表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/33

16 平和記念東京博覧会 前編(1922)

 本来の歴史の平和記念東京博覧会は、名前ほど平和を意図していなかった。俺、中浦(なかうら)秀人(しゅうと)は二十一世紀にいたころ、そう感じていた。

 日本が勝ち取った成果を誇るような展示が多く、国威発揚のイベントとしか思えなかったのだ。


 朝鮮館、樺太館、満蒙館、台湾館、南洋館、ギリヤーク館こと樺太やシベリア東岸に住む人々の紹介。どれも日本が得た地や狙っている場所だから、新たな領土に目を向けさせる意図があるのは確かだ。

 ただし1922年、つまり大正十一年の『平和』とは平成の世の日本人が考えるものと違っており、短絡的な批判は的外れだ。


 まず、元の歴史だとシベリア出兵が続いている。

 新たな歴史だと撤兵済みだが元々は1922年10月末完了で、博覧会が終わる7月末だと日本は限定的ながらも交戦中だ。つまり戦争をしながら平和記念のイベントを開いていたわけだ。

 それに列強は多くの植民地や属国を支配下に置き、本国の平和と繁栄を支えていた。この支配は軍事力によるもので、空爆での反乱鎮圧すら行われた。

 1919年にイギリスがエジプト爆撃をし、アメリカ、フランス、イタリアなどもそれぞれ支配する地に爆弾の雨を降らせた。交戦国に対してならともかく、自国の統治下というのに『安上がりで済む』という理由で多用したのだ。

 このような時代だから、『平和』は力で維持し『繁栄』は広げた領土で築くという考えが主流だ。そもそも今の日本は富国強兵を(うた)っており、国主催の博覧会が武力による拡大に肯定的なのも当然だろう。


 ただし自国のみで周囲を従えるのは困難だ。

 たとえば博覧会の四年前に終わった第一次世界大戦だが、日本は日英同盟により参戦した。つまり連合国側に属し、南洋でのドイツ艦隊撃破に加えて欧州戦線への輸送や護衛を受け持った。

 イギリスなども日本が多大な貢献をしたから南洋諸島統治を認めたわけで、好き勝手に切り取れたわけではない。したがって国民に正しいメッセージを送るなら、有力国との協調による拡大繁栄とすべきだろう。

 しかし本来の平和記念東京博覧会だと、諸外国の扱いは小さかった。企画時点だと日英同盟が続いていたから英国館はあるが、他は外国館として一緒にされたのだ。

 これでは駐日フランス大使ポール・クローデルが内向きと嘆くのも無理はない。これを平成に入って出版された彼の外交書簡集で知っていた俺は、博覧会について多少の意見をしていた。

 俺は閑院宮(かんいんのみや)邸に居候しているから、当主の載仁(ことひと)親王を通して働きかけた。載仁親王は博覧会の総裁も務めており、大きな影響力を持っているのだ。


「先日も感じたが、この像は素晴らしいな」


 エドワード王太子は、第一会場正門の左右に置かれた立像を眺めている。それに供のマウントバッテン卿も、同じく二つの像に顔を向けていた。

 俺と婚約者の智子(ともこ)さんも像の鑑賞だ。事前に手に入れた写真集で見てはいるが、実物に(かな)うわけもないから堪能させてもらう。

 残る一人、セバスチャンこと隠密の瀬場(せば)須知雄(すちお)は視線を各所に向けていた。彼は俺達の護衛だから、像に気を取られているわけにはいかない。


 周囲は多くの人がおり、場内に向かって歩いている。まだ開場の八時から大して経っていないから、急ぎ足で通っていく人ばかりだ。

 正門は南側から坂を上りきったところ、西郷(さいごう)隆盛(たかもり)の銅像の側から桜並木を進んだ先だ。二十一世紀なら大噴水の幾らか手前、正岡(まさおか)子規(しき)記念球場の北端に近い。

