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和平前夜



 みどりの獣人が部屋を出ていくとき、少しだけ立ち止まった。少女によって退出を促されてしまったが、ほんのちょっとくらいはバルバラを気にしてくれたんだろうか。それとも、殴り飛ばす最後の機会だと思っただけなのだろうか。もしも、ただ哀れまれたのだとしたら、堪える。


 これまでバルバラがしてきたことはなんだったのだろう。なんの意味もなかったのだろうか。誰かをそばに置きたいと思ったことも、相手の好意がほしいと思ったことも、相手を好きだと思ったことも。


 バルバラは、庭師の娘もみどりの獣人も大事にしていると思っていた。華族の女長はそれを「見境がない」と評したから、上手に大事にすることはできていなかったのかもしれない。

 だったらどうすればよかった?

 部屋の隅までずるずると這っていって、壁に頭を打ち付ける。

 どうすれば親友になってくれたのだ、あの二人は。何をすれば、バルバラを一番に選んでくれたのか、全然わからない。あれでだめなら、他に何をすればよかったというのだろう。

 それとも、そもそも一番に選んでもらえると思ってはいけなかったのだろうか。バルバラは、誰の一番にもなれない人間だったのだとしたら、確かに何をしたって無駄だ。


 世の中には、持つものと持たざるものがいる。お金のないもの、あるもの。家族のあるもの、ないもの。仕事があるもの、ないもの。

 ならば誰かの一番になれるもの、なれないものがいても、おかしくはない。

 華族は宮廷にあがることもできる特別な血筋を示すけれど、それはすべてを持つものである証ではないのかもしれない。お金があっても、家族があっても、明日、仕事がないかもしれない。明日、家族がなくなるかもしれない。


「お嬢様」


 口論の最中、いっさい手出しをしなかった執事が、今頃顔を出した。見上げる気力もなく、バルバラは絨毯の毛を握りしめる。


「旦那さまが、近日中にこの屋敷を離れるそうですよ。お嬢様も、それに合わせて避難なさるようにと仰せです」

「行かないわ」


 両親は獣人との和平交渉で忙しいだろう。それでも娘を戦地に放っておくことなんてできる人たちではない。

 けれどそれが、今のバルバラにとっては鬱陶しくて仕方なかった。


「獣人との和平はきっと国を変えるでしょう。選民制度もその中で消えていくかもしれない。跡継ぎだってわたしじゃなくても……」

「あなたはとてもわがままですね」


 執事が、平素と変わらぬ声色で暴言を吐いた。バルバラはびっくりして、反射的に顔をあげた。


「ご両親に愛されているのでしょうに、おもちゃを失くした子どものように拗ねていらっしゃる。そんなに人を自分だけのものにしたいのですか? 自分だけのものにしなければ、安心できないのはなぜですか?」

「な、ぜって……」


 強く、厳しく、執事は問う。


「あなたの思い通りになる人形など、世界中どこを探してもおりませんよ。いっそ心のないぬいぐるみでも相手になさればよろしいのでは? 文句を言わず、逃げ出さず、誰にも迷惑がかからない。それに幼い少女にはうってつけのおもちゃでしょう」

「もう、いい。聞きたくないわ」

「ならば今すぐ避難の準備をなさってください。あなたを置いてわたくしどもが逃げられるとお思いですか? もしそんなことをすれば、たとえ戦から逃れられたとしても旦那さまからの信頼を失います。これはあなた一人の問題ではないのです」


 要するに、バルバラの父が「娘など放っておけ」と許可を出したとしたら、執事たちはなんの気兼ねもなく自分たちだけで逃げられるというわけだ。でもそうはならないから、彼らはバルバラを置いていくことができない。


「あなたが戦火に焼かれたいと思うのは自由ですが、この屋敷の使用人まで巻き込むのはおやめください。旦那さまからの指示がある以上、それを遂行しなければ使用人たちの明日がないのです。それくらいのこと、華族のお嬢様であるのならご理解くださっていると思っていたのですが」


 たくさんの人々の働きによって生かされているバルバラは、実は自分の意思では動けない。

 お金があって、好きに動かせる使用人がいて、自分は一般の人よりもずっとずっと自由だと思っていた。でも本当は違ったのだ。みどりの獣人を無理矢理屋敷に連れ帰ったときも、バルバラの身勝手によって誰かが叱責を受けていたのだろう。


