2ノ3 繰リ返ス
小さなマグカップに薄いカフェラテを入れ、程よくぬるめに温めて飲んでいた。かれは“あれ”をした後だから、心はぐっと鎮まっている。大きな枝が折れたので、大きな自信に満ちたような目をしていた。
編集者の女は何も知らない。いつもの繰り返しのような生活に戻ったところで未来を少し心配している。ダイニングのテーブルに肘をつき、黙って座っている。
『たとえばもし結婚となったら編集者を辞めるわけにもいかないし、でも続けるわけにもいかない』
なんていうような、まだかれと一度も話をしていないような想像を先走って考え続けている。
暗い森の中の別荘はいつになく静かだ。秋の涼しさが増していて、外に出ると手足が冷える。部屋の中のストーブに温まって、二人は特に何をするわけでもない時間を送っている。
近くにあるマンションタイプの別荘には紅葉を見に、二家族ぐらいのグループがやってきていた。他人との付き合いが面倒だから、二人は余計に家から出ようとはしない。
かれはカフェラテを飲みきってしまうと書斎へと向っていった。二人が言葉を交わすこともなかった。
喧嘩をしているわけでもなく、お互いどちらかというと言葉足らずの一面を持つ性格なので話す内容がない状態では本当に会話をしない。彼女はたまに会話がないと不安を感じて不満を増すけど、今は気にせずかれを書斎に見送った。
木洩れ日の降り注ぐ書斎で創作活動に打ちかかる。窓の外の葉々はすっかり色付き、赤や黄色のいろとりどりの色合いを見せている。その合間を縫って創作活動にかかるかれのいる書斎へと光は入り込んでくる。
光は暖かく、眩しいけれど心地よい。かれはその暖かい光を浴び、小説を書き始めることもなく、ペンを握ったまま目を閉じて転寝をする。夢と現実の間に行こうとしている。想像はそこから生まれてくる。
無理に頭を働かせようとしない。無駄な脳の回転は頭を疲れさせるばかりで心身を痛めつけるだけだから、という持論を基に眠ったような姿勢をして小説を書く。
創作活動中であるならば、長い髪の女はいっさいかれの書斎に入ってこない。彼女はかれの“カノジョとして”でなく”編集者として”その辺りは心得ているつもりだ。
彼女がかれの編集者になり立ての頃、かれは部屋から丸三日間まるで出てこない出来事があった。
その時、彼女は心配になり書斎のドアをノックした。何度ノックしてもあまりに反応がないから中に入ってみると、かれは机に向って黙々と筆を走らせていた。一瞬、かれは彼女が入ってきた事に気づきちらっと彼女の方を見たが、何も言わずすぐにまた机に向って執筆活動を始めた。
その時から彼女は、かれが書斎に入ったらただひたすらずっと考え込んで文を書き続けているのだと信じている。
だからカノジョとなった今でも編集者である彼女は書斎から出てくるまで、ただずっと待ち続ける。それでいてかれは原稿を予定日までにはしっかり間に合わせ出してくるから、彼女の出る幕はない。
かれが部屋で篭っている間は、テレビを見ているか、趣味の編み物をしているか、置手紙をして買い物に出かけるか、めったに帰ることのない一応借りている自らのアパートに帰るか、いずれかの行動を取っている。
今日はしばらくセーターを編んでいたが途中でうまくいかず面倒になったので、ただテレビを付けて眺めていた。いつも同じようなお茶の間番組をテレビは放映していた。何ともいえない退屈さだ。
それでも寒い中、外に出かける気にもなれずにリビングのソファーに座ってクッションを抱いたままテレビを眺めていた。
そんな日もある。ただ待っているだけ。いやそれが大抵の、当り前の、編集者の女の、いつもの生活である。
どこにいる、どんな人間も基本的には似たような毎日を繰り返すものだ。かれは別荘で1ヶ月を過ごす。作家としては4年になる。
10年、20年同じ会社に勤めるサラリーマンに比べれば、かれは遥かにいろいろな経験をしている。先日は南の島にも行ったし、この1年間でいろいろな旅行をしている。それでも1ヶ月間、同じ別荘で同じ小説を書いていると飽きてしまう。
