第五章 龍よ、さらば -3
龍之介の涙のせいで、小雨が降ってきた。
龍之介に追いつくと、亜子は背中から抱きついた。花火の光彩に照らされながら、亜子の湿り気を帯びた体温を感じる。龍之介の気持ちは昂って、一瞬、抑えることができなくなった。
振り返って亜子を抱きしめると、龍之介は間髪入れずに亜子の唇を塞いだ。鳴り響く花火の音が龍之介の心中を物語っているようだ。龍之介は初めて亜子とキスしたときのように、何度も何度も唇をついばんだ。「ん、ん」という亜子の呻き声が聞こえると、唇を離し、亜子を見つめた。
亜子は目を丸くして龍之介を見つめ返していた。亜子の両目が龍之介の瞳を左、右と交互に見つめ、キョロキョロと動く。何かを感じ取ろうとしているかのようだ。
「俺は亜子のペットだ。でもその前に、俺は雄だ。毎日どんなに我慢してるかわかるか? こうして人間になれるのに、今まで何もなかったことをありがたく思え」
突き放すように言う龍之介をよそに、亜子は見つめ続けた。そしてやっと口を開くと、
「リュウちゃん。もう一回、して」
目を見開いたまま呟いた。亜子は記憶を取り戻す何かを掴みかけたようだった。
龍之介は亜子のリクエストには応えず、背を向けて荒川の土手を歩き始めた。後ろを歩く亜子の声が背中に刺さる。「懐かしい」とか、「初めてじゃない」とか言いながら小走りで着いてきて、龍之介の腕を掴んで横から顔をのぞき込んだりした。その度に龍之介は亜子を振り払うように歩を速めた。
土手を降りて街中に入っても、亜子は問いかけ続けた。
「リュウちゃん。もしかして、わたしたち、ペットと飼い主の関係を越えてた? リュウちゃんが度々人間になって、さっきみたいにキスするような仲だった? 覚えてないけど、そんな気がしてきたの」
亜子の必死に思い出そうとする様子を見て、龍之介は感情を抑えられなかったことを後悔した。自分のしたことは、亜子を混乱させるだけだったのだと。
龍之介は立ち止まって振り向くと、冷静な口調で亜子に言った。
「思い出したい気持ちはわかるけど、むやみに推測するのはよくないよ。自分が傷つくだけだ」
亜子は俯くと、「絶対に初めてじゃない」と呟いた。
龍之介は、亜子に悪いことをした、と思いながらも無視して歩き出した。亜子はめげずに背中から龍之介に問い続ける。まるで尋問を受けているようで、逃れたい気持ちから自然と足早になる。少しでも離れたくて、大通りの交差点で点滅する信号を見ると走って渡った。
「リュウちゃん。わたしたち、愛し合ってたの?」
亜子の声で振り向くと、ずっと小走りしながらついてきた亜子が、横断歩道の真ん中で息を切らしながら立ち止まっていた。信号は赤だ。幸い、信号待ちの車は止まっていなかったので、今のうちに渡るように亜子に促した。
息を切らしながら、ゆっくり歩き出した亜子の横から、大きなクラクションの音が聞こえると、大型トラックが交差点の向こう側から青信号めがけて突っ走ってくるのが見えた。
亜子は目を丸くして固まったままだった。あっという間にトラックは亜子のすぐ横まで近づいていた。大きなクラクションが交差点に鳴り響く。
――やめてくれ! 二度と俺の前で撥ねられないでくれっ!
龍之介はとっさに龍の姿になり、猛スピードで亜子の元へ飛んでいくと、口を大きく開け亜子の腕をしっかりくわえた。そして体を湾曲させると、渾身の力を振り絞って亜子を歩道へ投げ飛ばした。
交差点の角にある自転車屋のシャッターに叩きつけられて転がった亜子を見届けると、龍之介はホッとした。
その刹那、横から大きな衝撃を受け、龍之介の目に映る世界の全てがスローモーションになって動き始めた。対向車の動き、待ちゆく人々、街灯や店の明かりもゆっくりと動いていく。龍之介は宙を舞いながら、その光景を見ていた。
次の瞬間、何かに体を強く叩きつけられると、ズルズルと滑り落ち、歩道にペタンと横たわった。体に力が入らなかった。
龍之介は何が起こったのかわからないまま、重力に逆らえない体で様子を窺った。自分の周りに人が集まってくるのが見える。次第に数が増えていく。人々が口々にいろんなことを言っている。「大丈夫か」とか、「この生き物はなんだ」とか、「警察を呼べ」とか、龍之介の頭の上で勝手にことが進んでいるように思えた。人々のざわめきの中で、龍之介は亜子のことを思い出し、自分がトラックに撥ねられたのだとやっと気付いた。
――よかった。亜子じゃなくて。
雑踏が次第に心地よくなり、龍之介の瞼が重くなってきた。身動きが取れない龍之介は、花火を見ながら「亜子が死ぬまで自分が見守る」と言ったことを思い出していた。
――どうやら約束は果たせそうにないや。ごめんな、亜子。
龍之介の瞼が閉じかかり、視界がだんだんと細くなってきたとき、龍之介の名前を叫びながら人ごみを掻き分けて、片手で頭を抑えながら必死の形相で走り寄ってくる亜子が見えた。最期に亜子を見ることができて、龍之介は嬉しくて脱力しながらも微笑んだ。瞼がいよいよ閉じようとした瞬間、亜子が龍之介の前に手を伸ばして指を鳴らしたように見えた。遠い意識の中で亜子が叫ぶ声が聞こえた気がした。
――龍之介~っ!