 放っておいてもらうことすら、人に生かされているバルバラには許されない。







 みどりの獣人がいなくなって数日後、町は炎に包まれた。避難の準備を進めていた使用人たちは慌てふためき、急遽帰還したバルバラの両親に指示をあおいだ。


「これが獣人による最後の攻撃となるだろう。食い止められず本当に申し訳ないと思う。しかし、退路はある。私を信じてついてきてもらえないだろうか」


 バルバラの父はそう言い、使用人を率いた。必要最低限のものだけを彼らに持たせて、確保していた逃げ道を一途、走らせる。


「旦那さま」

「執事か」


 そこへ執事が厳しい面持ちで合流した。彼はバルバラの父のそばに立つ獣人に目をやって、ぱちりとまばたきをする。

 粉っぽい塵混じりの風が、屋敷の玄関口へ吹き込んできた。


「旦那さま、お嬢様がまだお部屋に」


 執事は獣人を気にしつつ報告する。すると屋敷の主はうなずき、獣人に向けて一言言った。どこかで塔が崩落したような物々しい轟音が響く。


「あなたの献身に感謝します」

「良き橋となれるよう、努力いたします。失礼」


 獣人は細いあごを引いて答えると、屋敷の中へ入っていく。勝手知ったるといった風情で、案内もなく二階へあがっていった。それを見送り、華族の主は伏し目がちに眉を寄せる。


「あの獣人には苦労を強いた。これからもだ。本当に申し訳ないことをしたと思うよ」

「彼に、何かをさせるおつもりで?」


 獣人が雄であることを知っている執事が問うと、主は苦笑した。本当に苦々しい表情だった。

 鼻をつく土臭さが、一秒過ぎるごとに強まっている。崩壊はもうすぐそこまで迫っているのだ。


「嫌な役回りをさせるんだよ。家と家、国と国を繋ぐのに必要な政策とはなんだと思うね?」

「……まさか、お嬢様を獣人の国へ人質に?」

「そう。このクーデターの首謀者に荷担した私が、他の華族に人質を出せとは言えなかったさ。獣人のほうだとて人間などいらんだろうがね。けれども架け橋となるものが必要で、共生を望む以上金や物資では即物的過ぎる。それに、彼が了承してくれた。あの獣人は、きっと己の一生をなげうってでも人と獣人が争わない世の中を作りたいと思っているのだ」

「なぜ、彼がそこまで。適任なら他にいくらでもいるでしょうに。なぜあえて因縁のある彼が?」


 屋敷の主は、荷物を背負って逃げていく使用人たちに手をあげて応えながら、獣人の通っていった廊下のほうを見やる。


「……人に触れたからだとおっしゃっていた。例の華族の若当主が彼の仲間を逃がす手助けをしたから恩を感じてくださっているのではないかと私は思っているが、それだけではなく、人に飼われた経験があるからこそ他の獣人や人間に同じ思いをさせないようにと立ち上がったのかもしれない。あまり言葉数の多いほうではないけれども、彼は立派な方だよ。竜系とはみんなそうなのかな」

「さあ。わたくしは、お会いしたこともございませんのでわかりかねます」

「私もだ。だがこれからは、あいまみえることもあるだろう。そういう世の中が来る」

「簡単にはいかないでしょう」

「わかっている。だからまずは、試験的に共生のための里を作ることになっている。そこで人と獣人が、共に生きるための方法を探るのだ。わが娘も、そこで苦労することになるだろう」


 主は肩をすくめ、炊事洗濯の仕方を習わせておくべきだったなと軽く笑った。またどこかで、建物が崩れる音がしていた。空は、崩壊と同時に巻き上がった土埃のせいで誰の目にも煙って見えた。







 大地を揺るがすような崩壊の音が聞こえる。

 バルバラは窓際に腰かけて、裸の足をぶらぶらと揺らした。眼下では、炎に焼かれた町の一部が見え、煙が空に舞い上がっていく様子が観察できた。


 ふと視線を転じて屋敷の庭に目をやる。小さな人影が小走りに生け垣の隙間を縫っていくのがわかった。


「わたしの、親友……だったひと」


 ガラスに指を這わせて、ぽそりとつぶやく。

 庭を端から端へ駆けていって、やがて腕に何かを抱えて戻ってきた。花だろうか。華奢な腕を飾る白い花の名を、かつて彼女が教えてくれたのだった。

 こつんこつんとガラスを爪で叩くと、まるでそれが聞こえたかのように彼女がこちらを向いた。


 白い花越しに、彼女と目が合う。

 けれども彼女は誰かに呼び掛けられたかのように、ふいっと目を転じる。バルバラの視界の端へと走っていってしまう黒髪の少女を見下ろし、完全に姿が見えなくなってから目をつぶった。