書けずにいる1週間を過ごしている。いつもの書斎にある木の椅子の背もたれに背をもたれて首の後ろで腕を組んで椅子の前脚を浮かせてバランスを取って、天井の木の模様を見上げている。
長い髪の女は焼き芋が食べたくなって、車で10分ほど下った所の住宅地を巡回する焼き芋屋を探しに出かけた。しばらくは帰ってこないだろう、とかれは何気なく彼女の事を考えてみる。
空想にふけようとするがそんな無駄な意識が邪魔をする。仕事の進まない日は無駄な考え事ばかりをする。ふと思いつけばまた筆が走り出すだろう、と信じてかれはただのんびりと過ごすしかない。
書斎での空想を諦めたかれは、居間にやってきてソファーにドカッと座る。ダラダラ過ごしてもいいかと諦めている。すると外で車のエンジン音がして、やがてドカドカと慌てたように、長い髪の女が帰ってくる。
「おかえり」と、かれはソファーに横になって顔を上げて答える。
「あ、ああ、ただいま」と、書斎でなくソファーにいたかれに微妙な驚きをした女が答える。
火傷をしそうな程のホクホクの焼き芋が現れて、二人はミルクティーと一緒にそれを味わう。
彼女は他愛のない近所の話や芸術の話をし始める。あれはどうだ、これはどうだと言ってかれは相槌を打つ。それから会社の話になったり音楽の話になったりして、尽きる事のない話を続ける。
長い髪の女の退屈話は芋もお茶も無くなっても続く。彼女もまた、退屈なのだ。
いったいいつまでこんな退屈が続くのだろう?いつまでこんな毎日を繰り返しているのだろう?
※
都会の灰臭い空気を吸っていた。舌に鉄臭い味を感じる。1ヶ月程、森の中の別荘で暮らしていたかれは東京の空気にそんな感触を受ける。やたらと人が多く、ごみごみしている原宿の明治通りを慌しい気持ちにさせられながらポルシェ911を走らせ、通過してゆく。
「人里離れた山奥も寂しいもんだが、人が多く過ぎるのも鬱陶しいもんだな」
かれは助手席に座る髪の長い女にそう話し掛ける。
「そうですね」と、女は愛想のない返事をする。
心の中では、『東京に帰りたいと言ったのはあなたでしょ!?』と言いたい。その気持ちを抑えている。
女はかれよりもごみごみした都会が好きではない。人間関係も面倒だ。だから本当は帰らずにずっと山の中の別荘に居たかった。東京にいると煩わしい関係が待っている。
会社の人にはかれとの関係をこそこそ言われるだろうし、友人には有名人を紹介してとかまた言われるだろう。彼女は周りの人間が想像するような華やかさなんて何一つない、世間とは無関係な生活を送っているのに、かれとの事や編集者の仕事をしている事で、あれこれ想像されて面倒くさい思いをする。
それでもか彼女は東京に帰ってくると、無理していろいろあったように振る舞い、いろいろ気を使っていろいろな人と付き合ってしまう。彼女はそういう類いの女だ。
かれは彼女が都会が嫌で面倒な気分をなっているのを感じ取っていたが、それを気にせずに黙って運転を続けた。都心の高級住宅街にある15階建てのマンションの一室にかれは住居を置く。地下の狭い駐車場に車を入れ込み、12階に上がる。
部屋は52㎡ワンルーム。LDKの部屋に住む暮らしもできるがかれは暮らしに一般的な生活観を求めなかったので、そんなだだっ広い部屋に住んでいる。
玄関側に大きな冷蔵庫とドラム式洗濯機があって、窓傍に大きなダブルベッドが置かれている。広く開いたスペースにオレンジ色のカーペットが敷かれ、東の隅に机が一台置かれている。後は何もない。
雑多な物は3つある大きなクローゼットか、別荘に置かれているから、部屋のパッと見は本当に何もない。かれはそんな部屋を好んでいる。
『相変わらず何もないな』と女は思う。
「はああ、疲れた」
かれはそうとだけ言うと、大きな背伸びをしてベッドにバタンと横になった。それからまるで動かなかった。スイッチの切れたロボットのようにうつ伏せのまま眠ってしまった。