 ここは大正時代も上野公園のメインストリートだが、今は溢れんばかりの人で花見もかくやという混み具合だ。


 この中に王太子を狙う者がいるかもしれない。周囲はセバスチャンの配下が見物客に扮して固めているが、他者の接近を制していないから油断禁物だ。

 警官隊を配することも可能だが、それでは王太子が望む気軽な散策とは程遠いし変装した意味がない。彼の訪日は誰もが知るところで、警官や軍人に囲まれた外国人男性がいれば正体を類推するのは簡単だ。

 そこで隠密達も他人を装っており、俺達と同じように像や正門を眺めるフリをしながら(たたず)むのみだ。しかも大勢が一斉に足を止めたら不審に思われるから、中には先へと進む者もいる。

 後続にも隠密はいるから、彼らは交代しつつ警護を続けるのだ。


「どちらも東洋と西洋の美が見事に融合している……」


 思わずといった様子で、王太子は呟いている。

 一つは男性像、もう一つは女性像。実は不動明王と観音菩薩だが、様式は西洋の彫像と呼べる範疇(はんちゅう)だ。

 容貌や衣装も古代ギリシャ文化を思わせるが、仏像らしい特徴もある。明王は手にした剣や縄と背負った炎、菩薩は印相(いんぞう)だ。ただし全体に写実的で、明王の顔に誇張は少ないし菩薩も目鼻立ちがハッキリしている。


 つまり日本人なら不動様に観音様と判別できるが、西洋人は変わった光背や珍しいポーズと思うだけだろう。もっとも王太子やマウントバッテン卿は六日前に来たとき説明を受けており、来る途中も「フドウ」や「カンノン」など口にしていた。


「これも君の発案かい?」


 王太子は横浜の英国系企業に務める労働者に扮し、服も相応のものにしている。これはマウントバッテン卿も同じで、二人は言葉もコックニー訛りの少々乱雑なものに変えていた。

 名前も元のままでは変装の意味がない。そこで王太子がデイヴ、マウントバッテン卿がディッキーとしている。


「海外の方にも楽しんでもらえるように、と伝えただけです」


 俺は謙遜気味の言葉で答えたが、真実は少々異なる。

 二十一世紀で読んだクローデルの書簡集だと、この博覧会は酷評されていた。特に彼は西洋関連を猿真似と断じ、自分達の美意識を理解していないとも記した。

 クローデルの言葉を鵜呑みにするつもりはないし、中には日本への理解が浅いと思うものもある。しかし当時の西洋文化に関しては、著名な文化人でもある彼の指摘を素直に受け止めるべきだろう。


 生憎と俺は美術に詳しくないが、少し前からヨーロッパで『ジャポニスム』が流行していたのは知っていた。そこで単に模倣するより、日本的な題材を西洋風に表現してはと伝えたのだ。

 ただし下手な真似と受け取られないよう、様式は出来るだけ似せてほしいと依頼した。それに載仁親王も百年後まで不評が残るのは避けたいと、委員に厳命してくれた。

 その結果、日本古来の題材の西洋表現が多く登場した。像に建物、絵画など、およそ美術品として受け取られるものは、西洋人からしたらエキゾチックでありながら受け入れやすい形となったのだ。


「……もう少し心を開いてくれても良いと思うが?」


「長く立ち止まると目立ちます。それに口調も……」


 不満げな顔のエドワード王太子に、マウントバッテン卿が(ささや)く。そのため王太子は追及を中断し、俺達五人は会場である上野公園の中に入っていく。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 クローデルは平和記念東京博覧会の予算を一千万円以上と書き記している。なお実際には国が出した予算が六百万円で協賛会が八百万円だから千四百万円だ。