 逃げるといい。きっとバルバラの逃げる先と同じところへ逃げなくてはいけないのだろうけれど、それでも逃げるといい。かつての親友が死んだなんて聞きたくないから。


 まだ親友に戻れると未練がましく思っているのだろうか。いいや、そうではない気がする。ただ、健やかに生きていってほしいと思う。バルバラのことを忘れて、バルバラなど目に入らぬ場所で、幸せになったらいいと思う。もう、彼女を怯えさせずにいられるなら、バルバラはここで朽ち果ててもいいのにと思った。


 けれども、やはりそうはいかない。

 部屋の扉を叩く音がする。高い天井に響く、二度のノック。執事が迎えに来たのだろう。


 バルバラは庭を眺めるのをやめて、振り向いた。開かれる扉の向こうに黒い燕尾服があるのだろうと想像していたのに、そこにいたのは綿の白布を羽織ったみどりの獣人だった。

 布の端には石細工の飾りがいくつかぶら下がっている。精緻な刺繍も入った、それはきちんとした服だった。

 彼は、バルバラの獣人ではなく、獣人国に住まう一人の国民となってここへ現れたのだ。


「何をしにいらしたの?」


 バルバラは言った。でもわかっていた。どうせ恨みを晴らしにきたのだろうと思っていた。獣人が人を殺す理由なら、ごまんとある。

 なのに獣人は、いつも通り顔色ひとつ変えず、たしたしと大きな足で近付いてきて、バルバラの目の前で膝を折った。


 片膝を立てて、まるで物語の騎士のようにバルバラを見上げる。瞳孔の開いた黄金の瞳が、バルバラを捕らえた。


「迎えに、来ました」


 相変わらず武骨な言い方で、彼は言う。


「なぜ戻ってきたの。町はもう、おしまいよ。早く逃げないと、あなたも巻き込まれてしまうでしょ」

「はい。ですから、迎えに来ました」

「なぜ?」


 バルバラはわからなかった。彼はあの子によって逃がされたはずで、バルバラのことなど気にもかけていないはずで、庭師の娘がしたように視線をそらして去っていってもよいものを、なぜこの状況で戻ってきてしまったのか。

 せっかく、助けてもらえたのに。またバルバラに囚われるとは思わなかったのだろうか。


 一向に立ち上がらないバルバラを、獣人は急かさない。代わりに、彼も腰を落としたまま動かない。


「逃げなさい、みんなと。わたしもきっと、使用人の誰かに連れ出されるわ。もしそうじゃなくても、かまわないけれど、あなたは逃げなくてはね」

「そんなに、一人になるのが嫌ですか」

「え……」

「あなたは、いつも強い孤独を感じているみたいだ」


 すん、と獣人は匂いを嗅ぐようなしぐさをする。


「独り占めにしていなければ、俺が逃げていくと思っている」

「なんの、お話?」

「独り占めにしていなければ、安心できない」

「ねえ……」

「いつだったか、訊ねました。あなたが何を怖がっているのか。あなたはたぶん、強い孤独を埋めようと必死なだけだ」

「ねえったら!」


 今日の獣人はよく喋る。視線もそらさずに、慰めるでも探るでもなく、ただひたすらまっすぐな目差しをバルバラに向けている。

 バルバラは、胸が締め付けられるような思いがした。どうして今頃になって、ほしかったものが現れるのだろう。

 こっちを見て、こっちを見続けて、決して目をそらさないで。そう言いたかったのに、バルバラはそれを行動で示すことしかできなかった。言葉で伝えることが、できなかったのだ。その結果が、今のこの孤独だというのに。


「おねがい、一人にして。わたしを放っておいて。もう、わたしは一人でいいわ」

「一人になりたくなくて俺を閉じ込めたあなたが、それを言うのか」


 バルバラは手で耳を塞いだ。そんなことをしても声は聞こえ続けるのに、頭を抱えていなければ死んでしまうような気がした。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。殺したいなら殺していいわ。許してもらえるとは思ってない。あなたも、あの子も、わたしを好きにはならないのに無理に留め置いたのだから当然だわ」

