4ノ8 湧キ上ガル力
今、ぼくはきみに会いたい。どうあってもきみに会いたい。きみに会える。誰がなんと言おうときみに会い、きみの傍にいて、きみを感じたい。誰がなんと言おうと、ぼくは気にしない。きみに会いたいと叫ぶ。きみに会いたいと言い続ける。
森の外は晴れ渡っていた。晴れ晴れした空がどこまでも続いている。ぼくは生まれながらに生まれた意味を求めていた。生まれながらに運命を求めていた。生まれながらにきみを求めていた。
森の中に捨てるように置いておいたマウンテンバイクを起こし、舗装された路上に移す。タイヤは少し空気が足りないみたいだけど、きっと問題はないだろう。この山を下りきれば、ぼくには新しい生活が待っている。深い闇の出口がもうそこに見えている。
あの日、きみは泣いているぼくの声に気づいてくれた。そしてその声に優しく語り掛けてくれた。
「わかった。いくわ」と、きみの光はぼくに微笑んだ。
ぼくの赤い熱はきみの姿の手を引き、緑の空間の外を目指した。緑の空間はぼくらを邪魔し、その世界の外に出ることを許さなかった。だけどもう枯れた木にはそれほどの力が残っていなかった。ぼくらが繋がり合った想いの方がはるかに強かった。その世界の出口を求め求めて走り続け、緑の空間の外に出ることに成功した。
枯れた木を抱いたまま眠ってしまっていた。目を覚ましたとき、木の中で起こった出来事は現実となっていた。ぼくの携帯電話にはきみの着信履歴が残っていた。ぼくはきみの掛けてきた電話にすぐさま折り返した。鳴らし続けるベルの音をあきらめずにいたら、きみは通話に切り替えてくれた。
「もしもし」とぼくは言った。
「もしもし?」ときみは答えた。
きみと会話をするのはいつ以来だったろう。きみのやわらかく抜けたような声はいつかの声とまるで変わっていなかった。
「今、どこにいる?」と、ぼくは尋ねた。
「え?」と、きみは聞き返した。
「きみを緑の男から救うよ」と、ぼくは言った。
きみはまだ、今起きている現実を現実のものとして認めたくないようだった。
「ぼくは知っているよ。きみが今、とてもつらい目に合っていること。いや、きみは今、今の状況がつらいことだと気づいていないかもしれない。でもぼくはわかっている。なぜならぼくもきみと同じだったから」
少しの間をおいて、きみはぼくに尋ねてきた。
「わたしを、助けてくれるの?」と。
「ぼくを信じてくれるかい?」
ぼくがそう尋ね返す。きみは、はい、とは言わずに、今の居場所をただ教えてくれた。それはまだ半信半疑の状態だったのかもしれない。
かれが来るまでの数日間は、枯れた木の魂と向き合っていた。緑色の世界を持つ木はまだ生きていた。そして生きることを望んでいた。でも裸になった木は生きる術を持っていない。光合成の出来ない木は枯れるしかない。
人の力を奪うことが、光の届かない山中にある裸木の生きる源となっていた。今も木は生きる力を求めているだろう。その力を求めているだろう。
ぼくはマウンテンバイクを山の下り道へと向けた。そして一気に加速し、右へ左へうねる坂道を下っていった。スピードは恐ろしく出て、転ばないかと不安を与えるけれど、その不安の先にあるものが早く欲しくて一気に駆け下りた。
田んぼのあぜ道に止まる。新しい世界が始まっている。現実世界は明らかに華やいで見える。こんな何もない田舎の景色がぼくには美しく目に映る。
きみに会いにゆこう。もうぼくを止めるものは何もない。あったとしてもぼくを止めることはできないだろう。想いは募り、完全に溢れ出している。
ぼくは行く。きみを求め、きみを救い、きみを生かすため、ただそのためだけに全てを込めて前へ前へと進んでゆく。
闇の中、ぼくはきみを探していた。辺りはすっかり真っ暗になっていた。田んぼでカエルが鳴いていた。並木道の木々からはセミの鳴く声が響いていた。自転車で車の脇を過ぎてゆく。まだきみの居場所がはっきりとわかっているわけではない。きみがいるゴールを探している最中だ。
大きな通りに出ると、スーパー銭湯の看板が見えた。ぼくはふと冷静になって、そこへ向かった。もう1,2週間の間、風呂にも入っていなかった。体が汗まみれなのはもちろん、髪はぼさぼさ、髭は伸びっぱなし、服は泥で汚れている。この格好ではどんなにぼくがまともな人間だと言っても信じてはもらえないだろう。
きみに会う前に体を洗う。歯を磨き、髭を剃る。ひどくもしゃもしゃで、自分でも本当に自分が自分なのか疑いたくなる。記念に写真でも撮りたくなるくらい、自分が誰だかわからない。
でもそんな事を楽しんでいる暇もない。全てをすっきりさせて、それから近くの大型衣料品店で、安い服を一式揃えて着替えた。髪の毛だけは伸びたまま、美容室はすでに閉まっていた。もしオープンでもそこまでは考えていない。しっかりと髪を梳かし、それでよしとした。安い服だし、いろいろと今ひとつの自分の姿だ。本当は家に帰って、一通りセットし直せばいいのだけれど、そんな余裕はない。
今すぐにでも、きみに会いたい!
