第五章 龍よ、さらば -2
亜子との険悪な日々が続く中、亜子は無事、大学を卒業することができた。亜子が卒業証書を見せて、家族みんなにお礼を言った。みんな口々に「おめでとう」と言って、亜子を祝った。亜子が記憶を失ってから、頑張って勉強してきたところを見てきた両親は泣きながら喜んだ。
龍之介は亜子が羨ましかった。本来ならば、自分もこんなふうに両親を喜ばせることができたはずなのに、と思うと心の中に何かじわじわしたものが広がった。そして、できることなら、人間に戻ってもう一度四年生をやり直したかった。卒業論文も作成途中だったので、しっかり調べて終わらせたかった。論文に龍の生活を経験したことは書けないのだけれど。
いつになるかわからない希望を抱くのは、なんて忍耐のいることなのだろう。最悪の場合、叶わない願いを抱くのは、なんて辛いことなのだろう。
龍之介は亜子の幸せを目の当たりにして、自分の不幸を噛みしめていた。それでも、亜子が笑っていれば、龍之介の心は温かかった。
龍之介はお祝いに、神通力で亜子の願いをなんでも叶えると約束した。亜子は、龍之介が部屋に戻ってきてくれればいいと言って笑った。
――やっぱり亜子の根っこは変わってない。
龍之介は嬉しく思った。
亜子は四月から、大学の近くの喫茶店でアルバイトをしながら、小林の研究の補助をすることになった。卒業しても、亜子は毎日小林の近くに通うのだ。亜子はそうやって、日々を懸命に生活しながら、小林の近くにいることで、何か思い出す糸口を見つけようとしているように見えた。「無理に思い出さなくてもいい」という小林の言葉に救われながら、一方で、思い出したい、という欲求に逆らえないでいるのだろう。龍之介は、そんな亜子を静かに見守った。
亜子はアルバイト先の悩みや愚痴を龍之介に話すことは多かったが、小林とのことは、滅多に話さなかった。二人がうまくいっているのかどうかわからずに、龍之介は悶々としていたが、時々、朝帰りしたときの嬉しそうな亜子を見ると、交際の順調さが窺えて、そのたびに嫉妬で胸を焦がしていた。
そんな生活を過ごして数カ月が過ぎた。夏の暑さがこたえる七月の最終土曜日、隅田川の花火を見に行こうと、亜子に誘われた。
一年前は亜子が入院していて、花火どころではなかった。同時に、自分が龍になってから一年が経っていたことに気づき、龍之介は時の経つことの速さを感じた。
司も誘おうと提案したが、亜子が嫌がったので、二人(一人と一匹)だけで荒川の土手に出かけた。どうやら秘密の話があるようだった。龍之介は子ザルほどの大きさになり、亜子の肩に乗って行った。
荒川の土手は、隅田川の花火を見るには格好の穴場だった。地元の人でさえ滅多に来ないのか、ちらほらと見物客がいるだけだった。
荒川の向こう岸に見えるスカイツリーと南千住のマンション群の間に花火が打ち上がる。
龍之介と亜子は、土手から河川敷に降りる階段に座り、花火を堪能した。赤や黄色、緑などの色とりどりの光がマンションの壁を彩りながら、黒い夜空に静かに浮かび上がる火花を追うように、後から響く音が余韻を残す。風が運んだ火薬のにおいが遠くの見物客にリアルを与える。
「あのね、わたしね……」
亜子が言いかけたとき、三人組の若者に声をかけられた。亜子が一人で花火を見ているのだと思いこんでナンパしてきたのだ。見るからに花火など興味がなさそうな男たちだ。
「一人で花火見てもつまらないでしょ? 一緒にカラオケでも行こうよ」
一番軽そうな男が亜子の隣に座り込んで顔をのぞき込んだ。亜子は、「けっこうです」と言って顔を逸らした。龍之介は、素早く階段横の草むらに身を隠し、如意宝珠に意識を集中させると人間の姿に変わった。
「彼女になにかご用ですか?」
