2ノ2 奪イ合イ
かれは休養日に南のリゾート地で体を休める。スペインまで行く時間はなかったから、日本から近い南国の島で休養している。しかし天気は悪い。一日中ホテルにこもって、最上階のカフェレストランでカシスのカクテルを口に、雲に覆われた空模様を眺める。いくら運を手に入れたからといっても天候までは操れない。それがかれの感じる唯一の不満だ。
海は荒れている。波高い海に人の影はない。さすがの波乗り好きも今日の空の下ではあきらめたのだろう。なにしろどしゃぶりの雨なのだから。
赤いトラッシュボックス。青色いランタン。そんな隅にあるカラフルな物を見て物語のイメージを探す。どんなに頑張っても無駄な時はある。どんなに考えたって思い浮かばない時もある。時を待っている。生きている限り待つことは多い。
部屋に戻りベッドに横になり、寝てしまった。寝てしまったかれをテレフォンコールが呼び起こす。遠くで波の音が聞こえていた。かれは自分の居場所に舞い戻り、テレフォンコールに応答する。
「もしもし?」
「お客様がお見えになっております」とホテルマンはかれに伝えた。
かれはすぐに編集者である自分の女を想像する。『早いな、来るとは言っていなかったが』と思うが「ええわかりました」と、尋ねてきた相手の名も聞かずに答えた。
ロビーに下りると、待っていたのは長い髪の女ではなく、長い髪ではあるがサングラスをして口紅を濃く塗った女だった。薄紅色のノンスリーブワンピースを着ていた。
『さて誰だろう?』とかれは考えるが、すでにいくつかの想定の内だ。
女は言う。
「あなたを知っているわ」
かれはその言葉に面倒くさそうな表情を見せた。
再び最上階のカフェレストランを訪れる。今度は二人になって、口紅の濃い女と窓際の席に着く。料理は要らない。珈琲と紅茶だけ。話はすぐに済む。
夜になりカフェレストランの雰囲気は変わりつつあった。窓の外に海は見えず、代わりに街頭の明かりや灯台の明かりが目立つ風景に変わった。内部の舞台上では三人の奏者がクラシックを奏でている。口紅の目立つ女は艶やかな髪を揺すり、かれにいやらしい笑みを浮かべる。
「何か御用ですか?」とかれはクールに尋ねる。
「あなたが欲しいわ」と口紅の女は言った。
「そういうことかとは思いましたが、わかりました」とかれは答えた。
かれの持つ幾つかの一つがまた姿を見せようとしていた。
「君がどこをどう辿って、僕のところまで来たのかは知らないけれど、君と僕は同様の可能性を秘めているということだろう?」
かれは口紅の濃い女にそう尋ねた。
「さて、どうかしら?あなたが私よりも可能性が高いとは思えないわ」
女はかれにそう告げて、かれの顎に人差し指を当てた。
そして濃い口紅をかれの唇に近づける。その口紅を打ちつけるかのような強い口づけがかれを襲う。かれは抵抗することなく対応する。女の口紅の全てを奪い取ってしまうかのようなさらに強い口づけを返す。
二人はかれの部屋の中にいた。立ち上がり向かい合って口づけをした二人はやがてベットに倒れこみ、さらに深い奪い合いを始めた。それは異性の求め合いなんかではない、激しい奪い合いのようだ。自分の優越を争いあう。互いにどちらが上になるかを奪い合う。どちらが相手を感じさせているかを競い合う。自分が男として、はたまた女として魅力的かを示しあう。相手を自分の虜にする。いかに下品な人間かを知らしめるかのように試す。
『君は下等な生命体だ。どこまでも愚かではしたない』とかれは女に言っているかのようだ。
女は抵抗し、自分にくい付く男をくらい尽くそうとするが、かれは女の中で暴れ続ける。その激しさに女はもはやただの雌にしかなれなかった。