そして自転車を漕いだ。車のヘッドライトが過ぎ行く道を走り、きみが伝えてきた地名の辺りに着いた。ここだ、ここだ、と一瞬はしゃぎたい気分になったが、それはまだ早い。ここまで来ただけで、まだきみのいる場所はわかっていない。この地域だけでも結構広いはずだ。
さて、ここからどう探そう?きみに電話を掛ければ早いのかもしれない。でもそれでは少しつまらない。ドラマチックに出会うのなら、きみの家を探すべきだ。なんてバカバカしい事を考える。もう少し探してみようと結論付ける。バカバカしい考えだけではない。きみのヒントをもう少し信じたい。大きなショッピングモールのような場所があり、新しい家が立ち並ぶ場所、通りの向こうに大きな看板がいくつも並んでいるのが見える。きみの言っていた場所はそこだろう。
車線の反対に着く。きみの家はもう近いはずだ。さてどう探す。ショッピングモールの駐車場に一人の男が立っている。車に向かう人や、車から下りてお店に向かう人はいても、車の止まっていない駐車スペースに突っ立っている男はそいつだけだ。そしてぼくはそいつを覚えていた。
緑の男だ。
恐れはない。むしろぼくは安心した。そいつがいるということはきみの居場所もここから近い。
ぼくは自転車を転がして、緑の男の傍に近づいていった。そして話しかけた。
「まさか、あなたがこの町にいるとは思いませんでしたよ」
男はぼくの方を見つめ返した。そしてにやりと笑い、答え返してきた。
「この町は俺が選んだわけじゃない。あの男が選んだ。君から全てを奪った男がね」
「かれはどうして、彼女をこの町に?」
ぼくはそう尋ねてみた。
「さあね。大切なものは近くにおいて置きたかったんじゃないのか?その方が安心だと思ったんだろう」
「でも、その考えは間違っていた。おかげでぼくは思ったより簡単に彼女に近づくことができた」
緑の男は言う。
「かれの誤算はあの女じゃない。おまえだ。おまえにある。女のアパートで大学時代の卒業写真におまえがいた。それは俺も知らない偶然だ」
その偶然はぼくにとっても同じだ。だからぼくは尋ねる。
「どうして、あなたは彼女の魂を奪い、あの木に与えた?どうして彼女だったんだろう?」
緑の男はぼくのすぐ傍まで近づいてきた。背の高い男だが、この間の時のように奇妙な印象は受けない。恐れも感じない。ぼくは同等の立場で男と向き合っていられる。
「おまえを女のいる場所へ案内してやろう。ここまで来て、おまえを遠ざけても何の価値もない。どうせおまえはいずれあの女に会うこととなるだろう。俺がおまえを遠ざけることは俺にとっては時間の無駄だ。着いて来い」
緑の男は上から目線でそう言った。雑音の消し飛ぶ声で、はっきりとぼくに伝えた。
ぼくときみの答えが近づいている。ぼくらはもうすぐその答えに到れそうだ。
夜の闇の中、ぼくは自転車を押して、背の高い緑の服を着た男の後ろを付いていった。住宅街を歩くこと20分、横並びの1階建てアパートの前で、男は立ち止まった。
「女は一番左の部屋にいる」
緑の男は振り返り、ぼくに向かってそう言った。ぼくは駆け出して、今すぐにでもきみのもとへ行って、きみを救ってあげたい。すぐにでもそれは可能だろう。でもぼくにはまだ済んでいないことがある。その事を無視して、きみのもとへは行けない。
ぼくは緑の男に尋ねる。
「あなたはどうして、ここまでぼくを案内したんですか?いや、もっといえば、どうしてあなたはぼくを元に戻し、彼女から力を奪ったのだろう。もともと、そもそも、あなたはどうしてぼくから力を奪ったんでしょうか?」
聞きたいことは山ほどあった。全ての理由を目の前にいる男は知っているはずだった。その答えを出さずに、きみに会うことはできない。なぜなら今もこれからもぼくらにこんな異常な事が起きることは許しがたい出来事だからだ。
「その答えが必要か?女には今すぐにでも会える。俺はおまえの邪魔をする気はない」
緑の男がそう答え、ぼくは首を横に振る。
