22 KING(1923)
関東大地震から二ヶ月近くが過ぎたころ、山のように冷涼な場所なら紅葉も美しい十月末。俺、中浦秀人は静岡県を訪れていた。
もちろんセバスチャンこと隠密の瀬場須知雄も一緒だ。この頃になると一部の者は俺が謎の予言者だと知っているから、外出時は彼や配下が警護役として帯同する。
今日も愛車の三菱A型にはセバスチャンと三人の部下が乗り込み、しかも俺は後部座席に収まっていた。お陰で箱根を越えたときは赤や黄に染まった山々を楽しめたが、少しくらいハンドルを握らせてくれてもと思ったものだ。
とはいえ目立つ運転席や助手席より、後部座席が安全なのは間違いない。
三菱A型の前席の窓枠は、棒のように細い支柱のみだ。それに対し後部の窓は小さいし横まで太いピラー……窓柱が回りこんでいる。
念のために窓ガラスも特注の品に変えたが、もちろん鋼板には敵わない。そこで最近は後ろで大人しくすることが多かった。
そもそも車での移動も暗殺対策で、鉄道は予定が読めるし昇降の際を狙えるからと避けた結果だ。1921年11月の原敬首相暗殺事件、回避済みの凶事も東京駅の構内だから決して杞憂ではない。
俺は出来るだけ表舞台に立たないようにしているが、ワシントン会議以降は全てを断るわけにもいかなかった。たとえば帰国した翌月は皇室主催の観桜会に出席したし、同じ四月下旬のア式蹴球全国優勝競技会では皇太子殿下の側に控えている。
その後も同様、ここ一年半ほどを振り返ると月に一度か二度は重要な場に顔を出した。したがって出自不明な男が殿下の側に侍るなど不遜と憤慨する者もいるだろう。
ただし今の俺は、もっと面倒な場所にいた。
ここは静岡県庵原郡興津町、それも坐漁荘。しかも俺の目の前に座っているのは、この別荘の主……要するに西園寺公望公爵その人である。
「……わざわざ来てもらって済まないね。だが良いところだろう?」
「はい。南には三保の松原、西には清水港、それに背後には家康公も師事した太原崇孚の清見寺……風光明媚にして天下に思いを巡らすには、またとない地かと」
西園寺公の問いかけに、俺は閑院宮載仁親王やセバスチャンから教わった事柄を交えつつ応じた。
もっとも景色の良いところだと思ったのは事実、決して阿諛追従ではない。
坐漁荘は俺がいた二十一世紀でも同じ場所、静岡市清水区興津清見寺町に観光可能な名所として存在する。元からの建物は愛知県犬山市の博物館明治村に移築されたが、興津にも復元した建物があるのだ。
ただし俺が知る未来の風景だと、坐漁荘の前には埠頭が築かれ倉庫などが並び、海など目に入らない。
しかし大正時代の興津海岸は砂浜で、応接室のテラスからでも白い輝きや青い煌めきが目に入るし、その向こうには三保の松原らしき緑も見て取れる。
そして坐漁荘の裏は東海道、その向こうが東海道本線で興津駅も1キロメートル少々東という立地の良さ。おまけに線路を越えた向こうの山には太原雪斎が住職を務めた名刹まである。
海を楽しむも良し、禅寺で瞑想するも良し、もちろん坐漁荘で悠々自適でも良し。東京に行きたくなったら汽車に乗るなり車を出させるなり、西園寺公なら思いのままだ。
何しろ西園寺公は二度も首相を務め、しかも今は元老なのだから。
「ここの美しさを未来の日本人にも分かってもらえるとは、実に嬉しいことだ」
西園寺公は老いた面を綻ばせた。
既に七十三歳、十二月には更に一つ歳を重ねる。公家顔が稀なる血筋だと示しているが、こうやって笑えば普通の老人と同じように映りもする。
しかし彼は歴史上たった八人しかいない元老である。しかも松方正義が伏せり死期が迫る今、既に最後の元老と呼んでも差し支えない。
俺が知っている歴史通りなら、松方公は来年の七月に死去する。彼は今ですら八十八歳という高齢だから、大きくずれることはないだろう。
つまり西園寺公は天皇に内閣総理大臣を奏薦できる唯一の人物で、極論すれば独断で首相を決められる老人なのだ。そのため最近は政官の大物達が『興津詣』に励むくらいで、日本の影の王と呼んでも良いと思うほどだ。