「あの子……」

「あなたの前にも、かわいそうな子がいたのよ。人間の女の子。わたしがわがままを言って、部屋に閉じ込めた。それで嫌われたのだから、世話ないわね。わたしは、そういう嫌なことしかできない悪魔なのかもしれないわ。選んでもらえなくて、当たり前ね」

「どうしてそこまで、自分を卑下する。あなたはちゃんと愛されているように見えるのに」

「たとえば、両親に?」

「そうです」


 強い風が、ガラス窓を叩く。バルバラは獣人から目を離し、窓の向こうを見た。


「拗ねる理由がわからないって言いたいのね。そうね、執事も言ってたわ。両親に愛してもらってるのに、何が不満なんだって」

「両親に愛されているけれど、おそらくあなたは愛に飢えている。なぜ?」


 獣人が腰をあげた。バルバラの視線を取り戻そうとするように、窓際に寄り、視界に入り込んでくる。今までにない行動だった。

 バルバラは、虚脱感でまばたきもしたくない気持ちになった。ぼんやりと、彼の瞳を見返す。やはり、彼はバルバラと共にいるとき、何一つ彼らしさを見せてくれてはいなかったのだ。いいや、当たり前だ。だってバルバラに捕まって、仕方なくここにいたのだから。


「あなたにもご両親がいる?」


 バルバラが唐突に訊ねると、彼は聞き返すこともせずに首を振った。


「いえ。幼いときに、離ればなれになったようです。理由はわかりませんが」

「そう」


 両親の愛を受けて育ったバルバラが、それでも愛に飢えている。彼は、甘いと思っているだろう。贅沢を言うな、と。他に何が要るのだ、と。

 でもバルバラは、誰かに愛されたかったのだ。一番に選んでほしかったのだ。そしてその相手は、両親以外の誰かでなければならなかった。

 脇目もふらず他人を拒絶して、友と呼んだ相手だけを囲いこんで、醜いほどに必死だった。


「両親に愛されるのが当たり前と言えないこと、わたし、知ってるわ。自分が幸運な生まれだって、わかる。みんなに好かれたいと思うけれど、それが無理なこともわかっている。でも、でも……」


 バルバラは、こぶしを握って、ぶるぶると震えた。声を揺らさないように話すのに精一杯で、表情を取り繕えなかった。


「もしもお父様とお母様がわたしの親でなかったとしても、愛してくれたかしら……?」


 いつも不安だった。親に愛されない子どもがいるのはわかっていたが、バルバラの両親は当たり前のように愛してくれたから。

 もしも彼らとの間に血の繋がりがなかったら、それでも自分は愛してもらえたのだろうか? 家族だったからこそ、愛してもらえただけなんじゃないだろうか。


「実はわたしが養女だったとか言ってるわけじゃないの。勘当されたらどうしようという話でもない。被害妄想みたいなものだって、わかってるのよ自分で。だけど、考えずにはいられなかった。もしもわたしに家族がいなかったなら、誰にも愛してもらえなかったんじゃないかって」

「なぜ」


 獣人が静かに問う。黄金の瞳がいつになく細められていた。


「わからない。卑下しているだけだとあなたは思うかもしれないけど、誰かに愛してもらえるだけの価値を自分に感じなかった。まっとうな両親がまっとうに愛してくれるからかしらね、歪んだ自分の性格を思い知らされてつらくなるの。せっかく大事にしてくれたのに、こんな子に育ってしまって本当に申し訳ないって思うわ。いっそ生まれなかったことにできたらどんなに気が楽になることか」

「……あなたは自分が嫌いなのか」

「それは、どうかしら。良いところが一つも見つけられないけれど、嫌っているのとはちょっと違う気がするわ。たぶんわたしは自分に自信がないの」


 短所ならいくらでも挙げられるのに、長所が見つけられない。それでも自分を愛してくれるのは、両親だけなんじゃないかと思っていた。自分たちの子どもだからという理由だけで愛してくれる、その無償の愛を自信に変えることができなかった。