「そうじゃない。そもそも、ぼくは彼女だから救おうと思ったわけじゃない。木に力を奪われた相手が誰だかわからなかったけれど、ぼくは木に力を奪われ、ぼくが失った10年間と同じような思いを、その誰かにして欲しくなかったから、その誰かを救おうと思って、あの木の傍にいた。だから彼女を救うことがぼくの結論じゃない」
緑の男は口を大きく横に開き、にやりとして見せた。一瞬歯がきらめいたかのようにも見え、嫌な笑みだった。
「そうだよな。そうだ。俺もそう思っていた。おまえはそういう役目だ。だから俺はおまえを女のもとへ案内した。わかるか?」
どういう意味だろう?ぼくがきみを救うことを緑の男は歓迎するということなのか?ならなぜ、この男は人から力を奪う?ぼくはまるで理解できない。
そういう表情をぼくが浮かべていると、緑の男はさらに話し出した。
「おまえはあの木に関わるものとなった。それは俺と同じになったということさ。ただ役目が違う。俺は誰かから力を奪い、あの木に与えること。おまえはあの木からその力を抜き出し、誰かに返す。それからあの木の力はかれが利用するのさ。おまえが恨んだあの男が。それが俺らの関係だ」
少し考え、少し理解する。
「力を奪う者、力を利用する者、力を取り返す者」
ぼくはそうつぶやいた。
「そうだ。俺たちは完璧なサークルを作った。おまえが来ることで、サークルは完成したのさ」
「違う!」ぼくは声を張り上げた。「こんな事はあってはならない。あなたが人から力を奪い、力を木に与えることさえしなければ、全ては終わる。それが本当の結論だ」
緑の男は動じていない。焦ってもいない。かれとは異なる。そして冷静に話し出す。
「俺もかつてはあの木に力を奪われた」緑の男は話し出した。「でも俺は、おまえと違って、奪われた力を取り戻そうなんて思わなかった。そのときの俺は、いろいろな事がどうでもいいと思っていたからな。そんな考えはなかった。
数年経ったある日に、俺から力を奪った老女が現れた。そして俺はあの枯れた木の下に案内された。老女は言った。『枯れた木は貪欲に生きようとする。多くの木々が天に葉を伸ばし、生きる争いする中で、その木は伸びずに枯れてしまったが、人の生きる力を吸い込んで生きる術を得たのだ。争いに勝てないものは別の方法で生きられる』とな。
それからしばらくして老女は俺の前で死んでいった。もう病んでいたのさ。だから死ぬ前に、俺にその全てを伝えたのさ。だから俺はあの木の番人になることを決めてやった。俺は枯れた木の下に行き、木と契約した。別の力を奪ってくる代わりに俺の力を返して欲しいとな」
「それで、ぼくから力を奪ったのか」と、ぼくは口を挟んだ。
「違うな」緑の男は否定する。「最初に奪ったのは、この町で作家を目指していた若者さ。その男は作家になれずに落胆していた。もう死んでしまうかとも考えていた奴さ。だから俺はその弱った男から力を奪った。
俺はその男の力を枯れた木に与え、代わりに力を取り戻すことができた。でもすぐに気づいた。俺はこれからどう生きていけばいいのか。それからその男もこのままではやがて自殺でもしてしまい、枯れた木は生きていけないだろう。と。
だから俺は試しにその男を枯れた木のある場所に導いてみた。そしたら男は急に木の枝を折り始めたのさ。そのときのそいつにとって、それは自殺行為だったんだろうな。自分の力が埋まる木を傷つけているのだからな。でもそうする事で男は不思議と力に満ちていったのさ。よくはわからないが。
それでも俺はこれが力になると感じた。だから俺は新しい契約をその男と枯れた木に結ばせた。俺らが別の犠牲者から力を奪い、そして男は枯れた木に与え、木の枝を折り、力を得られるという契約をな」
「その男というのが、かれだったんだね」と、ぼくは言った。
「そうさ。そのとおりだ」今度は緑の男はすぐに肯定した。「かれは『溝端』と名乗る作家になった。俺はあの木を守ることができるようになった。かれが小説で得た資金によってな。そしてかれに奪われる力のもととなったのが、おまえってわけだ」
