皇子と同格である。しかし大田皇女は天武天皇が即位する前に亡くなっており、皇后になることはなかった。それゆえに大津皇子も皇太子にはならなかった。ところが大津皇子は文武両道で性格もよく、朝廷での人気はめっぽう高かった。歴史書において皇族を褒めたたえる言葉が並べられるのはよくあることだが、草壁皇子に対してはそれらしい美麗字句が無いことから察することは有る。
天武天皇が亡くなって間もなく、大津皇子はいとこの川島皇子に密かに相談する。
草壁皇子は病気がちで父の政務の手伝いもままならない有様だった。父もそれを心配して私に政務の手伝いを命じたのだろう。それならばいっそ私が天皇の位についたほうが良いのではないだろうか。
大津皇子は純粋に兄を心配しての言葉だったのかもしれないが、川島皇子はそれを聞いて恐れた。もしや大津皇子は謀反を企んでいるのでは、と。悩んだ末、川島皇子は皇后にそのことを伝え、そして皇后は大津皇子を捕らえさせた。大津皇子は申し開きをしたのかしなかったのか……翌日に自害してしまう。大津皇子の妃の山辺皇女(天智天皇の娘)はショックのあまり殉死、大津皇子を慕っていた多くの人々が嘆き悲しんだ。
この出来事が原因だったのだろうか、皇后は草壁皇子をすぐに即位させようとしなかった。草壁皇子のためにライバルにあたる大津皇子を亡き者にしたと囁かれるのはつらい。もう少し体調が快復したら……政務に慣れてきたら……そんな思いだったのだろうか。だが、草壁皇子は3年後に若くして亡くなってしまう。皇后は落胆した。そして心の拠り所を草壁皇子の子である珂瑠王(当時7歳)に求めた。皇后は天武天皇が亡くなってから称制を行ってきたが、ここで正式に天皇として即位し(持統天皇)、珂瑠王の後見となることを決めた。すぐにでも珂瑠王を皇太子にしたいところだが幼すぎる。それならば、高市皇子を擁立する声も上がるだろう。高市皇子は先代の皇子の中で最年長であり、壬申の乱でも父と共に戦った、信頼を寄せられた皇子である。朝廷内での発言力も高い。天皇もその有能さを認めており、太政大臣に任命しているが、天皇の位となるとまた別の話である。天皇は待った。そして高市皇子が亡くなり、自分も老いを実感した時に、群臣に皇太子を誰にすべきか相談した。さまざまな意見が出されたが、そこで葛野王が発言する。
「天皇は親子継承が基本だ。兄弟継承は争いのもとになる。だから先代天武天皇の直系である御子を皇太子にすべきだ」と。
この発言に反論しかけた皇族もいたが、葛野王は一喝して黙らせた。この葛野王は壬申の乱で敗れ自害した大友皇子の子である。その胸中はいかなるものだっただろうか。ともあれ天皇はその発言にいたく喜んだ。さっそく珂瑠王を皇太子とし、半年後には譲位した。
なお、草壁皇子は亡くなってから70年後に岡宮御宇天皇の号を贈られている。
日本書紀に書かれているのは持統天皇までです。
現在はまだ続日本紀を読んでいる最中なので次の更新まで間があきます。