「百年後にも日本人の心は脈々と受け継がれております。この国が……そして平和が保たれる限り、花鳥風月や四季を愛でて和歌を詠むでしょう」
少々誇張したが、二十一世紀でも俳句や短歌を作る人達がいるのは事実だ。それに川柳くらいなら誰でも捻り出すし、俺の言葉は全くの嘘でもない。
もっとも俺が『平和』と入れたのは、そろそろ探り合いを終わりにしたいからだ。
相手は公爵、セバスチャンは従者として後ろに控えるのみ。配下の隠密達は屋外だ。
そのため助けなど期待できず、風雅な会話を続けたらボロが出るのは必定。ならば公家文化と縁のない領域、本題に移りたい。
俺達が坐漁荘に来たのは皇室典範の改正、譲位に関する規定を加えるためだ。これには枢密院の同意が必要で、すんなり運ぶために西園寺公の威光を利用したい。
現在の枢密院議長は子爵の清浦奎吾。今は亡き山縣有朋の引き立てで出世した人物だ。
山縣公は死の直前、自身の秘書の松本剛吉へ西園寺公に仕えるようにと遺言した。つまり清浦子爵からすれば西園寺公は大恩人が認めた正統後継者、その同意を取り付けたら子爵も改正派に回るだろう。
しかも清浦子爵は司法官僚の出身、著書の『治罪法講義随聴随筆』は多くの警察官が目を通したという法律の専門家だ。更に彼は貴族院最大会派の代表格でもあり、枢密院の決議を大きく左右する。
皇室典範改正はあくまでも通過点、本当の目的は憲法改正だ。そこで初手から躓かぬよう、俺は万全を期したかった。
「ふふ……流石に新聞や雑誌を牛耳ろうという男は言うことが違うね。それとも未来人は、全員が君のように口が達者なのかな?」
「これはお耳が早い……確かに事実ですが、これも日ノ本のためでございます」
笑みを浮かべつつも声は皮肉げな公爵に、俺は意味ありげな様子で応じた。その方が内心を誤魔化せると判断したからだ。
その一方で俺は、昨年来の仕込みを思い返していく。
◆ ◆ ◆ ◆
昨年の五月以降、俺は報道機関を手に入れるべく動いていた。当然ながら俺一人で買えるような代物ではないから、政財界に声を掛けてのことだ。
まずは居候中の閑院宮家や当主の載仁親王に紹介してもらった宮家など。ワシントン会議で五ヶ月近く共に過ごした徳川家達公爵や加藤友三郎海軍大将。更に渋沢栄一翁や三菱にも話を持ちかけた。
もちろん大日本蹴球協会で交流のある人達にも加わってもらった。現会長の今村次吉さんは実業家でもあるし、同じく重鎮の深尾隆太郎さんは男爵家の嫡男で大阪商船の重役だから充分な財力がある。
それに関東大震災対策で関係を深めた人々、東京市長の後藤新平などだ。もっとも後藤市長や少壮実業家が集う番町会グループに話を持っていったのには、別の意味もあるが。
ともかく俺は同年六月……つまり1922年の夏前には、とある人物との接触に成功した。そして翌月、俺は日本橋の三越で彼との対面を果たす。
「こんなところで密談とは……驚きました」
「人ごみに紛れますし、手の者が出入り口を見張っているので大丈夫ですよ。それに狭苦しい部屋に篭もるより、楽しいじゃないですか」
壮年の着物姿の男は呆れたような顔をしていた。
俺がいるのはパラソル付きのテーブル、つまり屋上庭園の一角なのだ。それに隣には婚約者の智子さんも座っている。
このころ既にデパートの屋上には後と同様の休憩所や遊具があった。ここ三越も噴水や池を設けたし、少し離れた場所では子供達が遊んでいる。
確か大正十四年ごろ……つまり1925年あたりだが、銀座の松坂屋が動物園まで造るはずだ。これはライオンやヒョウまでいる随分と本格的なものだという。
とはいえ所詮はビルの屋上、幾つかの出入り口を見張れば不審者の出現を容易に察知できる。そして彼らが近づけば、隣のテーブルにいるセバスチャンがさりげなく伝えてくれる手筈になっている。
実はセバスチャンの他にも彼の配下が周囲を固め、多少声を落とせば誰にも聞かれずに話が出来る。もちろん俺を含め普通の買い物客を装っているから、人目を惹くこともない。
しかも俺は智子さんを連れているし、相手は四十半ばの厳しい男だ。少々年が近いが親子連れか、叔父と甥や姪といった感じに映るだろう。
「では早速……。ああ、私達は秀君に智さんとでも呼んでください」
