第五章 龍よ、さらば
翌朝、まだ暗いうちに亜子が冷たい空気と共に、そっと部屋に入ってきた。足音を立てないように忍び足で、ドアをゆっくりと音もなく閉めると、はぁ、と一息吐いた。鞄を置いてコートを脱ぐと、ベッドに腰かけた。そして胸に手を当て、再び、はぁ、と一息吐いた。幸せそうな表情だった。
それを一部始終見ていた龍之介にやっと気づくと、亜子は「起きてたの?」と言って、龍之介を抱き寄せた。
龍之介は起きていたのではなく、眠れなかったのだ。いつまでたっても帰ってこない亜子に胸騒ぎを覚え、眠るどころか神経が昂ってしまっていた。
「朝帰りなんかして、どうしたの? 心配した」
龍之介は亜子が誰と何をしていたのか知りたくて、つい怒った口調になってしまった。そんなことは気にしたふうもなく、亜子は「あのね、わたしね……」と言ったあと、ふふふ、と笑って、龍之介をギュッと抱きしめた。龍之介は一瞬、息が詰まりそうになりながらも、亜子の浮かれようがどうも気になった。亜子は龍之介を離して顔を見ると、
「ねえ、リュウちゃん。わたし、キレイ?」
笑顔で問いかけてきた。龍之介は一瞬でその笑顔に釘付けになった。キレイだった。今までで一番キレイな笑顔だと思った。女性の艶っぽさを漂わせた切な気な幸せそうな笑顔で、明るくて可愛い女の子はそこにはいなかった。
「キレイだよ。今までで一番」
龍之介は瞳を潤ませながら呟いた。龍之介の言葉で亜子はさらに笑顔になると、再び龍之介を抱きしめた。
「あのね、絶対に内緒だよ。お母さんにも、お父さんにも、司くんにも内緒だよ。わたしね……」
亜子はもったいぶって、ふふふ、と笑った。龍之介は胸騒ぎを覚えながら黙って亜子の言葉を待った。嫌な汗が滲み出てくる。
「わたしね、女になったの」
そう言って亜子は、はしゃぎながら龍之介をさらにきつく抱いた。
亜子の言葉が龍之介の頭の中で響き渡る。
――女になった。
龍之介は何も考えることができなかった。ただ、亜子の言葉が、まるで龍之介をあざ笑うかのように、頭の中をぐるぐる回っているだけだった。
龍之介を抱いたまま、嬉しさのあまり、亜子はベッドで転げまわった。亜子の腕の中で龍之介は放心状態で一緒に転げた。
ひとしきり転げまわると、亜子は落ち着きを取り戻し、龍之介を解放した。そして、鼻歌を歌いながらパジャマに着替え始めた。今までは、雄の龍之介の前で着替えることは遠慮していたのに、今はそんなことはすっかり忘れてサッサと服を脱いでいく。亜子が下着姿になると、龍之介は目を逸らした。見てはいけない、と思った。それだけ龍之介にとって、亜子の体は神聖なものだった。
亜子の部屋の壁を見つめながら、亜子は残酷な女だと思った。記憶を失くす前は、惚れ薬を使ってでも龍之介の気を引こうとしていたのに、記憶を失った今では、他の男に抱かれてきたことを嬉しそうに打ち明ける。そしてそんな亜子は、残酷なまでにキレイだった。美しかった。そして、亜子をそんな美しい女にしたのは自分ではなく他の男だと思うと、龍之介は胸が張り裂けそうになった。
亜子は相手の男の名は言わなかった。でも、誰だかは見当がつく。龍之介が最も敬遠している男に違いない。
朝帰りした理由を、亜子は女友だちの家に泊まった、と郁子には見え透いた嘘をついてごまかした。さんざん怒られたあと、亜子は部屋に戻ると、ふふふ、と笑ってベッドに体を投げ出して転がった。郁子に怒られたことなどすっかり忘れて嬉しそうに転がる亜子を、机の上に腰を下ろして見ていた龍之介はため息をついた。そして、自分が人間のままだったら亜子を女にしたのは自分だったかもしれない、と思うと龍之介は悔しくて涙が出そうになった。そして、自分のことなどすっかり忘れて他の男に現を抜かす亜子に、龍之介は怒りを覚えた。
「亜子。隣の龍之介くんと亜子は想い合ってたこと話したよね。今、彼が帰ってきたらどうする?」
意地悪な龍之介の言葉で亜子は転がるのをやめて、天井を見ながら横になった。
「どうしていいかわからない。だって、龍之介くんのこと、一つも覚えてないんだもん。顔だって思い出せないんだよ。龍之介くんが戻ってきても、新しい関係を築くことしかできないよ」
