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第四章 龍の怒り -4

 公園での出来事があってから、ためらいが生じ、龍之介と司は吉中に連絡することもなく、影の正義を追跡することもなく、燻った日々を送っていた。龍之介は佐藤遥に会って、亜子に記憶を失くす魔法をかけたのかどうかを確かめたかった。でも、どうすればいいかわからずに、気持ちだけが焦っていた。

 亜子は毎日のように、大学のゼミで使っていた教科書にかじりつきながら勉強していた。そして、案外、すんなり頭に入ってくるので、商業を学ぶのが初めてではないことが実感できるのだという。

「ねえ、リュウちゃん。わたし、夏休みのうちに、一度、ゼミの先生に会ってみようかと思うの。どう思う?」

 亜子がキラキラした瞳で龍之介に問いかけたので、龍之介は賛成するよりほかになかった。

「亜子がそう思うなら、会ってみたらいいんじゃないの」

 言いながら龍之介は心がモヤモヤしていた。あの小林と亜子が会っているところを想像しただけで、ワナワナ震え、奥歯をギリギリと噛みしめた。今の亜子は以前の記憶が無い。小林に優しくされたら、何の疑いもなくいい人だと思い込んでしまうだろう。小林は、悪い人間ではないが、裏表があるのを龍之介は知っていた。亜子には見せないであろう顔を、一緒に昼食を食べた時に龍之介にだけ見せたのをはっきりと覚えている。

「でも、なんだか少しだけ不安だな。だって、記憶を失くしてから、大学の人に会うの初めてだから」

 そうは言っても嬉しそうだ。

「大丈夫。勇気を出して一歩踏み出せば、何かが変わるよ、きっと」

 青春ドラマのようなセリフを言う自分が滑稽に思えてくる。本当は、会うな、と言いたい。

「リュウちゃんが人間だったら、一緒に着いてきてもらうのになぁ」

 甘えた顔で龍之介を見る亜子に、心臓が急に騒ぎ出す。まるで百メートルダッシュしたあとのようだ。

「人間の姿にはなれるけど、数時間しか持たないんだ。俺、修行が足りないから」

 龍之介が冗談のように返した。龍の体に慣れてきたせいか、数時間なら他の生き物に変化することができるようになっていた。それでも、今の龍之介は人間にだけは変化することはできなかった。今人間になって、万が一警察に見つかってしまったら、きっとひき逃げ犯として捕まってしまうからだ。

すると亜子が思いついたように明るい声で言った。

「リュウちゃん。体の大きさ自由に変えられるよね。今より小さくなって、わたしと一緒に行ってくれる? 鞄にでもポケットにでもリュウちゃんの居心地のいいところに入れて行くから、わたしのお守りになってよ。だめ、かなぁ?」

 再び甘えた顔で龍之介を見る。龍之介は唸りながらも首を縦に振ってしまった。

 亜子が大学に行く日、龍之介はそわそわしていた。そして龍之介以上に、白石家の人々がそわそわしていた。朋生は、会社を休んででも大学まで亜子を車で送って行く、と言い出したが、郁子にたしなめられ、しぶしぶ会社へ行った。郁子と司は龍之介に亜子をたくした。大学の構内に一番詳しいのは龍之介であるし、小林にも会ったことがある。もちろん、亜子だけはそんなことは覚えていないし、誰も亜子に伝えなかった。亜子にとっては、ただのペットの龍をお守り替わりとして連れて行くだけのことだった。

「やっぱり僕も行こうかな。リュウちゃんだけじゃ心配だ」

 司が急に言い出して身支度を始めた。

「だったら、わたしも支度するわ。やっぱり、先生に挨拶しなくちゃいけないし」

 そう言って、郁子まで身支度を始めた。結局、朋生以外の全員で大学に着いて行くことになった。龍之介はヤモリほどの大きさになると、亜子の鞄の中に身を潜めた。

地元で有名な洋菓子店で焼き菓子の詰め合わせを買うと、御茶ノ水まで電車を乗り継いだ。郁子は、亜子の代わりに小林にアポイントを取ったとき、とても好印象を受けたらしく、会うのが楽しみだ、と言って一人ではしゃいでいた。龍之介は亜子の鞄の中でゲッソリしながら郁子のはしゃぎ声を聞いていた。

