24 不幸になる権利と思想の代償
美しいものは、ときに、あまりにも無防備に現実へと踏み出してしまいます。
それがどれほど危ういことなのかを、理解していたとしても――
止まれないこともあるのかもしれません。
今回は、理想が現実に触れてしまった、その瞬間の話です。
三帆は夕方、公園に来るように言ってきた。青と龍星がはじめて出会った公園ではなく、ユニバーシティーに隣接している、この世界で一番大きな公園だった。
待ち合わせ場所には、三帆だけでなく亜依と春比古も来ていた。
「マスターは、お店を空にできないから……」
と亜依が言った。
全員が集まらなければならないほど、大変なことが起きているのだろうか……と、龍星はにわかに不安になった。
「こっちよ」
三帆が案内したのは、公園の中央にある広場だ。
向かってすぐに、そこに人だかりができているのが分かった。
近づくにつれて、音楽も聞こえてくる。
「あれは……一樹さんのギター?」
かすかに聞こえるだけだったが、聞き間違えようもなかった。確かに、一樹のギターだ。
亜依が黙ってうなずいた。
人だかりの中心は、ぼんやりと明るかった。
ウィンドウディスプレイなどに使われる、小型の照明器で照らされているらしい。
その明かりの中心に……青がいた。
初めての出会いの時と同じような衣装――上半身裸で、白のスパッツに裸足――で、踊っていた。
ただ、あの時と違うのは、流れている音楽が一樹のギター演奏であること。
そして……観客がいること。
見ている人の数は、それほど多くはない。龍星たちを合わせても三十人足らずだろう。
龍星は、正面から少し外れた場所に移動した。そこからなら、人の頭越しでなく青と一樹を見ることができる。
龍星は、青の舞踏を目にしたことがあり、一樹のギターも聞いたことがある。どちらも、魅力的で心惹かれるものだったが……その二つが合わさると、その魅力が二倍以上になることを知った。
一樹のギターは、音だけで宇宙を表していた。それに視覚としての青の舞踏が加わると、宇宙はなおいっそうはっきりと、その姿を現すのだ。
これが下手な舞踏であったなら、宇宙を表していたはずの音楽は、地に堕ちただろう。だが、青の舞踏は、一樹の音楽をさらなる高みへと突き上げる。
それは、青の舞踏の面から見ても同じだった。
はじめて見たとき、龍星は青がさしのべた手に誘われているように感じた。その引力は、さらに強くなっていた。
龍星自身は一歩も動いていないのに、意識の中では、青の手を取り、ともに宇宙をさまよっていた。龍星は、自分が確実に――公園の中ではなく――宇宙空間を漂っていることを実感していた。宇宙空間をその目で見、その肌で感じている気さえした。
それが、耳に入る一樹のギターの影響なのか、一樹のギターによって魅力を増した青の舞踏のせいなのか……は、龍星には分からなかったが。
青の舞踏が終わったことを知らせたのは、チャリーンという金属音だった。
それまで、宇宙空間を漂っていた龍星の意識は、その音で現実に戻された。
龍星のぼんやりとした視界に、少しずつ現実が映し出されていく。
芝生に座り、タオルで汗を拭っている青。
ギターをケースにしまっている一樹。
帰って行く観客たち。
そして……金属音の原因……青たちから少し離れたところにおかれた四角い缶に、観客たちが小銭を投げ入れているのだ。
そのことの意味に龍星が気づく前に、三帆がすっと近寄ってきて龍星に耳打ちした。
「ほかのことはなんとか言い訳がつくにしても、あれは……まずいと思うのよ」
三帆の視線の先には……当然のことながら、小銭の入った缶があった。
すべての客が引き上げたあと、龍星たちはブルーベリーに向かった。もちろん、青と一樹も一緒だった。
リニアバスの中で、口を開くものはひとりもいなかった。誰もが口を閉ざし、重い沈黙が漂っていた。
時折、一樹の口からこぼれるかすかな鼻歌だけが、その場に流れている唯一の音だった。
ブルーベリーに着いても、誰もちゃんとした会話は交わさない。あいさつや事務的な言葉を交わしただけだ。
すでに閉店時間になっていたブルーベリーには、満男しかいなかった。
ひとつのテーブルを取り囲むように座る。
全員、一樹のコンサートが終わったときと同じ位置に座っていたが、あの時の和やかな雰囲気は、微塵もなかった。
「あの……一樹さんと青は、いつから……?」
沈黙に耐えられなくなって、口を開いたのは龍星だった。
龍星の質問に、一樹と青は顔を見合わせたが、答えなかった。
気の毒そうな表情で、龍星に答えてくれたのは、亜依だった。