 これは米価換算だと二十一世紀の百五十億円近く、GNP・GDP換算なら二千億円近く、国家予算規模で比べると一兆円に迫る。

 どれを基準にするかで六十倍以上も違うが、いずれにしても途轍もない大金だ。


 これをクローデルは外貨獲得のない無駄遣いと記したが、俺は少々的外れだと考えている。なぜなら内需拡大や産業振興という面では大きな意味があるからだ。

 まず入場料が一人あたり60銭、来場者が延べ一千万人だから入場料だけでも六百万円だ。つまり経費を無視すれば、政府が出した分は入場料のみで回収できたことになる。

 パビリオンやイベントには有料のものがあり、たとえば演芸館は大人が普通一円、特別二円だ。俺が事前に買い求めたような写真集や図録、それに記念絵葉書などもある。経費を考えても、それほど国の懐が痛むとは思えない。


 協賛した企業も、多くの利益を得たに違いない。会場での販売もあるが、新商品を多くの人にアピールできたのだから。

 何しろテレビどころかラジオすら試験段階だ。広告は新聞かバスや電車の中吊りなど、後はチンドン屋くらいだろうか。

 出展は大企業中心だが、文具組合や電気協会など業界団体での参加もある。多くの産業が新たな時代の道具や暮らしを披露し、人々の購買意欲を刺激したのだ。

 ちなみに二十一世紀の物価は千三百倍ほども高いが、年間消費だと一万八千倍だ。つまり極めて乱暴に言えば、大正時代の経済規模は二十一世紀の十分の一以下だと表現できる。

 もちろん二十一世紀と違って手作りで済ますものが多いなど、ライフスタイルの差もある。しかし新たな産業や雇用の創出は極めて重要で、博覧会での促進は投じた金額以上の意味があるはずだ。


「日本の技術も大したものだ。シャープペンシルの発明者は日本人と聞いていたが、他にも色々あるじゃないか」


 エドワード王太子が触れたのは早川(はやかわ)徳次(とくじ)、つまり後のシャープ創業者だ。

 早川氏が発明したシャープペンシルは、第一次世界大戦のころから欧米でも売れていた。これは第一会場の文具館で大々的にアピールしている。


 まず俺達は、上野の山に置かれた第一会場を見物した。

 王太子は今の日本の生活や技術を知りたいという。どうも先日の訪問では、日本の伝統文化や自国の出展した英国館を中心に案内されたらしい。

 そこで俺達は正門から近い製作工業館と化学工業館を覗いてから文具館に向かったのだ。


「科学研究も驚いたぜ」


 マウントバッテン卿は製作工業館や化学工業館で目にしたものに触れた。

 乾電池を発明した屋井(やい)先蔵(さきぞう)、オリザニンや合成清酒の鈴木(すずき)梅太郎(うめたろう)、アドレナリンの抽出を始め数多くの成果を残した高峰(たかみね)譲吉じょうきちなど。このような海外に誇れる技術者や科学者を、俺達は大きく押し出した。

 二十一世紀でも評価されている成果を中心に紹介したから、単なるお国自慢と受け取る者は僅かだろう。


「ありがとうございます」


 コックニー訛りだから二人の言葉は荒っぽい。しかし心から褒めているのは明らかで、俺は素直に感謝の言葉で応じる。


 ()()()()は極めて楽だった。工業系は俺も見たかったし、これから行く予定の文化村も少々関わっていたから説明にも不自由しない。

 一方で智子さんには悪いことをした。彼女は服飾関連を見たかっただろうが、王太子を警護しながらジックリ見て回るのは難しい。これは二人で再訪するとき、存分に穴埋めするつもりだ。

 セバスチャンは警護に重点を置いており、殆どを無言で通している。ハンドサインなどで配下と連絡を取っているはずだが動きは僅かで、彼が何を伝えているのか俺には分からない。


「特に、ここ二年程は凄い。これも謎の予言者のお陰か? 六日前は第二会場の電気工業館、あの八木(やぎ)という博士の研究に驚いた……フレミング教授の弟子だと聞いたが、あのアンテナは凄いじゃないか」