「分かりました。私は清さんでお願いします」
俺が仮の名を伝えると、男も自身の名から一字を選んだ。彼の本当の名は野間清治というのだ。
そう、俺は講談社を興した人物……後に『雑誌王』と呼ばれる男に目を付けた。
このころ野間清治は、大日本雄弁会と講談社の二つを経営していた。前者は1910年創刊の『雄弁』という弁論系の雑誌、後者は翌年創刊の『講談倶楽部』という大衆向けの雑誌のために立ち上げた会社だ。
弁論と講談では毛色が違うから会社を分けたらしいが、大正十四年には統合する。そして彼は1930年、つまり昭和五年には報知社……後の報知新聞社を買収する。
それを知っていた俺は、新聞社経営を持ちかけることにしたわけだ。しかし、その前に現在野間社長が企画しているだろう件についても触れていく。
「まずは清さんが創ろうとしている大衆誌から。『面白くてためになる』雑誌……私は大賛成、もちろん出資します。きっと雑誌の王になりますからね。……そうだ、『KING』という名はどうでしょう?」
「そ、それは!?」
俺の言葉に、野間社長は大きく目を開く。しかも相当に驚いたらしく、先刻密談と口にしたばかりなのに太い声を響かせた。
野間社長は若いころ剣道に励み、アキレス腱の断裂で剣を置いたものの今も後進達の支援を続けている武術家でもある。そのため声の張りも常人とは比べ物にならない。
「これからの日本人は海外にも目を向けなくてはいけません。表紙には英語と日本語の双方で題を記す……それでいて大衆路線を徹底し、万人が楽しみ未来に希望を抱く雑誌。講談や同じく分かりやすい小説、日常に役立つ知識、コミカルな話に人情話……それらを通して我が国の実情や世界を紹介するのです」
ちなみに本来の歴史だと、キングの創刊は1924年11月だ。しかし俺は野間社長との伝手を作るため支援を約束し、前倒しする気があるなら手を貸すと伝える。
口にしたのは創刊号の表紙や続く号も含めた内容だから、野間社長が練っている構想そのものだろう。もし漠然とした方向性しか浮かんでいなかったら、それこそ天啓のように感じたかもしれない。
実際よほどの衝撃を受けたようで、野間社長は一角の経営者にして出版者とは思えぬ呆然たる面持ちとなっていた。
「……どうして、そこまでしてくれるのですか? まさか私達に政府の提灯持ちになれと?」
しばらく野間社長は黙り込んでいたが、表情を厳しくして低い声で問いを発した。先刻と違って囁くような小声だが、不快感からか結構な迫力を宿している。
しかし俺もセバスチャンから新陰流を叩き込まれており、既に奥伝を得ている。僅か一年半だが、誇張なしに血を吐くような修行を重ねた結果だ。
まだ皆伝まで二段階あるが、それでも俺は壮年剣士の気迫を余裕で受け流した。
「先ほど言った通りですよ。日本人に真実を見抜くだけの知識を持ってほしい……それが本当の平和に繋がると考えています。国や軍の発表、海外から押し寄せる工作……これらに騙されず幸せを掴むための灯りを燈していただきたい」
要するに、俺は『社会の木鐸』が欲しいだけだ。
しかし学者が難しい言葉を使って自説を展開しても、多くの人は聞いてくれないだろう。そこで大衆雑誌たるキングを楽しみながら、自然に世の中を知ってもらいたいと考えた。
第二弾として新聞にも取り組むが、これも平易で分かりやすい路線で押してほしいと野間社長に伝える。
「特定の党派や主義に寄る必要はありません。敢えて言えば民本主義ですが、原理原則に縛られるのも困る。……だから清さんが創る雑誌や新聞で、人々が本当に幸せになる道を語ってほしいのですよ」
軍国主義は願い下げだが、共産主義を謳う北の尖兵もお断りだ。そのためロシア革命で無数の人が命を落とし今も圧制が続いていると、セバスチャン達が様々な経路を使って広めてきた。
したがって日本における共産主義や社会主義は、本来の歴史より極めて小規模となっていた。革命の結果は人民政府ではなく、一党独裁……正確に言えば個人の長期独裁と血の粛清だからである。
ただし隠密達による情報操作にも限界がある。そこで俺は報道や出版による本格的な世論誘導をと考えたわけだ。
