指先=賞賛
彼の手は血で汚れ切っている。
その多くは敵兵の血だが、それだけでないことは誰よりも彼が知っていた。
彼は騎士だから。
鬼神と謳われる国の英雄だから、ひとたび戦場に立てば誰よりも多くの敵を屠り、誰より多くの血を浴びる。大地を染める赤が、鉄錆の匂いが、殺された者たちの怨嗟の声が、彼の身には染みついていた。
どんなに言葉を飾ろうとそれが人殺しでしかないことはわかっている。しかし、騎士にとって敵を倒すことと国を守ることは同義だ。
国を守ることを恐れる騎士はいない。
国のために血を流すことを、血を浴びることを厭う騎士はいない。
血に塗れた手を、国を守れた証と誇りに思いこそすれ、汚らわしいと思ったことはなかった――彼女に会うまでは。
敵将の首の代わりに就いた地位で、傍に寄ることなんて許されない。
幾多の命を啜った剣を佩いて、彼女の前に立てはしない。
それに何より、他人の血で汚れ切った手で触れることなんてできるはずがない。
あのきれいなお姫様に出会って初めて、彼は自分の血濡れた手を厭うようになった。
◇◇◇
先の戦の勝利を祝う宴は、それはそれは盛大だった。
一番の功労者といっても過言ではない彼ももちろん呼ばれていて。
いつもの数倍堅苦しい衣装に身を包んで、数年前まで言葉はおろか視線すら交わすことを許されなかった貴族たちと同じ場に立つ。彼を見て眉を顰める者もいるが、媚を売るようにすり寄ってくる者が大半だ。そんな輩は、きっと彼と同じくらいかそれ以上にその身が汚れているのだろう。汚れた者同士、お似合いではないか。
戦で一番活躍したということは、一番ひとを殺したということに他ならない。
きれいで大仰な服を着て、やたらピカピカした勲章で身を飾り立てて。その中身がただの人殺しだとこの場にいる誰もが知っているのに、まるで救国の英雄のように扱われる。
望めばたいていのものは与えられるだろう。騎士として、彼はそれだけの働きをした。
けれど、一番欲しいものは手に入らない。
彼が唯一望むものは、汚れた切ったこの手で触れてはいけないものだから。褒賞のように、人を殺した報酬のように、彼女を求めるなんてできない。
彼にとって、彼女は聖域。
血に塗れて汚れた身体で近づいてはいけないひと。
きれいなきれいなお姫様。
死が焼き付いた瞳に、彼女を映すことは許されない。
断末魔の残る耳で、彼女の声を聞くことは許されない。
血に汚れた手で触れることなど、許されるはずがない。
誰にも、まして自分などには決して汚せない唯一無二の女性。
そんな、いささか狂気じみた考えをもつ抱くほどに彼は彼女を想っている。それは、騎士が姫に捧げる忠誠であり、美しいものに対して抱く敬愛であり、肉欲を伴わない恋情であった。
「我らが英雄どの」
近づいてはいけないひとが彼の眼前で頬笑む。
その清らかな笑みを見ることなどできないと、不自然でない程度に彼女から視線を逸らした。
「……今日も目を合わせてはくださらないのですね。戦時にも城に引き籠って安穏としていた女は、やはりお嫌いですか?」
彼女は思いも寄らないことを口にする。
咄嗟に彼女の目を見てしまいそうになって、それを彼は慌てて押し止めた。
「――いえ、そのようなことは」
視線を逸らし続けたまま、言葉少なに答える。本来なら声を聞くことも許されない身だ。悲しそうな彼女に何かしたいと思っても、多くを語ることはできなかった。
「良かった。なら、その証にあなたの手を貸してくださいませんか?」
その空気から、視線の動きから助力を請うているわけではないとわかる。
だから、躊躇した。
目には見えずとも、彼の手は確かに血で汚れているから。人を殺した感触がこびりついているから。
「俺の手は汚れていますので」
そんな手を、彼女に差し出すことは躊躇われる。
「……汚れ?」
「――血が、こびりついております」
彼の言葉に何を思ったか、彼女は優雅な仕草で彼の手を取った。姫君らしからぬ強引な動作だ。
思いがけない彼女の行動に面食らい、彼の反応が遅れる。そうでなくとも彼に彼女の手を振りほどくことなどできはしない。
「姫、いけません。御身が汚れて――」
続く言葉が彼から発されることはなかった。
理由はとても簡単で。
彼女が、麗しの姫君が武骨な騎士の指に口づけていたから。
彼の指先に、尊いひとの唇が触れている。
「っ」
その意味は、賞賛。
血で汚れた人殺しの象徴を、誰よりもそれに縁遠いはずの彼女は賞賛した。
軽蔑ではなく賞賛を彼の指先に送ったのだ。
驚きのあまり、彼は目を見開いて呆然と彼女を見つめた。傍目にはさぞ間抜けに映ったことだろう。
「ああ、やっと目が合いましたね」
自分にだけ向けられたその微笑みに、彼は思考を放棄した。
指先に感じた痺れるような陶酔と、彼女の優美な微笑みを前にしては歴戦の将でも己を保てはしないだろう。
「我らが英雄どの……いえ、私の騎士さま。私はあなたを賞賛します――この国のため戦ってくださったあなたを」
彼が救国の英雄なら、彼女は世界を救う聖女だ。
「あなたの手が汚れているというなら、それは私たちのため。誰がそれを嫌うでしょうか」
あなたが嫌うのではないのか。
きれいなあなたは、血で汚れた俺を軽蔑しているのではなかったのか。
「国を守ってくださるあなたの手を頼もしいと思いこそすれ、汚らわしいなどと思うはずがありません」
そう言って彼女は、彼女のものよりもだいぶ大きい節くれだった手をその白くたおやかな手で包み込む。
そうして、彼は自分が大きな勘違いをしていたことを悟った。
これは、このひとは、彼などに汚せるような存在ではない。
汚れひとつなく真っ白で、他を浄化してしまうほど清らかで、世界の何よりも美しくて――誰よりも強い魂を持っているから。
「だからどうか――あなた自身も、あなたの手を厭わないで」
汚れに触れているのに、彼女はどこまでもきれいだった。
タイトル「それはどこまでもきれいな」
作者:雨柚