女はいくらしても、たまらない感情で求め続け、全ての生気が果てるまでかれに吸い付いた。後は奪い続けるのみだった。かれは女の中から全ての生気を奪い取っていった。
なんて醜く、汚い光景なのだろう。口紅の女は枯れ果ててゆく。かれはさらに自信を増してゆく。
全てが終ると、女は疲れ果て、自殺志願者のような虚ろな瞳で天井を見上げていた。
「どうだい?満足か?」とかれは女に尋ねる。
女は答えない。答えられないといった方が正しいのかもしれない。まるで行為の前とは人が変わってしまったかのように覇気がなくなってしまった。
「早く帰るがいい。ここにいても君には何の価値もない」
「そうかもしれない」
女はぼそりとそう答える。そしてかれ女は脱ぎ捨てられた下着やらワンピースやらを着飾ることもなく、ただ身に覆い、髪の毛も顔も汚れたまま、サングラスで顔を隠して部屋を出て行った。
あの男はひどいケダモノ。血を吸うバンパイアのような男だ。
卑下、劣等化し、蔑み、笑う。かれのその笑みには強い吐き気さえ感じるだろう。
それがかれの生き方だ。人が人を見下す。見下せば見下すほど、かれは優位に立つ。それが奪い合いを始めた種の人間の生き方だ。
※
口紅の濃い女が去った夜は酷く不安定な夜だった。かれが女から奪い取った優越感は酷く吐き気をもよおす臭いにおいがした。
安定した感情を歪ませるものがある。さらには無駄な興奮がかれの気を鎮めさせてくれない。かれは夢の中で激しく何人もの人間を殴りつけていた。殴り殴って、血なまぐさい香りが辺りを包み込む。赤い世界が広がってゆく。夢の中でその光景に顔を赤く染めて笑顔を浮かべている。
寝汗で目が覚めた。胸糞悪い感情が夢の後でも胸中で暴れている。窓の外はまだ薄暗い。
「歪んでいやがる!」
大きな声でそう吐き捨てた。口紅の女はもういない。けどそうとでも叫ばなければ感情は爆発してしまいそうだった。「世の中はけち臭く、どす黒い人間どもで溢れている」と言って、かれは誰かを殴り殺したい。
小奇麗な格好をした女も化けの皮一枚剥がせば、汚いどぶ色をしていた。わかっていたつもりでも実感した後の感情は落ち着かない。
かれは奪うだけ奪った物を大変忌み嫌う。腐敗臭が鼻の穴に残る。だからかれは『けち臭い奪い合いは大嫌いだ』と実感する。
夜も明けて、一階のロビーでコーヒーを飲み、新聞を読んで過ごしていた。とても一人でいる気になれない気分で、現実感のある人の多い場所で過ごしていた。
昼前になって長い髪の女がフロントを訪れ、白シャツと白いパンツスタイルでかれの姿を発見した。昨夜と今朝に熱いシャワーを浴びたが、どぶ臭さは今も消えていない。それでもかれは彼女の前で何事もない幸せな姿を示さないとならない。
「やっとの休日なのに残念ね」と編集者の女はかれに声を掛けた。
かれは一瞬ドキッとしたが、それが天気の話である事に気づき頷いた。昨日ほどの大雨ではないが今日もポツポツと雨が降り続いていた。
二人は近場のレストランでその日を過ごした。甘い女の香りに少し落ち着いた。でもかれはその日、彼女を抱くことはなかった。
「疲れているんだ」とかれは言った。
さらにその翌日は空の色がすっかり青く回復した。二人はレンタカーを借り、島を一周するドライブを楽しんだ。少しずつ状態は快方には近づいている。
潮風も心地よい。日差しも強く浴びている。ビーチ脇を走り抜ける景色も最高だ。岬の強い風に吹かれて彼女がはしゃげばかれは心からの笑顔を見せることができる。
それでもかれの心の奥底はすっきりしない気持ちを含んでいる。
枝を折らなくちゃ済まない気分なんだ。苛立ちを消しにいけばいい。枯れ木はどこにも消えやしない。いつまでもそこで待っているのだから。




