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第4章【協和音】第三部 雷鳴

高校二年生の冬が近づいていた。


部屋の隅にはギターケースが立て掛けられている。


以前は毎日のように開いていた。


学校から帰れば真っ先に手を伸ばした。

弦を押さえ。

音を鳴らし。

指が痛くなるまで弾いた。


だが今は違った。


ケースを見ても手が伸びない。

伸ばせない。

何かが違う。

何かが足りない。


その答えが分からないまま時間だけが過ぎていった。


ある夜。


響は久しぶりにギターケースを開いた。


中にはあの日買ったアコースティックギター。


弦は少し曇り、ボディには細かな傷が増えていた。


ゆっくりと手に取る。

コードを鳴らす。

響く音は今も変わらない。

優しくて暖かい音。


だが。


それだけだった。


「違うんだよな……」


誰に聞かせるでもなく呟く。


そして再びケースへ戻した。


蓋を閉じる音が妙に大きく聞こえた。


その頃。


薫は少し焦っていた。


高校が別々になっても交流は続いていた。


だが以前の響とは何かが違う。

笑う。

話す。

遊ぶ。

それは変わらない。


しかしギターの話になると少しだけ表情が曇る。


薫には分かっていた。

響はまだ諦めていない。

だから苦しんでいる。


もし本当に興味を失ったなら、もっと楽な顔をしているはずだった。


ある日。


ファストフード店で向かい合って座っていた時だった。


「最近ギター弾いてる?」

薫が聞く。


響はストローをくわえたまま答えた。

「たまに。」


その一言で十分だった。


たまに。

それは毎日弾いていた頃の響からすれば、ほとんど弾いていないのと同じだった。


薫はその日から密かに探し始めた。


響が求めている音を。


雑誌を見る。

音楽番組を見る。

ネットで動画を探す。

ギター関連の記事を読む。


学校の昼休み。

家に帰ってから。

寝る前。

少しずつ調べ続けた。


なぜそこまでするのか。

自分でもよく分からなかった。


ただ一つだけ分かっていた。


響にはギターを辞めてほしくなかった。


初めて話しかけたあの日。


みんなが怖がる中で一人だけ声を掛けた。


最初はただ気になっただけだった。


だが気付けば親友になっていた。


誰よりも不器用で。

誰よりも真っ直ぐで。

誰よりも優しい。

そんな響だからこそ、自分だけの音を見つけてほしかった。


だから探した。


何日も。


何週間も。


何ヶ月も。


そして。


高校三年生の夏。


ついにその瞬間は訪れた。


いつものように動画を見ていた時だった。


画面の中で一人の男がアコースティックギターを抱えている。


最初は普通の演奏だと思った。


だが違った。


ボディを叩く。


弦を引っ張る。


ネックを叩く。


低音と高音とリズムが同時に鳴る。


まるで一人でバンドをやっているようだった。


薫は息を呑んだ。


そして次の瞬間には立ち上がっていた。

「これだ……!」


気付けば家を飛び出していた。


自転車を全力で漕ぐ。


坂道を駆け上がる。


額から汗が流れる。


呼吸が苦しい。


それでも止まらなかった。


響の家が見える。


玄関を開ける。


階段を駆け上がる。


そして勢いよく扉を開いた。


「響!」


部屋にいた響が驚く。


「なんだよ!?」


薫はスマホを差し出した。


「これ見て!」


息を切らしながら言う。


響は不思議そうな顔で画面を見る。


そして。


数秒後。


響の表情が変わった。


目が見開かれる。


呼吸が止まる。


視線が画面から離れない。


部屋の空気が消えたようだった。


聞こえるのはその音だけ。


叩く。


鳴らす。


刻む。


響は画面に釘付けになった。


心臓が大きく脈打つ。


全身に鳥肌が広がる。


まるで雷に打たれたようだった。


ずっと探していたものを見つけた感覚だった。


「なんだ……これ……」


震える声で呟く。


薫は響の表情を見ると軽く微笑んだ。


響は画面から目を離せない。


もう分かっていた。


これだ。


これだったんだ。


自分が欲しかった音。


自分だけの音。


自分が探していた景色。


全てがそこにあった。


その夜。


響は何時間も動画を見続けた。


そして気付けばギターを抱えていた。


久しぶりだった。


だが迷いはなかった。


ボディを叩く。

弦を引っ張る。

もちろん上手くいかない。


変な音しか出ない。


だが。


楽しかった。


こんな気持ちは久しぶりだった。


翌日も。


その翌日も。


ひたすら練習した。

指が切れる。

皮が剥ける。

弦が切れる。


それでも止まらなかった。


むしろ嬉しかった。


行き先が見えていたからだ。


それは、何年も探していた出口が見つかったからだ。


高校三年生の秋。


響は学校よりもギターのことを考えていた。


それは進路が既に決まっていたからだ。

響は先輩の紹介で町工場への就職が決まっていた。


だから残りの時間を全てギターへ注げた。


学校から帰っても弾く。


眠くても弾く。


どんなに疲れていても弾く。


気付けば深夜になっている。


そんな日々だった。


そして年末。

十二月三十一日。


外は冷え込んでいた。


響の部屋には薫が来ていた。


毎年恒例の初詣へ行く約束をしていたからだ。


二人でくだらない話をしていると、響が立ち上がった。


「ちょっと聞いてくれ。」


ギターを手に取る。


薫は頷いた。


演奏が始まる。


ボディを叩く音。

低音。

高音。

リズム。


半年前までの響では考えられない演奏だった。


薫は言葉を失う。


目の前にいるのは昔の響ではない。


音を見つけた響だった。


演奏が終わる。


静寂。


数秒後。

薫が立ち上がった。


「ヤバい。」


「何が。」


「全部。」


響が笑う。


薫は興奮したまま続ける。

「いや、本当にヤバい。」


「語彙力無さすぎだろ。」


「だって説明できないんだよ!」


二人とも笑った。


そして少し静かになる。


その時だった。


響がぽつりと言った。

「なぁ。」


「ん?」


「お前があの日話しかけてこなかったらさ。」


薫が顔を上げる。


響は窓の外を見ながら続けた。


「多分俺、この町のこと嫌いなままだったと思う。」


薫は黙って聞いていた。


「ギターもやってなかった。」


少し笑う。


「音も見つけられてなかった。」


静かな時間が流れる。


そして。


「ありがとな。」


その一言だった。


薫は少し照れ臭そうに笑う。

「じゃあ話しかけて正解だったね。」


響も笑った。


その時。


遠くで鐘の音が聞こえた。


時計を見る。


午前0時。


新しい年が始まっていた。


「初詣行くか。」


響が立ち上がる。


薫は笑う。


「どうせ屋台目当てだろ。」


「当たり前だろ。」


「初詣だから!」


「屋台だろ!」


二人は笑いながら家を出た。


冬の夜空。


冷たい風。


遠くに見える神社の灯り。


そして海の向こう。


少しずつ空が明るくなり始めていた。


長い階段を登り切った頃。


東の空から朝日が顔を出す。


金色の光が海を照らす。


響と薫は並んでその景色を見ていた。


誰もまだ知らない。


この少年が。


やがて多くの人の心を震わせる音を奏でることを。


誰もまだ知らない。


この友情が。


その始まりだったことを。


海の向こうから昇る初日の出は。


まるで新しい未来を照らすように。


静かに。


力強く。


二人の前に広がっていた。



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