推古天皇と聖徳太子
崇峻天皇亡き後に即位したのは、丁未の乱に参戦した王子たちのうちの次の大王候補である竹田王子……にはならなかった。おそらく戦で亡くなったと思われる。その次の候補者の厩戸王子だが、まだ大王となるには年が若かった。
そこで特例として女性である額田部王女を大王(推古天皇)とした。これまでにも神功皇后、飯豊王女、春日山田王女のように政務に明るい女性の王族はいたが、正式に大王となったのは彼女が初めてだ。
厩戸王子は太子となり、摂政という形で朝廷へ上がった。竹田王子が存命なら、当然額田部大王は厩戸王子ではなく竹田王子をその立場にしていたであろう。とは言え別に厩戸王子を嫌っていたわけではないので、第一王女の菟道貝蛸王女を彼の后としている。将来的に厩戸王子が大王になったときには、大后となることが予定されていた。蘇我馬子も娘を厩戸王子の后にしてもらい、大王、太子、大臣は協力し合いながら政務を行った。しばらくすると、太子は実質的に大王と言ってもいい立場になるが大王から譲位はされていない。この当時の認識としては、大王の位は一生のもので、継体天皇の場合のように今際の際というわけでもない限り譲位をするということはなかったのだろう。
厩戸王子は冠位十二階や十七条の憲法といった、仏教を含めた大陸文化のの影響の強い制度や決まり事を作る。群臣も朝廷にならうべく、こぞって寺を建てた。そこには同調圧力的なものもあっただろう。しかし、推古朝の改革はいささか急進的だったようで、それに反発する、反厩戸王子・反蘇我氏といった層も一定数いたようだ。
この時代、任那復興のために新羅に向けて出兵の準備もされたが、厩戸王子はあまり乗り気ではなかったように思える。はじめは同母弟の来目王子を将軍として派兵しようとするが、病死したため引き返し、その次に異母弟の当麻王子が将軍になったが途中で王子の妃が病死して、またしても引き返した。たまたま不幸が重なっただけのようだが、仏教徒の太子がなにがしかの理由をつけて戦をやめてしまいたかったかのようだ。それよりもむしろ、太子は隋と直接交流を図ることに力を入れた。身分に依らず能力のあるものを遣隋使として選定し大陸の文化を学ばせて長期視点で国の発展を計画した。
太子は大王がまだ健在なうちに病に罹り、妃の菩岐岐美郎女が看病した。しかし看病するうちに病気が伝染ってしまったようで、先に菩岐岐美郎女が亡くなってしまい、それで完全に気力を失ってしまって翌日に太子も亡くなる。そして太子の遺志でこの妃と合葬された。この時蘇我氏の妃はまだ存命だったのだがそれを差し置いてのこの扱いである。この妃は膳氏の出身で王族や蘇我氏のように身分が高かったわけではないが結婚に政略的な意味合いが薄く、太子の本命の妻だったのであろう。彼女との間には男女合わせて8人の子が生まれている。また、菟道貝蛸王女との間には子が生まれず(早世したか?)、大王は孫娘(菟道貝蛸王女の弟の尾張王子の娘)の位奈部橘王を新たに太子の妃としているが相当の年の差婚ということになる。この妃とは2人の子が生まれているが、太子が亡くなったときにはまだ幼かったはずだ。それゆえに太子の意志を継ぐ者といえば、蘇我氏の妃との間に生まれた子の山背王になるのだった。
大王は太子亡き後もしばらくの間政務をとり続けた。当時としてはかなりの長命だ。大王の別名は豊御食炊屋姫尊といい、その字面からみて食事関係の名前だとわかる。本人が料理上手だったのか、料理人(膳氏)を重用したのかしたのだろう。食に気を遣ったおかげで長生きできたのかもしれない。その大王も寿命が近づき、病床に山背王と田村王(押坂彦人王子の子)を呼び、大王となった際の心構えを説いてから亡くなった。大王は最愛の息子の竹田王子と合葬された。