 どうも王太子は、どこまで俺が技術発展に関与しているか知りたいらしい。それにマウントバッテン卿も俺の様子を窺っている。

 お忍びでの博覧会見物には、物見遊山以外の理由があったのだ。


「予言者は関係ないでしょう。アンテナも八木教授と助手の努力の賜物ですよ」


 俺は表情を消し、押さえ気味の声で無関係だと主張する。

 ただし今までの偉人達と違い、俺は八木(やぎ)秀次(しゅうじ)博士や助手の宇田(うだ)新太郎(しんたろう)に会って二つ三つの助言をしていた。もちろん八木アンテナを今の日本に認めさせるためだ。


 本来の歴史だと八木教授と助手の宇田は1924年に原理の端緒を掴み、1926年に英文論文発表や特許出願をするが国内への普及は遅かった。

 海外では1928年のアメリカ公演で絶賛され、レーダーにも早くから応用された。しかし日本は1933年に無線電話で二件ほど使ったのみ、あまつさえ1941年に有用ではないと特許の延長すら却下される。

 このころ日本の電気学会は強電関係に傾倒しており、レーダーに必要な他の技術が育っていなかったという話もある。だが、それにしても(ひど)いと二十一世紀にいたころの俺は憤慨したものだ。

 そして極めつけは、第二次世界大戦中の出来事だ。日本軍がイギリス軍やアメリカ軍のレーダーを押収したとき『YAGI』の文字を発見し、捕虜から日本人が発明した技術と聞かされたのだ。


 俺は無闇に戦うつもりはないが、先への備えとしてレーダーや無線に力をいれるべきと考えた。そこで八木博士達に助言すると同時に、各方面に弱電技術の重要性を説いて回った。

 これで関係ないと答えるのは、同盟国とはいえ必要以上に手の内を明かしたくないからだ。


「へえ……それは期待外れだ」


「では、ご期待に沿えるものを披露できるよう努力します。そうですね……万国街は如何(いかが)でしょう」


 不満を露骨に表す王太子に、俺は次の行き先として売店や飲食店が並ぶ場所を持ち出した。

 万国街には各国のダンスショーもあるという。既に世界各国を巡っている王太子にとって新鮮味は少ないだろうが、華やかだから派手好きな彼の趣味に合っていると思う。


「じゃあ行こうか。だが、その次は文化村だ」


 このようにエドワード王太子は無理だと感じると、一旦は撤回する。しかし決して諦めたのではなく、攻め時を探っているらしい。


 国益を考えて同盟国にも秘中の秘は伏せる。それは向こうも承知しているし、今のところ非難する気はないようだ。

 しかし少しでも明らかに出来れば、他国を大きく引き離せるかもしれない。こうやって巡る間の説明でも、どれを重視しているか多少は掴めるはずだ。

 そのため王太子は自身で探ろうと考えたのだろうか。


「……分かりました」


「なかなか手強いですね」


 歩み始めた俺にセバスチャンが寄り、密やかな(ささや)きを届ける。

 文化村は元々あった企画で、西洋式の生活が出来る家……後に文化住宅と呼ばれる様式を紹介したものだ。これが十数戸も建っており、希望者への販売もする住宅見本市でもある。


 文化住宅は洋間を幾つか取り入れた程度の和洋折衷で、たいていは玄関や応接室など客を通す場所のみが洋風、それに玄関で靴も脱ぐ。

 俺のイメージとしては昭和の古い一戸建てという感じだが、それだけ日本人に合っており後々まで定着したのだろう。

 これに俺は耐火や耐震の技術を加えてほしいと頼み、来年の関東大震災に向けた建て替えや補強促進を促す材料にした。

 この当時モルタルや石膏ボードなどの耐火材は既に存在していた。それに引掛(ひっか)(さん)瓦葺(かわらぶ)きなどで屋根を軽くすれば耐震性も上がる。

 これらは積極的に関わったから、王太子が俺の影を感じる可能性は高い。そのためだろうか、ほろ苦い笑みがセバスチャンの顔に浮かんでいた。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 万国街と文化村の見学を終えた俺達は、昼食の場として精養軒のパビリオンを選んだ。場所は第二会場、不忍池の北岸である。