長い髪の女はオレンジ色のカーペットの真ん中に座り込んで、これからいろいろありそうな関係に面倒を感じながら、それでも戻ってきたと嘘をつけずにいろいろな人に伝えなくてはならないと、頭を悩ませるのであった。
かれは眠りに眠った。なんだか酷く疲れていた。毎日は何もしないまま過ぎてゆく。
連載の締めきりは迫っているけど、かれの筆は進まずにいた。書かなきゃいけないのは承知だけど進まないものは進まない。どことなく最近進みが悪いと自覚している。特にこれといった不調の原因はないのだけれど、なぜだか酷く眠くやる気がしない。季節が冬になると少し眠気が増す。そのせいだとかれは思っていたが、実はそれだけではないようだ。いろいろ考えるのも面倒だから、冬のせいにして広い1ルームのマンションに置かれた大きなダブルベッドでずっと眠っていた。
長い髪の女も落ち着かずにいた。彼女は編集者としての仕事を為さないとならない。そうしないとただでさえ会社でかれとの関係を白い目で見られているのに、より一層酷い目で見られる。
東京に戻ると会社に顔を出さないわけにもいかない。朝は定刻に会社へと出勤し、上司の指示を確認し、OLみたいな手伝いをしてから、かれの家に戻る。マンション入口のインターフォンを押せば、かれはちゃんと応答してオートロックを解除して中に入れてくれる。
関係は悪化していない。ただ最近、かれの筆の進みが極端に悪いのが気になるだけだ。
12階の部屋の入口では玄関を開けて笑顔を投げかけて出迎えてくれる。そこまではいつもと変わらない優しいかれだ。でもそこからは今までのかれと別人のようだ。
かれは部屋に戻るとすぐにベッドへ倒れこんでしまう。
「どこか悪いんですか?」と彼女は訊くが、「いや、眠いだけだ」としかかれは答えない。
しかたなく彼女はオレンジ色のカーペットの上に腰掛ける。テレビもないこの部屋では暇つぶしもない。
数日そんな事が続いた。さすがに落ち着かなくなった彼女はかれに尋ねてみた。
「原稿の仕上がり具合はどうですか?もうすぐ期日になってしまいますよ」
優しく、事務的に、編集者の女はかれに尋ねる。
「机の引き出しにあるよ」とかれは答える。
『なんだ出来ていたんだ』と彼女は思い、部屋の隅にある座卓へと近寄る。そして机の下の引き出しを引っ張る。そこには小さなノートパソコンが一台置かれている。この中にあるんだなと彼女は思い、パソコンを起動させる。
パスワードはかかっていないのですぐにデスクトップが現れた。デスクトップ上のどこにも原稿らしいものは見当たらない。整理好きのかれだからどこかにあるだろうと、マイドキュメント中などをあちこち探すが新しい原稿は出てこない。どれも古いものばかり、もしくは全く作品にならない数行の没作品ばかりだ。
10分、20分と見たがもうイライラするばかりになってきたので、かれに「どこにあるの?」と尋ねる。気づかなかったが、かれはベッドの上にはいなかった。ふと気配を感じて後ろを振り向くとそこに立っていた。彼女は自分がそんなに一生懸命になって探していたのかと自分自身に驚いたが、すぐにそんな事はどうでもいいと思い、かれに原稿の場所を尋ねる。
かれは女の後ろに座り、覆いかぶさるようにして彼女が握るマウスの手の上に手を置く。「さて、どこだったかな?」と、かれは言う。
しばらくカチカチ動かすけど、原稿はどこからも出てこない。女は怒りたい気分だが、なんだかかれに満たされてしまっていてどうでもいい気分にさせられてしまう。
「まだできていなかったみたいだな」なんてかれは言う。
『やれやれ』と彼女は思うが何も言い返す気になれない。『東京へ戻ってこない方がよかったんじゃないですか?』と言おうとした彼女だが、後ろを振り向いたらかれに口を口で塞がれてしまった。
じゃあ、もうどうにもならないね。やれやれ。かれはまだ自分に何が起きているのか、気づいていない。