 だから、家族以外の誰かに愛されたかったのだ。


 血の繋がりがなくてもバルバラを選んでくれるのなら、それは何より尊いことだと思う。

 父と母が愛したあなたたちの子どもは、ちゃんと、他の人にも愛してもらえる良い子なのだ。そういうふうに思ってほしかったし、自分に言い聞かせたくもあった。


「赤の他人にも愛してもらえるなら、わたしは悪い子じゃないんだって思える。それに、あなたたちが愛した子どもは誰にも好かれていません、なんて両親に思わせたくなかった。だって申し訳ないじゃないの、ずいぶんと大切にしてもらったんだから……。でも全然うまくいかないんだから笑っちゃうわね……」

「あなたが俺や人間の少女を閉じ込めて、好意を求めたのはわかってる。だが、友人たちがあなたに会いに来ても応じなかった」

「矛盾していると言いたいでしょうね。でもね、ただの好きと愛してるは違うの。知っている? ただの好きは軽い気持ちで誰にでも与えられるのよ、人って意外と器用だから。でもそんなのじゃだめなの。足りないの。嘘かもしれないそんな曖昧なものを、わたしは信じられなかった」


 全員に愛されることはできない。バルバラは自分がみんなに愛してもらえる性格の人間ではないとちゃんとわかっていた。

 だからせめて、たったひとり。自分が愛した人に、同じだけの愛を返してほしかった。そしてそれを両親に報告したかったのだ。あの子に愛してもらえた、と自信を持って言える……そんな理想を思い描いていた。何一つとしてうまくはいかなかったが。


「人を閉じ込めて、無理にわたしを選ばせようとしたのだから、あなたももうわかるでしょう。わたしは、歪んでいるのよ。まっとうに愛してもらったはずなのに、いつの間にか歪んでいた。それを隠すためにも、絶対、誰かに愛してもらわなくてはと思っていたのかもしれないわね」


 両親が愛しただけの価値はある、そんな子どもになりたかった。恩返しのつもりだったのかもしれない。

 そのために、傷付けたものがたくさんある。結局、両親もバルバラを良い子とは思っていないだろう。要は引っ込みがつかなくなって、ひとり、みっともなくもがいていただけなのだ。


「人に愛してもらうって、とても難しかった」


 作戦を立てても、自分から愛しても、うまくいかなかった。だからバルバラは、溜め息をつく。窓にもたれて、目をつぶる。


「でももう、やめるわ。あなたにも、あの子にも本当に申し訳ないことをした。意地悪な気持ちでやったわけじゃないの、愛してほしかったの。それだけはわかってね。だってわたしは、あなたたちが大好きだったから。あなたたちにも、大好きになってほしかった。わたしを一番に選んでほしかった」


 目を閉じると、崩壊の音だけが聞こえる。人間が長い時間をかけ、高く高く積み上げてきたものが、一瞬で崩れていく音だ。

 だとしたらバルバラの積み上げてきたものは、いったいなんだったのだろう。いや、積み上げたものなんて、果たしてあったのだろうか。

 あんなに必死だったのに、何もなかったというのなら笑い話にもならない。そんなのは、生まれていないのと同じことだ。バルバラはこの世界で本当に生きてきたのだろうか。今もまだ、生きているのだろうか。


 ずっと昔に死んでいたのかもしれない、と思ったら、閉じた目蓋から涙がこぼれた。


 自分の生きてきた日々が、なんの価値もない。そう突きつけられたときの、激しい悲しみ。両親に対する申し訳なさ。生まれてこなければよかったのに、と思ってしまう切なさ。


 嗚咽が喉の奥でつぶれた、そのとき、血の気が引くまで強く握りしめていたこぶしにざらついた体温が重なった。


「そんなにさびしいなら、俺の愛を食べればいい」


 重たい目蓋を持ち上げて、バルバラはきょとんとみどりの獣人を見つめた。しずくがほとりとやわらかく膝に落ちていく。


「俺の中に、あなたの望むものがある。これはあなたに差し上げても、問題のないものだ」

「よく、わからないわ」

「あなたがほしがっているものを、俺が持っている。そういうことだ」

「自分を閉じ込めていた相手を、あなたは好きになるの……?」


 獣人はバルバラの手の甲をぺたぺたと叩いて、わずかに首をかしげた。


「あなたが俺を外に出さなくなったのは、ほとんど薬が抜けてからのことだ。鎖で繋いだわけでもなく、窓はいつでも開けられた。やろうと思えば好きに逃げ出せる状態なのに、閉じ込めたと呼ぶのは厳密には違うと思う」