そして元の歴史でも、キングは軍の営舎でも読めるくらい思想的な色がなかった。ならば軍はともかく日本を狙う共産主義の牽制はしてくれると考えたのだ。
「分かりました。雑誌は元々考えていたこと、それに娯楽と同時に公共への貢献をと練っており、お申し出は百万の味方を得た思いです。しかし新聞は……いずれと思っていましたが、買い取れるような社があるのですか? それに弱小紙すぎると何も学べず無駄遣いで終わるでしょう」
どうやら野間社長を引き込むのに成功したらしい。
俺の隣では、今まで無言のままだった智子さんが静かに息を吐いていた。休日とはいえ密談の偽装に借り出して悪かった……でも後は三越巡りだから、それで勘弁してもらおう。
「ちょうど良いところがあるのですよ。もっとも今ではなく、一年少々後ですが……。それまでに雑誌を立ち上げ、続いて新聞に参入しましょう」
これが仕上げとばかりに、俺は今まで伏せていた秘策を少しだけ明かしていく。
それは関東大震災が直接の引き金となり、更に同年十二月に起きる虎ノ門事件も影響している。まだ地震については明かせないし、後者は皇太子暗殺未遂事件だから同じく口に出来ない。
それに歴史は大きく変わっており、虎ノ門事件は起きないはずだ。したがって野間社長に伝えたのは、ほんのさわりだけである。
しかし今までの会話で俺を信頼してくれたらしく、これから昭和初期にかけての出版界を代表する偉人は真顔で聞き入ってくれた。
◆ ◆ ◆ ◆
「キングは読んでいるよ。あからさまではないが共産主義の欺瞞に触れるあたり、なかなかのものだと感心した。……それに軍にも柔らかにだが注意を促しているね。この前の号にも現場の暴走を抑えた上官を称える作品があったが、あれは統制が重要だと説いたつもりなのだろう?」
西園寺公の言葉を証明するように、脇の本棚にはキングが並んでいた。
あれから野間社長はキングの準備に全力を注ぎ、二年近く早い今年の正月に創刊号を出した。大衆雑誌だけあって明確な政治色は出していないが、小説の明朗快活な主人公達による勧善懲悪には西園寺公の挙げたような意図が含まれている。
特に俺が勧めた風刺漫画は顕著で、今月号にも『皆で平等に分配しよう』と語った詐欺師が結局は全てを独り占めするオチの話があった。この詐欺師の帽子には星のマークが入っており、しかもスターリンを思わせる鼻髭まで生やしていたから多くの読者は篭めた意図を察しただろう。
「今や百万部を誇る雑誌ですからね。流石に震災で売上を落としましたが、今月は随分と戻したようですし遠からず元通りになるでしょう」
俺は肯定も否定もしなかったが、暗に指摘通りだと示す。言質を取られるようなことは避けたいが、一方で俺のやってきたことを認めてもらわないと皇室典範改正に繋がらないからだ。
「随分と慎重だね……なら新聞社買収に移ろうか。震災で打撃を受けた弱小社を買い取るとは、未来知識を上手く使ったものだ。国のために動いたようだから静観したが、少々強引ではないかね?」
「読売の件ですか。資本力のある朝日や毎日と違い、誰かが手を差し伸べる必要があったのですよ」
本気かどうか分からないが、公爵は不快感を面に滲ませた。しかし俺は強気に突っぱねる。
このころ読売新聞は、関東を中心にした地方紙という扱いだった。そして元の通りなら、社屋は地震に耐えたが直後の大火で焼け落ちて大打撃を受ける。
新たな歴史では火災をかなり抑えたから、読売新聞社の被害も随分と減った。しかし購読者の何割かが被災しており売上が大幅に落ちる。
他にも東京中心の新聞は多くがシェアを減らして経営が傾いていく。それに対し朝日や毎日は元が関西系、しかも全国紙だから売上への影響も割合としては少ない。
なお元の歴史だと、ここで正力松太郎がオーナーになる。しかし彼が警視庁を辞すのは十二月二十七日に起きた虎ノ門事件の引責だから二ヶ月近く先、しかも買収は翌年二月だ。
この数ヶ月の空隙を、俺は狙った。そして本来なら正力に出資する後藤新平や番町会グループにも先んじて話を持ちかけ、野間社長が新聞社を得るように手配した。