「でもいつまでも状況は同じじゃない」と、ぼくは言う。
「そうだ。おまえは自分の力を取り戻そうとしに来た。そして実際に取り戻した。俺が枯れた木の下におまえを導くと、枯れた木から契約もせずに力を奪い返してしまった。おまえには俺らと違い、生きようという力をあの枯れた木より強く持っていたからだろう。それからさらに、誰かに対しても生きろ、というエネルギーを与える力も持っている。だからおまえはあの枯れた木から自ら力を取り戻すことができ、女の力を自分の内に取り入れてしまうこともできた。俺はその事がわかった。おまえにはそういった力が備わっている。おまえもまた枯れた木に関わる一人なのさ」
緑の男はぼくを自分と同じ側に取り込もうとしていた。ぼくは返す言葉が見つからなかった。ただ、取り込まれてはいけない、とだけは感じていた。
「それより、どうして彼女から力を奪ったのかな?」と、ぼくは話を逸らし尋ねた。それが、ずっと感じていたぼくの疑問だったことも確かだ。
「あの女はただ、『溝端』のファンだっただけさ。だからおまえと同級生だった事が偶然だった。しかもおまえがあの女を好いていたなんてのは、ひどい笑い話さ」
緑の男の答えにぼくは高揚した。驚きとか、怒りとか、恥ずかしさとか、いろいろな思いが巡って高揚した。けれど冷静になろうと努めた。言葉を発せずゆっくりと深呼吸する。
「まあ、どうでもいいさ」と、緑の男が投げやりに言った。ぼくが黙っているのに痺れを切らしたのか、一人勝手に話し出した。
「人という生き物は自分を守りながら生きている。自分の力を固持する者、力を持たない者を蹴落とす者、そうやって生きている。天に葉を伸ばす木々のように争いながらさ。
力を持たないものはまっすぐ伸びて生きていけない。生きていけてもしょせんは知れている。なんとか光を得ようとわずかな隙間から葉を出して生きてゆかなくてはならない。ひどく疲れ、気分の悪い生き方さ。
本当に力のないものなんかは枝も出せずに光合成できず枯れてしまう。だから天に葉を覆えない木は特殊な力を持つことでしか生きていけないのさ。俺もその一人、かれもその一人、枯れる運命にある木と同じ力のないものさ。おまえも俺らと一緒。だから特殊な力で生きてゆく方がいい。その方が楽に生きられるしな。
それでもおまえが木々の隙間から何とか天に葉を伸ばす争いをして生きてゆくというのなら、そうすればいい。くだらない争いだ。そうしたければそうすればいい」
緑の男は投げ捨てるようにぼくにそう言い、ぼくに背を向けた。瞬間、怒りに近い、怒りとは異なる不思議な力がぼくの胸の内から広がり出すのを感じた。
「蹴落とし合いでも、自己固持でも、特別な力でもないよ。人が生きてゆくのは、人が生きてゆく力っていうのは、、、」
ぼくはそう言いながら、自分の芯から湧き上がる心地よい感情を受け入れた。
生命の営み、萌え上がる草木の力。それはまるで辺り一面に黄色い花が咲き広がった光景のように生き生きと噴き立ってくる。その力は、欲望でもなく、才能でもなく、誰もが持っている幸せを感じることのできる力のようなもの。戦いや争いでなく、競い合いやほとばしるエネルギーを燃やすことへの喜びのような感情。木々は花を咲かす。我がためでなく、共に生きる同じ生命体の繁栄のために。
ふとそんな力を感じていた。
「身のままに、ありのままに生きていけばいいんだ。ぼくは人を蹴落とす気はない。人の力を奪ったり、取り合ったりして生きてゆくわけじゃない。ぼくはぼくのままに、ぼくを高めて日々を生きてゆくよ」
その言葉は緑の男の耳に届いていたはずだ。男は何も言い返さなかった。緑の男はぼくの前を去っていった。消えるように、無くなるように、ぼくには男が小さく消えてゆくのを感じた。全ては静かに消え去っていくのを感じた。
これでよかったのか、ぼくにはわからない。