 精養軒は二十一世紀まで続く由緒あるフランス料理店で、古くから上野に店舗を持っている。何しろ築地に店を出したのが明治五年で上野が明治九年というから、まさにフランス料理の草分けだ。

 系列のカフェー・ライオンはメイド服に似た制服の美人女給で有名だが、このパビリオンもカフェ風に仕上げ、多くの女性店員を配置して入りやすさを演出している。


「ここのウェイトレスは美人揃いだな」


「デイヴは女のことしか頭にないのか?」


 テーブルに案内した女給さんが気に入ったのか、エドワード王太子は目で追い掛けていく。すると隣の席では、マウントバッテン卿が(あき)れたような表情で応じた。

 マウントバッテン卿は王太子より六歳も年下だが、上下関係を滲ませると正体が露見しかねないから対等に話している。それに双方ともコックニー訛りでロンドンの下町っ子を演じており、乱暴かつ遠慮のない言葉遣いだ。


「男なら誰でもそうだろう? ディッキーだって……ほら、あの娘はお前好みだぞ」


 言い訳を始める王太子に、俺や智子さんは苦笑するのみだ。

 ちなみに女給さんに目を奪われる男性客は多いが、俺は別だ。婚約者が隣にいるのに他の女性に目を向けるなど、失礼極まりないだろう。

 一方セバスチャンは怪しまれないようにと思ったのか、王太子と同じ方向を向いた。おそらく女性観察を装いつつ、周囲を探っているのだろう。


「午後はどちらを周りますか?」


「そうだな……池の南側はどうだ? あちらは変わったものがありそうだからな」


 女性評を避けるべく話題を変えた俺に、王太子は意味ありげな笑みを向けた。しかし彼は冷やかさずに、そのまま話に乗ってくれる。


 不忍池の南岸には、数多くの出店が並んでいる。それも今まで目にした有名企業ではなく、売店街というべき雰囲気だ。

 第一会場は全て大きなパビリオンだし、第二会場でも不忍池の北や北東は同じく規模が大きい。この区域は飲食店や休憩所の出展も二十一世紀まで続く有名企業が多く、花王、味の素、サッポロビール、キリンビール、森永などの名を目にした。

 それに対し池の南や南東部は、幾つかの長屋状の建物に小さな店が数多く入っている。


「英国館はご覧にならないのですか?」


「前回見たからね。それに誰かに気付かれるかもしれない」


 小首を傾げた智子さんに、エドワード王太子は声を潜めつつ理由を明かした。すると智子さんは、納得がいったようで笑みを浮かべる。


 この席からも英国館が少しだけ見えた。側にはアメリカとフランスのパビリオンもあり、その奥が外国館……つまり独自の建物を用意しなかった国々の展示場だ。

 外国館は当初の計画のままだが、米仏のパビリオンは元々存在しなかった。しかし新たな歴史ではサハリンや満州の開発でアメリカと手を組んだから、彼らもアピールの場を用意せねばと大きな予算を付けた。

 ワシントン会議に向けて英米とは同盟を組むべく動いていたから、俺達も歓迎して便宜を図った。そのためイギリスの館も計画より何割か大きくなったそうだ。

 そしてフランスは、英米の二国が独自の館を建てるならと続いた。企画段階ではフランスが同盟に加わると思っていなかったが、向こうが乗り気になってくれて助かったと言うべきかもしれない。