「龍之介くんが、前みたいな関係を求めてきたらどうするつもり?」
龍之介はさらに尋問するように問いかけた。
「そんなこと言われてもわからないよ。何も覚えてないんだから」
少しムッツリしながら亜子が答える。
「亜子は覚えてなくても、龍之介くんは今でも亜子を想ってるんじゃないかな。今こうしている間にも、亜子に会いたいと思ってるかもしれないよ」
亜子は体を起こして龍之介を睨むと、
「どうしてそんなこと言うの? 思い出せないんだから仕方ないじゃない。それとも、何もかも思い出さないうちは、誰かと恋愛したらいけないの? 幸せになったらいけないの?」
声を荒らげながら涙ぐんだ。龍之介はすぐに後悔した。自分の醜い嫉妬心で亜子を悲しませてしまった。
「ごめん。俺、龍之介くんと仲良かったから、つい言い過ぎた」
龍之介は、自分を小さい男だと恥ながら目を逸らした。次の瞬間、俯く龍之介の体がふわりと浮いたかと思うと、亜子に抱き上げられていた。「ごめんね、怒鳴ったりして」と、亜子は優しく微笑むと、龍之介を抱えたままベッドに座り、背中を撫でながら話し続けた。
「彼がね、無理に思い出さなくてもいいって言ったの。それでね、『前の君も好きだったけど、今の君も同じくらい好きだ』って言ってくれたの。だから、彼を好きになったのかもしれない。わたし、きっと記憶を失くす前も彼のこと好きだったんだと思う。覚えてないけど。龍之介くんのことは好きだったのかもしれないけど、きっと幼馴染としてだったんじゃないかなぁ? ね、そうなんでしょ?」
亜子の勝手な推測を、龍之介は全て訂正したかった。恋人になってすぐに亜子が事故に遭った、と言いたかった。でも、それを言ってしまったら、亜子が魔女だということを話さなければならなくなる。龍之介は本当の事が言えない辛さに耐えて答えた。
「詳しくはわからないけど、龍之介くんとは、すごく仲が良かった。両想いだったことは確かだよ」
亜子は少し考えた顔をしてから、
「彼はそんなこと言ってなかったよ。龍之介くんも同じ学校の生徒だから、会ったことあるって言ってたけど、普通の幼馴染にしか見えなかったって」
「亜子は俺より、その彼を信じるんだね」
冷たく言ってしまった自分を、龍之介は嫌になった。そんな龍之介を亜子は黙って見つめる。それでも嫉妬心が止まらなくなって、龍之介はついに言ってしまった。
「俺は亜子に嘘をついたことなんかない。でも亜子は、ずっと一緒にいた俺よりも彼を信じてる。だから、簡単に体を許したんだ。人生に一度しかない初体験なのに、わけのわからない男に捧げたんだ」
「そんな言い方ひどすぎる。それに、先生はわけのわからない男なんかじゃない。わたしを理解してくれてる。悪く言わないで」
「先生? 亜子の彼は先生なんだね。もしかして、バレンタインのチョコを渡した小林先生ですか?」
龍之介はふんだんに嫌味を込めて顎をしゃくれさせた。
「だったらなに? 誰と恋愛しようが自由でしょ? ただのペットのくせに、恋人みたいに干渉しないでよ」
亜子は言った直後、一瞬、言い過ぎた、というような顔をしたが、すぐに膨れ面に戻った。亜子の「ペット」という言葉に衝撃を受けた龍之介は、
「そうだね。ただのペットのくせに干渉して悪かったよ」
と萎れた菜っ葉のようにうなだれると、亜子の腕の中からするりと抜け出し、ドアを開けてゆるゆると飛びながら部屋を出た。
それからというもの、龍之介は司の部屋に居座った。司から亜子とのケンカの理由を訊かれたが、龍之介は話さなかった。いろいろなことが悔しくて、一つ言ったら涙が出てしまいそうだった。亜子があの小林と恋人同士になったこと、あの小林に処女を捧げたこと、そして、龍之介よりも小林を信じたこと、全てが忌まわしい出来事だった。そして思った。
――こんなことになるなら、龍になんかなるんじゃなかった。
後悔しても、もう遅かった。妄想の中で狂おしいくらいに何度も抱いた世界で一番愛しい女の処女は、もうかえってこない。