わからないけれど、ぼくはきっと何の躊躇いもなく、やっときみに会いにゆくことができるだろう。
※
きみに会いたいぼくは臆病者だ。11年前のきみにとっての知人を、いったいどれだけ覚えているというのだろう。ぼくにとってきみはきみでしかないけれど、きみにとってぼくは何人も何十人もいる思い出の1ページに載っている一人の存在にしか過ぎないだろう。きみがぼくを思い出してくれていたのは、いったいいつまでだろう。きっときみは何年も前にぼくの存在があったことすら忘れていたにちがいない。
そんなぼくはきみに、どんな顔をして会うことができるだろう。だからといって、ぼくがきみをどれだけ覚えていたかといえば、ぼくもおぼろげな記憶しか持っていない。記憶の1ページにはでかでかと載っていても、後から書き足されたたくさんの記憶に、きみのイメージは少しずつ薄れていってしまっている。
ぼくはきみの顔を見て何を感じることができるだろう。22歳も大人だけど、もうすぐ33歳になるぼくはより大人になったのだろうか?それともただ年を取っただけだろうか?きみと瞳を合わせればその答えは出るかもしれない。きみは大人になったのか?ただ年を取ったのか?
蝉が鳴く夜は、他にいかなる音もなく静けさに包まれている。夏の夜の静けさは独特な優しさをかもし出している。静かな町の外れの新興住宅街にある4つ並びの一番左前に、ぼくは立っている。すでに寝ている人もいるだろうし、まだ起きて何かをやっている人もいるだろう。そんな時間だ。
ぼくはきみの住む家のドアノブに手を掛けた。ガタッと音がしてドアをゆっくり引いた。扉の中の世界が開ける。
ゴミくさい。まずはそう思う。残念な事にドラマチックな再会には少し欠ける。現実とはこんなものだ。しかしチャイムも鳴らさずに人の家に入っていくなんて現実なら許されないだろう。これはまだいつか見ていた夢の続きなのかもしれない。ならばこのゴミくささは?それはぼくにここが現実の世界であることを教えてくれている唯一の感覚だ。
部屋の電気は付いていた。広めの特に何も置かれていないダイニングの電気は消されずに付けられたまま、でもきみが玄関口までやってくる気配はない。ぼくの心臓は急に3倍速くなる。すると足がすくんで、玄関を上がることができない。
『夢のような現実が今ここに起きているんだ。ぼくはきみの家を現実に訪れている。きみはぼくが助けに来ることを知っている。この家の中にきみは確かにいて、自分を見失ったまま、自分に戻ることを望んでいる』
ぼくは自分にそう言い聞かす。これで合っているんだと、ぼくはぼくに言う。
汚い靴を脱ぎ捨てて、部屋に上がる。そして奥にある部屋に向かう。右の畳の部屋は扉が開いていて中が見える。閑散とした部屋にゴミが散らかっている。きみはもう一方の部屋にいるのだろう。
そしてぼくはゆっくりともう一方の部屋のドアを引く。キュルルルと音をたてドアは開く。中は明かりで照らされていて、ベッドの上に、向こう向きになって一人の女性が眠っている。
ぼくの心臓の鼓動はまた3倍高鳴った。これだけ早く高くなったらきっと破裂してしまうに違いない。
きみは眠る。
人生には何もない。うんん、少しは何かあったかもしれないけれど、そのチャンスを逃せば後はずっと下るだけ。人生に成功しなかった女はいつか死んでしまうまで無駄にあるだけなんだ、と思う。
眠っているのに、きみは考えていて、悲観しながらも、どこかで可能性を探している。その可能性を可能にするためには力が必要なんだけど、きみにはその力が出てこない。
眠り続ければ、いつか元気になる日もあるのかな?いつまで寝ても、ただ寝ているだけで、寝るのは言い訳のようだ。きみは何もしない。何もしたくない。
ぼくはきみの眠るすぐ傍まで近づいた。
さてどうしよう。逃げようか。なぜ?急に起きて、悲鳴を上げられたらどうしよう?きみはぼくがぼくだと気づいてくれるだろうか?それともどこかの見ず知らずの男が押し入ったと思うのだろうか?
