2ノ1 枯レ枝ヲ折ル
暗く深い森の中に一本の枯れた木がある。県道からさほど離れていないところだからその場所さえ知っていれば誰でも簡単に行くことができる。
枯れた木のある場所までは車の通れない林道を歩いてゆけばよい。だけど何もない場所だからあえてその場に行く人なんていない。たまに山菜を取りに来る老女がいるくらいだ。
かれは日課として、およそ週に一度その場を訪れる。そしてその枯れた木の枝を折る。普段は短い枝の先を折るが、その日は幹から伸びる枝の根元を力強く折り切ろうとする。
「ふう、うああ、ふん!」なんて間抜けな声を上げて、力いっぱい枝に体重をかける。木の枝はメキメキと音を上げる。かれは枝を上下に揺する。
メキッといって枝は折れ、さらに力いっぱい捻じり、折りきれない部分を完全に捻じり枝を分断した。
1時間近く経ったろう。かれは無駄に体力を使いきり、その行為を行った。折れた枝を森の奥に投げ込む。
よく見ると枝はそこらじゅうに散らばっている。誰かが折った跡がむしり取られた折れ目ではっきりとわかる。
全て、かれがやったことだ。
たった一本の枯れた木が葉の生える周りの木々に囲まれて一本だけそこにはある。不思議だがその木は枯れているにもかかわらず腐らずに倒木もしない。かれがいくら枝を折っても、また枝は何もない幹の脇から生え出してくる。枯れているとはいえないのかもしれない。でもその木に葉か付くことはない。その木はいつまでも枝を伸ばして立っている。まるで自分が枯れてしまっているのを忘れてしまっているかのように。
よく見るとその枯れた木は他の木より枝の多い木だ。無数の枝が生えている。まるで葉の代わりに枝があるかのように枝ばかりが生えている。だからかれがいくら枝を折っても折り尽くすことはない。
その場を訪れるのはかれとこの辺りに住む老女くらい。その木の存在に気づく者はかれ以外にいない。だからかれは辺りを気にせず、その行為を行う。
かれは枝を折りに満足するとその場を離れて県道まで出た。そして道路脇に停めてあったポルシェ911に乗り、山奥にある自分の別荘へと向って発進した。
山の中にある別荘では女が待っている。近くにはマンションタイプの貸し別荘があるがこの時季は誰もやってこない。たまの土日にのんびり休暇を過ごしたい家族がやってくるがそれも滅多にない。そんな場所だ。
ポルシェ911を別荘の前に停め、玄関ドアを開ける。中には女が待っている。かれはそこで毎日を送っている。
山奥の別荘に帰ってくるかれを待っている女が玄関口まで走ってやってくる。
その女は長い髪を潤わす編集者だ。
かれが書く小説の管理をしている。完全なる公私混同で一日中、長い髪の女はかれの傍にいる。どれだけ優れた文章を書こうと、どれだけの駄作であっても、彼女は関係なく頷く。彼女にとってかれの書く作品はすべてOKなのだ。かれがかれであって、かれが小説家であればそれで十分なのだ。そんな関係がもう3年半も続く。短いようでとても長い。
10年前に描き始めた作品を5年3ヶ月かかって書き上げたかれは、それをある出版社の新人賞に応募した。作品は大賞を受賞し、売り出された作品は一部の読書家によって広まり、3年半前に2作目が出版されるとかれの小説はあっというまに広まった。
かれは売れっこの作家に加わり、専属の編集者が付いた。『溝端』という名前で売り出しているかれに、黒髪が綺麗なその女が付いた。さして本が好きなわけではないが、国語力に自信があったので彼女は編集者になった。現在24歳だ。
女は専属の編集者となり、いつの間にかかれにひかれていった。
かれはメディアにはいっさい顔を出さない。テレビはもちろん、雑誌にさえ姿を曝さない。だからかれはどんな人物なのかはヴェールに包まれ、その未知のイメージがかれの人気をより一層増している。
「最近はずっとこっち(山奥の別荘)ね」
長い髪の女はかれにそう尋ねる。
「そうだな。今の作品にはここの方がいい。今までの作品とは違う。緩やかな時の流れを出したいんだ。都会のせわしさの中じゃ雰囲気を出せそうにないからね」と言って、微笑む。
「今夜は帰らないとまずいかい?」
かれがそう尋ねるのに対し、「うーん、大丈夫。理由を付けておくから」と長い髪の女は答える。
でもどんな理由も意味を持たない。その女とかれの関係は、出版社の間じゃ周知の上だ。会社にとってはかれが売れる小説を書いてくれればそれでいい。むしろ余計な気を回して女を引き離して、『溝端』という名の小説が売れなくなるのを恐れている。女がかれに付いているのは他の出版社が寄り付きにくいのも好都合だ。売れている今の内は今のまま、それがいいと出版社も考えている。
二人は別荘で誰の邪魔も入らない時を送る。
「いろいろやりたいけれど、一つ一つ済まさないといけないこともあるよね」
かれは自分のカノジョである編集者の女にそう伝える。
グラナダにも行ってみたい。ストレートで細身のスーツも新調したい。かれはそんな風にあれやこれやとやりたいこと、欲しい物を列挙する。たくさんの欲求があって、たくさんの望みがある。きっと今のかれならその全てを可能にできるだろう。夢絵空事ではない可能な願望を並べているだけだ。
けどかれは最後にこう言う。
「いろいろやりたいけれど、ぼくはまず今書かなきゃいけない物があるだろう?今は何一つ叶いそうにない」
長い髪の女はそんなかれに言う。