「一週間前。最初は観客なんていなかったんだけど、SNSで広まって、今はあの人数」
「これからも、どんどん増えていくと思う。かなり拡散されているから」
と、付け加えたのは春比古だった。
「あの缶は?」
「缶をおいたのは、一樹よ」
亜依が一樹を睨むが、一樹は表情ひとつ変えなかった。
「お金を取るのは……まずいんじゃないですか?」
こんなことは、言わなくてもみんな知っているはずだ……と思いながらも、龍星は言わずにはいられなかった。
全員が押し黙った中、
「俺は缶を置いただけだ。金を入れてくれなんて、一言も言ってない」
と、一樹がうそぶいた。
「そんな言い訳が通ると思ってるの!」
亜依が、バンと机を叩いて立ち上がる。
「今すぐにやめなさい! 集まったお金は、全額慈善団体にでも寄付して……。そうすれば、まだ間に合うかもしれない」
「まだ間に合う」という亜依の言葉を、龍星は頭の中でくり返した。「まだ間に合う」……つまり、すでに安全圏は越えてしまっているという意味だ。
「俺は、やめるつもりはない」
一樹は、それを気負いのない淡々とした口調で告げた。
「あなたはそれで良くても、青君はどうなるの? 青君まで巻き込むつもり?」
「俺は無理強いはしていない。青がやめたいなら、今すぐ、やめてもかまわない。俺ひとりで続けるまでだ」
すると、今まで黙っていた青がふっと笑った。
「なにゆうてるねん。一樹さんのギターだけで、あんなに人が集まるわけないやろ? みんな、オレの踊りを見に来とんのや。オレが抜けたら閑古鳥やろ?」
「青!」
「青君!」
春比古と三帆が同時に叫んだ。
「青君……自分がどんな危険なことをしているのか知っているの?」
亜依が、一樹に対するものとは違う穏やかな口調で問いかけた。
「分かってるつもりやけど」
青は、亜依や春比古、三帆に微笑んで話を続ける。
「オレはまだ学生やから、夏休みの今なら、毎日公園で踊っとっても、文句は言われへん。けど、一樹さんは違う。昼間はここ――ブルーベリーでウェイターしとるけど、十一時から四時までや。一日に五時間しか働いてへんことになる。まずそれが問題の一番目」
「……僕は、開店を九時にしてもいいって言ったんだけどね。それで、五時まで働いてくれれば、なんとか八時間確保できるから……」
満男はそう口をはさんだ。だが、一樹はうなずかなかったのだろう。
「観客が自然に集まってきてしもうたのは仕方のないこととして……。問題の二番目は、観客がお金を払っていること」
「なんで……缶なんて置いたのよ」
三帆がつぶやくように言った。一樹に言っているのではなく、ひとりごとのように聞こえた。
「それと、問題の三番目は……」
青は、一樹を見てにやっと笑う。
「オレと一樹さんの関係に、観客が気づいとること」
龍星は、はっとしてみんなの顔を見回した。誰も……驚いていない。やはり、一樹と青の恋愛関係を、ここにいるみんなは知っていたのだ。
「問題になってるのはこの三つ。そうやろ?」
青の言うとおり、その三つは法律で明確に禁じられている。なのに……。
まるで、他人事のように告げる青に、亜依は頭を抱えた。
「本当に、分かってるの? 今まで、逮捕されなかったのが奇跡なくらいなのよ。このまま続ければ、明日にでも、政府の役人がやってくるわ」
「逃れる方法は……ないんですか?」
春比古が、沈鬱な表情で亜依に尋ねた。
「まず、公園で踊るのをやめること。お金は、慈善団体に寄付して……。一樹は、今まで働いていなかった分を、一週間以内に残業して取り戻すこと。それから……。一樹も青君も……女性と結婚……もしくは婚約すること」
「それをすれば、罪に問われないんですか?」
尋ねた龍星に、亜依は首を横に振った。
「まだ、可能性があるって程度よ。そこまですれば、裁判で無罪になる可能性がある……」
「どっちにしろ、裁判は免れないだろうね」
満男が、ひどく静かな口調で言った。
それにショックを受けたのは、三帆と春比古、それに龍星だけで、亜依と一樹だけでなく、青も動揺していなかった。リスクは充分承知の上で、一樹につき合っていたと言うことだろう。
「私……」
口を開いた三帆は青ざめていた。両手を固く握りしめ、唇を震わせながら、ようやく次の言葉を発する。
「私……青君と、婚約してもいい」
選択には、必ず代償が伴います。
それが正しいかどうかではなく、何を選び、何を捨てるのか――
その積み重ねが、現実を形作っていきます。
誰もが状況を理解していながら、それでも別の道を選ぼうとしている。
そして、その選択は、もう後戻りのできないところまで進み始めています。