「結果的にそうだとしても、わたしがあなたを独り占めしたいと思って外に出さなかったのだから同じことよ」

「その必死さが滑稽で、人間らしいと俺は思っていた」


 今度はバルバラが、首をかしげて、彼のゆっくりした話口調に耳を傾ける。


「小さな生き物が、俺のような食物連鎖の上にいる生き物をがむしゃらに縛り付けようとする姿がおかしかった。これが人間か、バカなことをするものだと思っていた。ずっと。けれど、あんまり必死になって留め置こうとするから、そんなにも俺がほしくて仕方ないのかと……そう考えて、だんだん、痛ましく思うようになった」

「わたしは、哀れだった?」

「いや。ただ痛々しくて、やめさせてやりたかった。もういいと言ってやりたかった。そんなことをしなくても、愛してやるのに」


 バルバラは、睫毛にくっついた涙をまばたきで散らして、「あ、あいしてくれるの?」と訊ねた。鼻声だったし、舌も回っていなかったが、獣人は喉の奥でくるるると鳴いた。そうだよ、と言われたような気がした。


「俺の中にあるものを、食べてみるといい。あなたは壊滅的なほどに不器用でバカな人間だが、獣人の情を口にすればその重さで不安も恐怖も消えるだろう。およそただの人間に耐えられるとは思えないが、食べたがりのあなたになら馴染むかもしれない」

「あなたったら、わたしを食いしん坊みたいに言うのね……」


 涙声で笑うと、獣人はもう一度喉の奥でくるると鳴く。


「俺にはそうとしか」

「そうね。あなたの言うとおり……。食べてみようかしら」

「一度口にしたのなら、引き返すことはできない。あなたは俺のつがいとなり、この情をすべて食べ終えるまで死ねない。否やは聞けない決定事項だが、本当に食べるか?」


 獣人は言ってから、バルバラの膝を掬って抱き上げた。ついぞ触れさせてはもらえなかったその身に、バルバラはしがみつく。


「つがいって、なに?」

「人間でいうところの、夫婦めおとのようなもの」

「わたしと誓いを交わしてくれるの……?」

「交わしたいのか。俺は人間ではなく、みどりの皮膚を持った獣人で、娘が好みそうな絨毯のような体毛はないが」

「うん。だって、それをしたらずっと一緒にいてくれるのでしょ? 夫婦って、そういうものだと聞いたけれど、でも、もし、あなたの中にあるものをいつかわたしが全部食べきってしまったら……そのときは、どうなるの……?」

「……少し、訂正する。情が尽きるときは俺の命がなくなるときだ。それ以外にはありえない」


 抱き心地が悪いのか、彼はもぞもぞと動く。


「そもそも、つがいは契約関係じゃない。誓いでもない。切ることも破ることもできない、死んでも続く繋がりだ。あなたが望むなら人間の神にも誓えるが、あまり意味はないと思う。つがいは、たとえあなたが嫌だと言っても俺は離してやることができない。そういうものだから」


 そして彼は心の奥底まで響くような低い声で、続けた。


「だからもう俺を閉じ込めなくても、大丈夫だ」


 弾みで力加減を間違うことがあるかもしれないが、何よりもあなたを大切に扱おう。そう言ってもらえてやっと、バルバラは楽に息が吸えるようになった気がした。


『ビビには内緒よ』

『二人だけの秘密ね』


 今でもそれを聞いたときの胸の痛みやさびしさが薄れることはないけれど、たぶんそれさえバルバラが積み上げてきたものの一つなのだろう。無駄なことも意味のあることも、全部乗っけて高い高い壁を築いた。

 そうやって自分で作っておきながら、この先には行けないと拗ねていた。よじ登ってみたら、見渡した景色の中に、みどりの獣人の住む国があったのに。

 必死になって登って落ちてを繰り返して、今ようやく登りきったような心地がしている。


「あなたの名前、教えてもらえるかしら」


 壁の向こうへ、バルバラは手を差し伸べた。


「俺の名はサフル。あなたは?」


 それに応えたのは獣人国の端に立つ、みどりの獣人。


「わたしはバルバラ。愛称はビビよ。そっちに行ってもいいかしら」

「かまわない。帰り道は用意してやれないが」


 腕を広げて待っていてくれるのが、何より幸福だ。

 バルバラは、思いきり囲いを蹴ってみどりの腕の中へ飛び込んだ。


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