大学に着き、研究棟という講師たちの部屋がある建物へ行くと、エレベーターに乗って十一階のボタンを押した。各階で学部ごとに講師たちの研究室があり、商学部の講師たちは十一階だった。夏休み中ということもあり、人も少なく龍之介たちだけしか乗らなかった。皆緊張のためか、ひと言も発しなかったので、誰も乗っていないかのような静寂の中、大きな箱の中にエレベーターの動く音だけが低く響き渡った。

十一階に着くと、左右にまっすぐ伸びる廊下を左に進み、小林の研究室を探した。ゆっくり進むと、五つ目の部屋に小林のネームプレートがあり、そこで皆足を止めた。

亜子が歩み出て、ドアの前に立つと、深呼吸してから鞄の中の龍之介をチラリと見た。

龍之介は鞄の中から亜子を見上げ、ニッコリ微笑んで、大丈夫、というように頷いた。亜子は微笑み返すと、「よし」と、小さく言ってドアをノックした。

 待ち構えていたかのように、すぐにドアは開き、小林が出てくると歓迎の挨拶をして全員を部屋へと迎え入れた。龍之介は鞄の中からチラリと見えた小林の顔があまりに嬉しそうだったので、心の中で地団太を踏みながら、自分の下にあった布製のペンケースをギュと握りしめ、爪で穴を開けてしまった。

 郁子が挨拶をして、亜子が事故に遭い、入院してから今までのことを機関銃のように話した。その間、小林は、そうですか、と相槌しか打てずにいた。郁子の話が落ち着くと、小林は、事故のことで警察が聞き込みに来たことを打ち明けた。そしてやはり、龍之介がひき逃げ犯だと教えられたらしい。話しを聞いた司が、すかさず「龍ちゃんは犯人じゃありません」と強い口調で言った。「証拠はあるのかな? 」と小林に訊かれ、口籠った司の代わりに、郁子が龍之介のことは良く知っているから、と言ってその場を治めた。亜子は何も覚えておらず、小林のことも覚えていないことを小林に謝った。それでも、自分は何とか記憶を取り戻すためにも、通常通り後期から学校に通って授業にも参加したい、と話した。「わからないことがあったら何でもわたしに訊くといい。協力しますよ」と、小林が亜子に優しく言ったのが聞こえた。龍之介は小林の顔を想像しながら再び亜子のペンケースを握りしめた。ペンケースに穴が増えた。

 聞こえてくる会話の八割は郁子と小林が話していて、あとの二割は亜子で、司の声はほとんど聞こえなかった。時々、小林が話を振ると、返事をひと言返すだけで会話にならない。その度に、郁子が、この子は人見知りで、とフォローしていた。きっと仏頂面で小林を観察しているに違いない。龍之介は司の仏頂面と小林の困った顔を想像すると、何だかおかしくなって笑いを堪え、ペンケースを握りしめた。また、穴が増えた。

 ひと通り話し終わり、郁子と司が挨拶をして部屋から出ると、最後に部屋を出ようとした亜子に小林が耳打ちをした。

「よかったら毎日訪ねてくれて構いませんよ。一緒に思い出しましょう。僕と君のことを」

 亜子はキョトンとして、「先生とわたしのこと? 」と聞き返したが、小林は笑顔で頷き、早く行くように促した。小林の下心丸出しで囁く顔を鞄の中から見ていた龍之介は、ギリギリと奥歯を噛みしめながら、ペンケースに爪を立てた。ペンケースは龍之介の爪で何度も穴を開けられ、酷い有様だった。

 帰りの電車の中でも、龍之介は小林の言葉や顔を思い出すと、はらわたが煮えくり返り、何度もペンケースを握りしめ、さらにボロボロにしてしまった。


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