ぼくはきみの眠るベッドの横で膝をついて、きみのぼさぼさの髪を眺めている。きみの女としての匂いが鼻から入ってきて脳を強く刺激する。
きみに触れるか?それとも声できみを起こすのか?
そう考えていたら、きみは寝返りを打ち、ぼくの方に顔を向けた。ぼくにとってきみは、大人になった女性だった。同じ大人でも、きみはきみのまま11年前と少し違う顔をしていた。少しずつきみの思い出がぼくの中から生まれ、その上から新しいきみがインプットされ、過去のきみは薄らぎ、現実に今あるきみの顔がぼくの新しい記憶となる。
人それぞれ見方は異なるかもしれないけれど、ぼくにとって目の前にいるきみは紛れもなくきみだった。
「会いたかった」
ぼくはかすれ消えてしまうほどの小さな声で、眠るきみにそう伝えた。
夢の続きに入り込むかのように、ぼくはきみの顔をじっと見つめ、きみの顔に顔を近づけてゆく。見たこともない近さできみの顔がぼくの瞳の中に入り込む。
きみの香りに誘われて、ぼくの唇がきみの唇に向かう。
『きみがきみであることを、きみはずっと忘れてはいけないよ。これからきみはきみとして生きてゆくけど、きみはつらくてもきみであることを失うことはできないんだ。でもどうしてもつらいならぼくがきみのための力になってあげるよ。偉いことは言えない。ぼくもまたぼく自身を支えることさえ上手にできていないんだから。それでも今はわかる。ぼくがぼくであることの幸せはぼくにしかわからない。ぼくがぼくであって、きみを好きになれたという幸せはぼくにとってこの上のない喜びだ。きみはきみのままに、たとえそれが、ぼくでない誰かであるとしても、、、』
ぼくはきみの唇にキスをした。やわらかい感触がぼくの唇に伝わった。この幸せに一生包まれていたかった。できればこのまま時間も空間も固定されてしまえばいい。未来もやってこないで、ずっと今この瞬間を感じ続けていられればいい。
でもそうはいかないことはわかっている。ぼくの体は一瞬ぴかりと光り輝いたようだ。そしてその光は唇を通し、きみの方へと移っていった。一瞬の事だったけど、ぼくにはわかった。
そしてぼくはきみから唇を離した。またきみの顔が見えて、ぼくはその顔に見とれていた。
きみは眠り続けていた。ぼくはきみが寝息をつくたびにドキリとした。
今まで長く一人で過ごす夜が続いたけれど、今夜だけはきみを感じている二人きりの夜であれる。少しずつ睡魔がやってきて、ぼくは夢の世界に誘われる。でもぼくはきみが目を覚ます瞬間を待ち望んでいる。
きみの寝顔はさっきよりずっと幸せそうに笑っている。きっといい夢を見ていることだろう。そこにぼくはいるだろうか?きっといないだろうけど、そんな事に悲しんだり、悔しがったりしていても仕方ない。眠いまなこできみの瞳が開くのを待ち望んでいる。
半分眠ったような状態できみをずっと長い間見つめていた。カーテンの隙間からは外の光が漏れ始めていた。人工の明かりとは違う、ふんわりとした感じの明かり。きみはその明かりを感じて、目を開いた。少し潤んだ瞳で、黒目が白目の中を泳いでいた。
一瞬びっくりした表情を見せたきみだけれど、きみはすぐに笑顔へと変わった。ぼくもまた安堵の笑みを浮かべた。
そして伝えたかった言葉は、プレゼントのリボンを解くようにするりと抜け出した。
「きみが好きだ」
きみはにっこり笑顔を浮かべた。つらい過去など何もなかったかのように、今はただ笑顔を浮かべていた。ぼくはその笑顔に包み込まれ、温かい気持ちになった。今この瞬間何もなく、ただ未来への大きな扉が開かれたのを感じた。全てはここから始まる。幸せな、平穏なる、何気ないまいにちの始まりだ。
了




