只
『言っただろうに。そら、今ので寿命を四カ月と十一日失ったぞ――ほんの少し掠めたただけだというのに。このままではお前さんが先に昇天する。退くといい』
「さっきから『退け退け』、って随分他人事なんだから! 聖女様もユーミのお姉さんのも……変態の魔術も効かないのよ、それでもトリスタン、アンタの盾は食べられなかった! これを勝機に繋げるしか道がないじゃない!」
魔術が効かないどころか、それらを食って自らの血肉とするナクロヴァネバに対して取れる手段は僅か。
カナメは懸命にユーミの身体構造へ魔術によって干渉し筋力を増加させ、彼女もまたそれを察して鉄の杖を携えた後に駆け出して殴打を続けた。
しかし効果の無い打撃は一撃ごとに体を疲弊させた。
心臓や血管、血の巡りを増強させて皮膚を固くして神経を研ぎ、反射速度を高める。
そんな身体強化の効果も相まってより顕著に疲労が蓄積していく。
『……見るに堪えん。術師よ、お前さん、長生きは嫌いかね?』
「誰かが繋いでくれた今を台無しにしてまで、この先のうのうと生きるなんて我慢ならないわねッ、痛――」
振るった渾身の殴打をきれいに避けられて、食われかけたユーミとナクロヴァネバの間に身を乗り出して盾を構えた。
『ばちん』と音が鳴り、片膝をつき半身に構えた盾ごと騎士は地面を足裏で削りながら後退を余儀なくされる。その衝撃は物理的にではなく、だが確実にルピナを蝕んでいた。つぅ、と垂れた鼻血が証左だった。
『他人事なものか。揃いも揃って随分無鉄砲なものだ』
「トリスタン、あとどのくらい耐えられる――揃いも……?」
『このトリスタンは――我らは未来永劫いつまででも耐えられる。消滅することなどないのだ。一部を除いてな……耐えられぬはお前さんの命だ』
「“それがどのくらい”、って聞いてるのよ!」
『さあね。人の生き死になどは神のみぞ知るもの。このトリスタンにもわかりはしない。だからこそ退くといい、だからこそ粗末にするな、そう言った。お前さんもそう思わないかね? ――イプリス』
必死にルピナの腰へとしがみ付いて振り回されていたイプリスが突然名を呼ばれたことにたじろいで、しかしそれにはルピナも全く同じ気持ちだった。
「――あっし? あっしに何ができるっていうんでさぁ! トリスタンのオジキ、あんたこのしがねえ狸に何かできる事があるって言うんですかい?」
『異な事。“できる事”など行動を起こさねば無いも同じ。“力”も然り』
「ちょっと! イプリスは戦う力なんてないのよ、危険な目に合わせようとしないでッ!」
『……なれば、そこで見ておればいい』
「あっし……あっしに何が……」
イプリスはしがみ付いていた貧弱な腕をルピナの腰もとから離し、短い脚で地に立ちすくんだ。自らの手に並んだ肉球を眺め呆然とし、怯えたような表情で目の前で戦う召喚術師の背中を見上げ、見つめる。
「――ゃあああああッ」
『うむぅ、今のは効いた。盾がお前さんの寿命を六年と六十六日喰らったぞ! イプリス、貴様そこで眺めているだけか!』
「……やめて、イプリスは友達なのっ、大事な家族なのよ! お願い、誑かさないで」
大口を開けて騎士盾の隙間、本体を喰らいにかかったナクロヴァネバを弾き飛ばすようにトリスタンが再度立ちはだかり、命を拾った代償に命を削るルピナの悲鳴を聞かぬようにと、短い両の手で耳を覆った。
ルピナが産まれた日の事を思い出す。記憶の中、まっさらな彼女は、しかしそれでいて一族に流れる血の例にもれず、【召喚術】をもって産まれた。生を授かると同時にイプリスが喚び出され――
「あっしには盾もなく、剣も使えやしねえ。燃え盛って敵に向かって突進することも……あっしといえば只、何かに“化け”られるだけでやんす……化けたといっても姿かたちだけ。こんな時、お嬢のお役に立てるとはちっとも――饅頭にでも化けて奴さんの食い気を引くくらいしか……」
ぼそぼそと狸はうわごとを呟いて、さらにもうひとつ悲鳴が耳に届いた事で、“そんなことをしても到底、無意味”だと自覚した。
そんな最中で――
「う」
どこにそんな膂力を秘めていたのか風切り音を唸らせて鉄棒を振るう華奢な身体から小さな悲鳴が漏れた。
「――ユーミっ!」
「全っ……然、平気。ね、なおして、カナメ」
疲弊して動きが鈍った隙を突かれ、閉じた上下の歯列にユーミが大腿を齧られ肉を喰われた、その痛みによって生まれた控えめな悲鳴であった。滲む脂汗は拭い、口元に笑みを浮かべ、しかしそれでも立ちあがることができない。
カナメは気を動転させながら駆け寄るものの術をうまく構築できず、ユーミはまた魔術の出力が乱れた。
そうして動きが鈍った二人を、これは好機とすぐさま襲い掛からずに、ナクロヴァネバは恍惚と舌なめずりをして溢れた唾液を地に零す。
言う。
「おや、これは。これはこれは。これは美味い! ほんの一口だというのに歯を撫で口腔を擦り舌を刺激し喉を滑る……食道は歓喜に満ち、胃袋は新世界を見た! これは堪らぬ、とてもこれでは足りぬ!」
体には英気が満ち、ナクロヴァネバは皿まで喰わんばかりに這いずって近づき、
「誰が通すもんですかっ」
『……九年、飛んで九日、無茶はよした方がいい』
阻まれ、機嫌を損ねた。
「食えぬ盾に小娘めが……あくまで余の食事を邪魔するつもりであるか――」
食い物を前にお預けを喰らった地獄の王を自負するナクロヴァネバは徐に立ち上がった。
ユーミの肉を喰って心身共に、一時の充足感を得かけていた彼は怒り、本来の力を取り戻しつつある。しかし特段、力の真髄をひけらかすつもりは無くただ食物の包みを剥がすだけの様相で、邪魔者を排除にかかる。
「ならば、堕ちろ。そこで待っているがよい。召喚術師よ、貴様は地獄の鍋で煮込み、食後の甘味としていただくとしよう」
眼の色がすっかりと変わり――いつしか刹那の満腹感と共に知性を取り戻したナクロヴァネバは再び指を鳴らした。乾いた音とともにルピナの足は地面から滲んだ血糊にべっとりと張り付いてしまい動かない。
乾燥した血糊はやがて水気を取り戻し、堪らずに口元を抑えるも生臭い異臭がルピナの鼻を突く。いつの間にか這い出した亡者の群れは彼女の身体へとしがみ付き、命をすり減らしていたルピナの顔から更に血の気を奪う。
「ル、ルピナ――」
届きやしないのに腕を伸ばしたが、ナクロヴァネバが顎をしゃくって合図をするとそれらは徐々に地面へと沈み込んで深くへと帰って行ったのだった。
――今までいたはずのそこに、ペルセ・ルピナはいなかった。




