*3*
サンタクロースに言われるがまま、僕は上着を羽織りニット帽をかぶり支度をした。
「準備はいいね」
心の準備だけがまだ済んでいなかったが僕は頷いた。
彼はラックに括りつけてあった赤いロープをほどくと、僕が先に外に出るよう指示した。窓から外を覗くと、暗闇の中をキラキラと彩るイルミネーションの中に巨大なクジラが空中を泳いでいるという異様な光景を見た。
「さぁ怖がらなくて大丈夫だ。このクジラは暴れたりしない、背中も頑丈だ」
僕は窓の桟にまたがり恐る恐る足をクジラの背中の上に伸ばした。ツルツルとしているかと思ったが案外滑らなかった。言われるがままにもう片方の足も外に出し、いよいよ僕は空飛ぶクジラの上に着地した。僕が背中に乗るやいなやサンタクロースも軽やかにクジラの背中に飛び乗ってきた。あまりの勢いに少し構えたが、なるほどクジラはびくとも揺れなかった。
「行きたい場所はあるかい」
唐突にサンタクロースが聞いて来た。急に言われても何も思いつかず首を横に振った。遠慮はいらない、と笑いながら、僕に腰を下ろすように指示してきた。
「君に面白いものを見せてあげよう」
サンタクロースはそう言うと赤いロープをぐっと握り直し、立ったまま指笛をピーっと鳴らした。するとクジラはそれに応えるようにゴーと鳴いた後、聖夜の闇を泳ぎ始めた。下を見ていると、住んでいる街がどんどんと遠のいていく。僕は落ちないように必死にクジラに掴まっていた。僕達を乗せたクジラは風を切って進んでいるのに、体感として少しも寒くなかった。
街はみるみる小さくなっていった。街のシンボルとして聳え立つタワーも随分小さく見える所まで来た。だいぶスピードにも慣れてきた僕はちらっと前方を確認した。サンタクロースは立ったままクジラを泳がせている。と、その向こうに薄青い雲が密集している所が見えた。夜なのに青く光って見えるその雲は異様だった。そしてクジラはその青の中に向かってまっすぐ進んでいるようだった。忘れもしない、その飛び込んだ感覚は何かを突き抜けるように少しの抵抗を感じた。しかしそれも束の間、あるいは緊張と恐怖で一瞬に感じられていたのかもしれないが、次の瞬間には明るく開けた“別世界”の中にいた。
僕は目を丸くして辺りを見渡した。全体を青い雲に包まれたようなその世界は、全方位を目で確認できるほどの規模しかなかった。クジラは少しずつ下降している。
「驚いたかい。いや、無理もない。」
サンタクロースはワハハと笑った。
クジラが下降していく先に建物のような物が見えた。どうやらそこに向かっているらしく、すぐそばまでくるとサンタクロースはまた指笛を吹いてクジラを止めた。そして止めるやいなやクジラからひょいと飛び降りたが、その着地した先は雲の上だった。
「さぁ着いたよ。降りるんだ」
急にそんなこと言われても足はすくんだ。地上からどれほど離れているかもわからないほど高くにいる事は確かで、雲の上に自分が立てるなんて思えるはずがなかった。落ちてしまったら助かるわけがない。そんな事を考えているとクジラはまたゴーと鳴いたかと思うと、体を揺さぶり始め、とうとう僕はサンタクロースの足元に振り落とされてしまった。とても気持ちのいい感触が全身を包んだ。サンタクロースは笑っている。
「さぁ、中に入って。温かいコーヒーを淹れよう」
サンタクロースはそう言うと建物のドアを開け僕を中へ誘導した。
「ここは…」
「私の家だ。まぁそこに腰掛けたまえ」サンタクロースは笑いながら答えた。僕は言われた通り椅子に腰掛けた。少しの間をおいてサンタクロースはコーヒーを運んできた。机の上には一切れ分欠けているバウムクーヘンが蓋をして置かれていた。サンタクロースは僕の正面ではなく机の角を挟んで右手に座った。帽子とコートを脱いだサンタクロースはいたって普通の紳士の様だった。
「驚いたかい」
またこの質問が飛んできて、今度ははっきりと「驚いた」と返事をした。コーヒーと部屋の暖かさで不思議と幾らか落ち着いている。