ちなみに大震災の被害を大きく抑えたから皇太子殿下の人気は高く、虎ノ門事件は起きないだろう。もし起きたら内閣総辞職だから、セバスチャン達を含め充分に警戒してはいるが。
「それに野間社長が『好談新聞』で目指しているのは、中立で国民のためになる紙面です。流石に娯楽の要素は減らしましたが、人々を啓蒙して真実を伝えるという点ではキングと変わりありません。……そして時の陛下が正しく国を導く限り、啓蒙と真実は国家運営に役立つはずです」
先ほどと違い、俺は少々踏み込んだところまで触れる。
大日本帝国憲法でも天皇の権力は相当に制限されている。殆どのことは内閣や元老の案を受け入れ、そのままに命ずるだけだ。
しかし時には突っぱねて再考を促すこともあったし、案を持ってくる前に自身の意見を示して誘導することもある。そして統帥権に関しては天皇が握るとしており、形式上は全軍の司令官となっている。
そのため病床に伏せる天皇より、若く健康な天皇が国を導くべき。今も皇太子殿下は摂政宮として代行しているが、それでは君主としての責務を果たすべきときに躊躇って流してしまうかもしれない。
そして国の命運を分ける瞬間など、いつ訪れるか誰にも分かりはしないのだ。
「君は日本の裏の王にでもなる気かね? それに皇室典範や憲法を頻繁に変えるようになれば、必ず悪用する者が出る。もし君に私心がなくとも老いたら……あるいは没したらどうなるか考えてみたことは?」
「お言葉、そのまま返しましょう。唯一の元老として首相すら奏薦できる西園寺公を悪用する者は? 公に私心なくとも今以上に老い、あるいは何も変えずに元老制を終えたら? これらをお考えになったことがあれば、変革の必要性もお分かりのはずです」
表情を厳しくした公爵を、俺は真っ直ぐに見つめ返す。そして元の歴史で訪れる事柄を、ぼかしつつも明かしていった。
まず張作霖爆殺事件について。昭和天皇は首相の田中義一を叱責したが、これを西園寺公は強く窘めた。まだ即位して二年半の天皇は元老の言葉に従い、それから後は強い言葉を控えるようになった。
これにより軍部の暴走が加速し、度重なる現場での謀略も追認されるのみとなったのではないか。
次に五・一五事件、昭和七年のことだ。満州事変の翌年、きな臭さが増す時期に犬養毅が海軍若手将校により暗殺された。
このとき西園寺公は、司法官僚出身の鈴木喜三郎を次期首相に推そうとしていた。しかし陸軍若手将校が反発していると耳にし、内乱回避を理由に海軍大将の斎藤実を首相に推薦した。
確かにクーデターでも起きたら終わりだが、暗殺をした海軍から首相を出すなど彼らに非はないと認めたようなものだ。実際に犬養内閣が第二次世界大戦前最後の政党内閣となり、以降は軍国主義一辺倒である。
「西園寺公に全ての責任があるとは言いません。……しかし貴方が座視し続けた結果、取り返しのつかない事態を招いたのです。そして何百万もの国民が命を落とし、国土も大きく傷ついた。挙句の果てには戦勝国が占領して後々まで居座ります。……それでも何も変えぬ方が良いと言い張りますか?」
俺は西園寺公こそが影の王、その重要人物が坐して魚釣りに興じているから時期を逸したと結ぶ。
坐漁荘などと名付けて四季の大半を悠々自適と決め込むなら、とっとと隠居すれば良い。それをせずに次の元老に相応しい者はいないと嘆いてみせ、後継者を育てぬから後で苦労する。
五・一五事件は1932年、西園寺公は八十二歳である。その年齢で若者のように働けと言う気はないが、気力体力が本格的に衰える前に地位を譲るべきだろう。
「騏驎も老いては駑馬に劣る……か。分かったよ、譲位の条項追加を認めよう」
「はい。日ノ本に残された時間は少ないのです」
呟きの前半を俺は聞き流した。確かに若き日の西園寺公は優秀だったと思うが、自身を麒麟と言ってしまうあたり公家出身だけあってプライドが高いと感じてもいたからだ。
ともかく西園寺公の同意を得たし、こうなれば枢密院も問題ない。俺は厳粛な表情を保ちつつも、興津詣が成功裏に終わったと密かに胸を撫で下ろしていた。
お読みいただき、ありがとうございます。