「それならせめて、今夜は何が食べたい?おいしい夕食を作ってさしあげますわ」
かれは微笑む。
「そうだな、特にはないが、しいていうなら秋らしい物が食べたい。豪勢に頼むよ。お金は気にしない。いい食材を集めて、美味しくしてくれ」
「まあ?難しいけど、頑張ってみますわ」
「そうだね、難しい頼みだったね。でもそれだけ作りがいもあるだろう?難しい事にチャレンジしたその結果を僕は楽しみに待っている」
かれのその言葉に長い髪の女は頷いた。かれは自分のカノジョにそう伝えると、書籍に囲まれた自室に戻り、その中に篭り出した。そこがかれの仕事場だ。求められる小説を完成させなければならない。かれは今日が何曜日かも忘れ、自分の世界に入り込み、ただ机に向って脳に想の世界を蔓延らせるだけだ。
冴えない主人公が優れた男の助けを借りて、巻き込まれた事件を解決するストーリー。どこから生まれ出るのかはわからないが、ここ数年この種の物語を書き続ける。
この主人公は本当に出来が悪い。頑張らないし、厳しい状況に追い込まれるとすぐに逃げ出す。愚痴が多く、すぐに他人のせいにする。本当にろくでもないけどどこか憎めない。生きるために貪欲である。様々な場面設定の中でその主人公は様々な役を演じ、様々な問題を解決して何とか生きてゆく。行動が遅くてじれったい主人公でイライラもするけどストーリーには笑いもあり、問題を解決したときの痛快さがたまらない。それだけじゃなく、物語にはどことなく爽快な一面がある。それがどこから生まれるのかはわからない。
これらは雑誌などに語られる評論家のコメントだ。しかしかれの物語の爽快さがどこから来るものなのか、それについて語っている評論家はいない。誰もその理由には気づいていない。
ひたすら想の世界を巡り続けている。かれは気づいていないが、夕方には買い物を済ませた女が別荘に戻ってくる。そして長い時間をかけて夕食を作り始める。20時を過ぎる頃に香りは漂い出す。その香りはかれのいる書斎にも伝わる。腹を減らせていた腹が小さく鳴った。
「もうこんな時間か?」と、かれは呟く。
脳は限りなく現実の世界に戻っていく。想の世界は遠ざかり、かれはパソコンに並べられた文字の列を確認する。その進んだ文字数に満足し、大きな背伸びとあくびをした。
秋に松茸の香り。今はそれで十分に満たされている。
※
『僕はこの世界の中で最も余裕を持った生き物だ。だから何も怖くない』
新人賞を授賞した時、かれはそういった種の笑みを浮かべていた。自分以外の全ての人間と自分には違いがあるかのように、瞳は澄んで、心身は落ち着いていた。
でも本当はそうじゃない。そんなに余裕があったわけじゃない。ただほっとしていただけだ。あの時、かれが自分の賭けていた小説の結果が出たとき、かれはその成果に報われる思いを抱いていただけで、それ以上の余裕なんてなかった。誰かは『かれがとても余裕を持った人間だ』なんて言っていたけど、決してそんなわけではない。かれは極当り前の、むしろ人よりも気の弱い人間だった。
4年と少しが過ぎて、かれはまたあの時と同じ種の笑みを見せていた。それはまた自分が望むところまでやってこれたとほっとしている笑みだ。また新しい小説の一幕が書きあがったようだ。
長い髪の女はかれを笑顔に、完成を信じて感じて喜ぶ。
「早いね。もう出来たんですか?」
かれは語る。
「昨日の夜はペンを手に持ったまま、まるで進まなかった。1時間、2時間とね。何も思い浮かばずに、ずっとペンを握っていた。少しずつ睡魔がやってきて、僕は机の上で眠りそうになっていた。もういつでも寝てしまうことはできただろう。後は自分の眠りに堪える意思がなくなるのを待つだけだった。少しの夢が垣間見えて、僕はもう眠ってしまうんだろうなと思った。でもその夢は僕が書こうとしている物語に繋がっていた。白昼夢のごとくその夢を追って、僕はペンを動かし出した。物語はそこから始まっていた。自分でもびっくりしたよ。朝の明かりが差し込む頃にふと我に返ったら、十分なほどの物語が書きあがっていた。だからすぐに見直して、パソコン上に書き換えた。ほとんど直す必要もなく物語は書きあがったよ」
そしてかれは自慢げに唇を上げて見せた。
「読ませてください」と編集者でありかれの女である、長い髪の女が尋ね、「ああ、もちろん」と作家であるかれが答える。
女とかれは狭い書斎に入り、机の上に用意されていたプリントアウトした原稿に向かう。女は木のフレームに革張りされた椅子に座り、その原稿に目を通す。かれはにこりと笑み、女の後ろで、背もたれに手を付き、原稿を読む女の長い髪を眺めている。
「どうだい?」
一通りの原稿がさっと読み終えそうになったところでかれは女に尋ねる。
「うん、おもしろい」と、女は真剣な声で答える。
「だろ?」
「これならすぐにオーケーよ」と編集者の視点で女は男に言う。
でもその評価はさして意味を持たないが。
「すぐに持っていくわ」と編集者の女は言うが、「いや、朝食を食べてからにしよう。今日は僕が作るよ」とかれが返す。
そしてかれは彼女の肩をポンと叩き、キッチンへと向った。
『恐れることは何もない。ぼくはうまくやっている』
かれはそういう類の目をして、自己啓発をした。
でもどこかに小さな不安を感じているはずだ。永久の幸せなんて存在しない。苦あっての楽、楽あったらまた苦だ。かれはその不安を消すために、また枝を折りにいくのだ。