「そりゃそうだろうな、サンタクロースに連れ去られるなんてまるでおとぎ話のようだろうから。しかしこれは現実だよ、ジュード君」
僕はどんな顔をすればいいか分からなかったが、ただ頷いてコーヒーを啜った。
「つまりこれは凄く特別な事なんだ。よし言い切ってあげよう、今晩、いや今年、いやここ約十年でここに来たことがあるのは、世界中どこを探しても君だけだ」
そう言い切るとまたサンタクロースは大笑いをした。そんな説明を受けたところで僕自身、実感はまるで湧いてこない。夢だろうとも思いたいがそれにしては五感の感触が現実世界とまるで同じだ。しかしそこで少しふとある事が引っかかった。“約十年”という事はそれ以前に誰かがここへ来たことがあるという事じゃないかと思った。
「昔、誰かもここへ?」ドキドキかハラハラしながら僕は尋ねた。
するとサンタクロースはちょっと待っていろと残し、隣の部屋へ入っていった。そして紙のような物を持って帰ってきた。よく見ると手に持っていたものは一枚の写真だった。
「ご覧、きっと見たことがあるに違いない」
サンタクロースが見せて来た写真には、確かに僕が見た事ある人が写っていた。赤い帽子に赤い服、黒い長靴と白く長い顎鬚、そうそれは紛れもなく僕がイメージしていたサンタクロースであり、そしてその隣に困ったような顔で写っていたのは僕の父親に違いなかった。
「驚いたかい」
サンタクロースはまたこの質問をしてきたが、今度は何かを企んでいるような含み笑いの表情をしていた。
「ビート・ポール氏、君のお父さんだね」
僕は何度も写真を隅々まで確認した。決して合成写真ではなく、今、僕が体験しているのと同じようにこのサンタクロースの家に来ている。
「ちなみにこの赤い服を着ているのは私ではなく、私の父親だ。今は体を弱らせて私が後を継いだがずいぶん長い事、プレゼント管理局長として働いていた」
サンタクロースの説明によると、彼や彼の父親の職業は“プレゼント管理局長”といって、いわば世界中にプレゼントを配送する各サンタクロースを監視する役割で、この青い雲で覆われた空間が本部だそうだ。細かい仕組みは説明してくれなかったが、ここでいう各サンタクロースというのは各家庭における父親の事で、近年では特別に指示を与えなくても子供から願いを聞き、プレゼントを枕元にバレずに置く所までこなせる優秀な人材がほとんどだという。
「そんな中で、君の父さんだけは目立って苦しそうにしていたと聞く。君が自転車を欲しがった年には三本一組の鉛筆を上げたり、君がサッカーボールを欲しがった年には手作りの毛糸の帽子を上げたり。それも酷い出来だったと聞くよ」
サンタクロースはまた笑ったが、今度は気分が悪かった。大人になってから知った父さんの苦労を笑われているような気分になって怒りさえ覚えた。サンタクロースはそれに気付いたのか、宥めるような手つきで、すまないと言ってコーヒーを啜った。
「まぁまぁ落ち着いて、私の父も決して悪い人じゃない。人様の苦労をあざ笑うような真似はしないよ。彼は見かねて君の父さんの元へ会いに行ったんだ。今日、私が君のところに行ったようにね」
僕は息を呑んで話に集中した。
「君の父さんも同じように最初は驚いた顔をしていたそうだ。そのうち、苦労が祟って幻覚が見えたものと思って必死に十字を切っていたらしい。それでも何とか家から引き摺り出してついにこの家まで連れて来られたんだ」
『君は、随分と大変な暮らしをしているようだが』
『はい、妻を亡くしてからというもの仕事に家事に追われていて。お金も時間も不十分な暮らしを、子供達にはさせてしまっていて』
『私はサンタクロース、サンタクロース側の目線でしかものを言うことが出来ないが、希望としてはクリスマスには子供達に夢を見せてやってほしいと思う』
『でも、こんな生活の中のどこにそんな余裕が』
『落ち着きなさい、だから今晩、私は君をここに連れて来たんだ。私が少し力を貸そう』
「私の父は、君の父さんに、君と君の妹がそれぞれ何を欲しがっているのか聞いた。すると君の父さんはポケットの中から二枚の手紙を取り出した。君と妹さんがサンタクロース宛に書いた手紙だ。そこにはハーモニカとクマのぬいぐるみと書かれていた。覚えはあるね?」