龍之介が草むらからあらわれると、男たちは驚いた顔をして、一瞬固まった。亜子に話しかけた男は気味悪そうに龍之介を見ると、「何でもないよ」と言って立ち上がり、仲間たちと去って行った。
亜子は目を丸くして龍之介を見つめていた。
「花火見ないの?」
亜子の隣に座りながら龍之介が微笑むと、亜子は目をしばたたかせながら、「リュウちゃん、なの?」と呟くように言った。龍之介は頷くと、
「女子がこんなところで一人でいるのは危ないから、花火見てる間は人間でいるよ」
そう言って花火に目をやった。花火を見ながら、龍之介は亜子の視線を感じていた。ずっと見られている。亜子に穴のあくほど見られている。とうとう我慢できなくなり、龍之介は口を開いた。
「俺ばっかり見ないで花火見ろってば」
言いながら亜子を見ると、薄暗闇の中で潤んだ亜子の瞳が煌いた。龍之介は亜子の瞳から目を逸らせなくなった。こんなに熱い目で見られたのは初めてだった。
「わたしが記憶を失くす前も、リュウちゃんは人間になったことがある?」
亜子は熱い眼差しのままで龍之介に問いかけた。龍之介が返答に困っていると、亜子は
「なんだかとっても懐かしいの」と言いながら、龍之介の肩にもたれかかった。龍之介の心臓はいきなり花火が打ち上げられたように騒ぎ出した。
――畜生。黙れ、俺の心臓。
龍之介は、緊張で手に汗をかきながらも、そっと亜子の肩を抱いた。
「こうしてるほうが、変な奴が寄ってこないから」
聞かれてもいないのに自分から言い訳を言って、下心がないことをアピールしようとした。本当は頭から足の先まで下心が充満していたのだが。
「でも、このままだと、わたし、すごく悪い女になっちゃいそうで怖い」
亜子の囁きに龍之介の心臓では、さらに連発で花火が打ち上がった。龍之介は理性を失う前に、ゆっくりと亜子の体を離した。
「やっぱりこうして離れて座った方いい。亜子には先生がいるんだから」
そう言って龍之介がはにかむと、亜子は少し悲しそうな顔で呟いた。
「わたしね、プロポーズされたの。先生に」
「えっ……」
龍之介は言葉に詰まった。発狂したかった。亜子が小林に奪われる。
「実は、迷ってるの」
亜子の言葉で龍之介の心に細い光が差した。だったらやめろ、と言いたかったのを我慢して、「どうして?」と訊いた。
「リュウちゃんに、悪いような気がしてるの。おかしいでしょ? リュウちゃんは、ペットなのに、ペットじゃないの。なんでも話せて、恋人以上の存在みたいなかんじ。それに、リュウちゃんがいないと、わたしはまだ、心細いの。自信がないの。だから、リュウちゃんさえよかったら、もし、わたしが結婚しても一緒にいてほしいの。わたしと先生と一緒に暮らしてほしいの」
龍之介は胸が熱くなった。亜子は龍之介をペット以上に思ってくれていた。自分の人生に龍之介を必要としてくれている。だからといって、いつまでも亜子の人生に着いて回ったら、亜子はいつまでたっても幸せになれないかもしれない。でも、このまま亜子が小林と結婚してしまったら、亜子の記憶は永遠に戻らず、龍之介にかけられた魔法は一生解けることはないかもしれない。龍之介は迷った。
「大丈夫。離れてもちゃんと亜子のこと見守ってやるよ。龍の寿命は千五百年から二千年なんだ。亜子が死ぬまで遠くから見ててやるよ。亜子が死んでからも亜子の子孫をずっと見守ってやるよ」
そんな気が遠くなるような孤独は考えただけで涙が出そうになったが、龍之介は堪えて続けた。
「もしも亜子が不幸になったら、すぐに駆け付けて一緒に泣いて、一緒に笑ってやる。そして不幸じゃないって思わせてやるよ。だから、安心して不幸になれ。俺は、一緒には暮らさない。遠くから見守ってる」
龍之介は亜子の幸せを選んだ。涙が頬を伝うのを見せまいとして、龍之介は立ち上がると、花火を最後まで見ずに歩き始めた。亜子は慌てて龍之介を追いかけながら、「そんなの嫌だよ」と言い続けた。