 日英米仏の四国同盟が成立したのにフランスだけ仲間外れというのは、どうにも体裁が悪いからだ。


 それはともかく、変装中の王太子が欧米人の多い場を避けるのは当然だろう。

 黒髪に染めて付け髭をするなど色々誤魔化しているが、声は変えられない。セバスチャンのような本職なら声色すら自在に操るが、王太子やマウントバッテン卿には無理だ。

 そして声から正体を見破られる可能性はあり、英国館など顔見知りが来るかもしれない場は避けるべきだろう。


「お待たせしました」


「お、本当に早いな!」


 女性遍歴で有名な人物らしく女給さんを観察していた王太子だが、料理の到着に顔を綻ばせた。途中に何度か休憩を挟んだが、お茶を飲んだ程度だから(まと)まった食事がしたかったのだろうか。


 男性四人はオムライスを中心にした洋食、智子さんはサンドイッチやサラダにデザートという女性向けメニューである。王太子を待たせたくないから注文時に聞いたところ、この二つが早いというので選んだのだ。


「なかなか美味いな。ハナコもこういった料理を作るのかい?」


 料理がやってくるなり食べ出した王太子だが、しばらくすると智子さんに顔を向ける。

 花子というのは智子さんの偽名、俺が太郎でセバスチャンが一郎である。どうせ仮の名だから、全て単純で印象に残らないものにしたのだ。


「はい。学校で習っていますし、最近は家でも教わっています。オムライスは作れますし、他にはコロッケなども……」


 智子さんは少々頬を染めつつ、王太子に答えていく。

 閑院宮(かんいんのみや)の娘として生まれた彼女だから、本来なら料理をしなくて済むはずだ。もちろん学校では教わるだろうが、家でも練習するのは本来の名を捨てて俺の婚約者となったからに違いない。

 俺は思わず胸が熱くなり、自然と智子さんに顔を向けていた。


「そうか! さっき見たような家に二人で住むのか? それとも……」


 エドワード王太子は文化村の住宅が気に入ったようだ。彼は見物中も、こういう小さな家で愛する人と暮らすのも良いなどと言っていた。

 ただし王太子は智子さんの反応を楽しんでいたらしいから、本気かどうかは分からない。彼は十四年後に王位を捨ててウォリス・シンプソンと共に暮らすようになってからも、殆どを豪華な邸宅で過ごしたはずだ。


「そ、その……」


「彼女となら、どんな家で暮らしても幸せな人生が送れる……そう思っていますよ。私達の間には、強い愛情がありますから」


 困り顔の婚約者を放置するようでは男が(すた)る。そこで俺は、敢えて大袈裟な表現で割り込んだ。

 王太子が面白がって俺に矛先を向けても良し、(あき)れ果てて追及する気が失せても良し。どちらにしても後は俺が引き受けると示したのだ。


「秀人様……」


 思わずだろうが、智子さんが感動の滲む声を漏らす。それに偽名を使うのも忘れてしまったようだ。

 俺の頬も熱くなるが、本気と示すために王太子から視線を外さない。


「ちくしょう、俺も早く運命の人に会いたいぜ! しかし無いものねだりをしても仕方ないな……。さあ、冷めないうちに食べてしまおう!」


「はい!」


 おどけた仕草で手を上げて叫ぶ王太子に、俺を含めた皆が和す。

 しかし先々を思い浮かべてしまった俺は、笑顔と明るい声を作るのに苦労した。運命の人を得た代わりに王位を捨てる……彼の望むものは大きな代償を必要とするのだ。

 出来れば助言したいが、本来の歴史のように退位後ドイツに情報を流す事態は阻止したい。日本が四国同盟を維持し続けたら、ドイツは敵国となるはずだから。


「このオムライス、本当に美味しいですね」


 憂いを俺は料理で押し流す。まだ時間があるという思いと共に。

 そして悩みを振り切った俺は、今度こそ和気(わき)藹々(あいあい)とした会話の中に飛び込んでいった。


 お読みいただき、ありがとうございます。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