僕は静かに頷いた。
『なるほど、ちょっと倉庫を見て来るよ』
「私の父は、倉庫にまとめられたプレゼントの在庫の中から大きいテディベアを引っ張り出して来た。しかし、生憎、倉庫にハーモニカは無かった」
『クマのぬいぐるみはこれでいいかな。ふん、ハーモニカが見当たらなかったんだが…』
「そう言いながら部屋を見渡した私の父はある物を見付けた」
『あー、これがあるじゃないか』
「それがこれだ」
サンタクロースはそう言って僕に一枚の写真を見せてくれた。そこには僕があの年、受け取ったハーモニカと同じものが写っていた。ハーモニカの中央に掘られたフラミンゴのような模様が同じだったので直ぐに分かった。
「そう、これは私の父が愛用していたハーモニカなんだ。私が今日、クジラに指示を出す時に指笛を吹いていたのを覚えているかい、あれと同じ要領で私の父は、トナカイへの号令を出すのに使っていたんだ」
僕は目を丸くした。そして咄嗟に「そんな大切なものお返ししないと」と慌てたように言った。しかしまた宥めるようにサンタクロースは続けた。
「いいんだ、それは現在すでに君のハーモニカなんだから。それよりこの話には続きがある。いいかい、君の父親はその後私の父にこう言ったんだ」
『あの、こんな物を貰っておいて言うのも図々しいとは思いますが、一つお願いを聞いて貰えないでしょうか』
『お願い、なんですか』
『話を伺うにきっとあなたにはすでに筒抜けなのかもしれませんが、私は今まで一度もまともに子供達にクリスマスプレゼントを渡せた試しがありません。それどころか御馳走も用意できず、いつも通りの質素な飯を食わせてきました。そしてその状況というのはこの先天変地異でも起こらない限り変える事は出来ないでしょう』
『そこで、もし可能なのであれば、あの子を、私の息子ジュードをいつか私と同じようにここに連れてきてやってほしいんです。私がこれまで子供達に見せてやれなかった夢を見せてやってほしいんです。すぐにとは言いません。まだ子供の彼らをまずは私自身、自力で夢を与えてやりたい、来年こそは素敵なクリスマスを味わわせてやりたいと思っています。なので、十年、十年にしましょう、十年経った時、ジュードが二十歳を超え大人になった時、是非、ここに連れてきてやってほしいんです。それを彼への償いと、過去の貧相なプレゼントの分を取り戻すようなプレゼントとして。これがお願いです、聞いていただけますでしょうか』
僕が目頭に熱を感じてすぐに涙が溢れ出て来た。そして頭の中に、当時のみすぼらしいプレゼントや汚い格好をして笑っていた父親の姿が幾重にも浮かんできた。
「父さんの所にも来てたんだ、サンタクロース」
あの日、泣いていた僕を抱き締めながら放った父さんの言葉が立体的に蘇った。
「今日、私が君をここへ連れて来たのは、君の父さんからのクリスマスプレゼントだ。それから父さんからの手紙も預かっている。さぁ」
サンタクロースは引出しの中から手紙を一通取り出した。封筒を開けるとそれほど大きくない便箋が二つ折りにされて入っていた。日付は確かに十年前だった。
“ジュードへ
元気か?十年後の事は想像がつかないが、元気である事を祈っている。
この手紙を読んでいるとしたらきっとお前はもうサンタさんの元にいるはずだな。どうだ、驚いたろう。父さんももちろん最初は驚いた。
子供のお前にはなかなか華やかなプレゼントや食事を用意してやれなくて本当に申し訳なく思っている。こんな話、子供のお前には出来ないと思い十年後のお前に話す。許してくれ。
お前が今日、サンタさんの元に運れられてきたこと、これをお前への償いとそれまでの分のプレゼントに変えさせてほしい。きっと忘れられない夜になるはずだから。
最後に、父さんもお前たちみたいにサンタさんへ手紙を書いてみた。父さんが欲しいのはお前たちの幸せだ。いつか受け取れる日が来るのを心待ちにしているよ。
それじゃあ、メリークリスマス
ポール”