第三章 亜子の秘密 -3
亜子が風呂に入っている間、龍之介は白石家の人々から、亜子が魔女であることをまだ言ってはいけないと釘を刺された。タイミングを見て、郁子から話すらしい。きっと、今言ってしまったら、混乱してしまうのは間違いないからだ。自分が何者であるかも不確かなのに、その上、実は魔女だと言われたら、普通は混乱するか、信じないだろう。それどころか、嘘をつかれていると思って、周りの人間が信じられなくなるに違いない。ペットの龍と話しができることを受け入れているだけでも奇跡なのだ。急いて多くを望んではいけない。今の亜子は砂の城のようなものなのだから。
少し湿った髪でパジャマ姿の亜子が脱衣所から出てくると、嬉しそうに龍之介を抱きかかえた。龍之介は亜子の腕の中で白石家の人々と目を合わせて、了解しました、というように微かに頷いた。亜子は何も気づかずに、階段を上り、龍之介と共に二階の自分の部屋に入っていった。
亜子はベッドに座ると、ため息をつきながら部屋をぐるりと見渡した。龍之介は亜子の腕からスルリと降りて隣に座った。亜子の匂いがする部屋に、龍之介は少し気持ちが昂った。
「何も覚えてないんだよね。わたし、本当にこの家の娘なの?」
部屋を眺めながら、亜子はまるで独り言のように龍之介に話しかけた。龍之介は亜子を真っ直ぐに見つめると、
「間違いないよ。俺が保証する」
力強く言った。亜子は龍之介を見ると、ぷっと吹きだした。
「リュウちゃん、自分のこと『俺』って言うんだね」
そう言うと、ふふふ、と笑った。以前の亜子なら、ここで大口を開けて笑うところだが、今の亜子は違った。控えめだが、明るい雰囲気はある。龍之介は今までとは違う亜子と接することで、亜子のいろんな顔を見られるお得感に浸っていた。そして、今の亜子が龍の自分を愛しいと思ってくれはしないだろうかと、淡い期待を抱きながら亜子の笑顔に見とれていた。
「教えて、リュウちゃん。わたし、どんな人間だった? この家の人たちはみんな、いいことしか言わないの。明るくて、正義感が強くて、動物をかわいがって……とか」
そう言った亜子の顔からは笑顔が消えていた。龍之介は亜子を見つめながら思いつく限りの亜子を話した。
「確かに、この家の人たちが言うことに間違いないよ。でも、亜子は気が強くて、俺……いや、隣の龍之介くんとよくケンカしてた。亜子は彼のことが大好きだったんだ。でも、それ以上に彼は亜子のことを好きだった。二人は、小学生の頃からずっと、想い合ってたんだ。それに気づいたのはつい最近なんだけどね」
龍之介は話しながら感傷に浸っていた。
「随分詳しいんだね。わたし、そんなことまでリュウちゃんに話してたんだ。きっと、すごく信頼してたのかもね。覚えてないけど」
亜子は笑顔になると、急に真顔になって思いついたように言った。
「ところで、どうして、わたしを含め、この家の人たちはリュウちゃんと話しができるの? 龍は人と話しができるものなの? それとも、この家の人たちの能力みたいなものなのかな? 超能力的なかんじの」
龍之介は返答に困った。亜子に魔女であることは言ってはいけないと釘を刺されているので、うっかりしたことは言えない。
「そうだね。はっきりしたことは言えないけど、能力みたいなものだね。でも、その能力が、亜子がこの家の人間だってことを証明してる」
龍之介の言葉で、亜子が少し明るい顔になった。自分が白石家の人間であることだけは確かなのだと太鼓判を押され、亜子の中の謎が一つ解けたのだろう。龍之介は、父の朋生だけは能力がないことを慌てて付け加えた。そして、この能力は母方の血だということを説明した。
「あのね、わたし、まだ誰を信じていいかわからないの。学生証を見て、自分が白石亜子だってことはわかった。でも、もしも、これが仕組まれたことなら、嘘を信じてしまうことになる。そして、本当の自分を知らないまま、嘘を本当だと思って生きていくことになる。そう考えると、なんだか怖いの」
かなり疑い深くなっている。記憶を失くすとはこういうことなのか、と龍之介は改めて思いながら亜子の話に頷いた。亜子は続けた。
「目が覚めて、自分が誰だかわからなくて、どうして病院にいるのかもわからなかった。すごく怖くて、すごく不思議な気持ちになったの。何も覚えてないって、怖い。皆が嘘ついてるんじゃないか、って思うの」
亜子は眉を寄せて悲しそうな顔をしていた。
「大丈夫。少なくとも俺は嘘はつかないよ。だって龍だから」
龍之介は亜子を安心させたくて、脈絡のないことを自信満々に言ってしまった。龍だから嘘をつかないなどという道理はどこにもない。それでも亜子は龍之介の言葉を信じたようで、嬉しそうに微笑んだ。
龍之介の両親が訪ねてきたことで、亜子は退院して以来、初めて龍之介という幼馴染がいることを知った。そして、その幼馴染が自分をひき逃げした犯人に間違われて警察に追われていると知った。それまで自分のことを知ることに臆病だった亜子は、少しずつでもいいから自分自身を紐解いていこうと思ったのだという。そうすることで、周りの人間やもしかしたら、その幼馴染の龍之介を助けることができるかもしれない。そう思っていると龍之介に語った。
亜子は自分のためでなく、他人のために自分の記憶を取り戻そうとしている。そして、そのきっかけが自分だったことに、龍之介は胸を熱くした。
記憶を失くしても亜子の根っこは変わっていない。この正義感が暴走することのないように、今度こそ、そばで見守らなくてはいけない。
その夜は、亜子が寝入るのを見届けてから龍之介は亜子の足元で体を丸めた。本当は寝ている亜子の頬や髪に触れたい気持ちでいっぱいだったが、龍之介は自分の爪を見てギュッと拳を握った。こんな手で触ったら亜子が傷ついてしまう。人間の姿に戻れたらどれほどいいか、と思いながら目を閉じた。そして、夢の中で亜子と触れ合えることを願いながら眠りに落ちていった。




