14 ア式蹴球全国優勝競技会(1922)
関東大震災まで一年半を切った1922年4月。俺、中浦秀人が力を入れていたことの一つがラジオ放送の開始だった。
震災とラジオ……そう、災害時の情報提供と流言飛語の抑制だ。
日本初の正式放送は約一年半後の1925年3月22日だから、大震災が起きた1923年9月1日の時点でラジオから情報を入手できるはずもない。そして正しい情報が提供されなかったことこそ、各種のデマが広がり続けた理由の一つである。
ただしワシントン会議の時点でアメリカが本格的なラジオ放送を実施していたように、1922年時点でも技術的には可能で日本に導入されていなかったにすぎない。そこで一年半ほどラジオ放送を前倒しすれば事後の騒動の多くが防げると、俺はアメリカで受信機を含む無線関連の品を入手した。
日本でも正式な開局の前に試験放送はあり、1924年には大阪朝日新聞が皇太子御成婚奉祝式典を報じるなど準備は進められていた。皇太子殿下、つまり後の昭和天皇が妃を迎えたのは1924年1月26日だから、定常的な放送でなければ大震災の四ヶ月少々後に行われていたわけだ。
もちろん放送しても受信機がなければ意味がない。やはり1924年には『無線と実験』という技術啓蒙を目的とした月刊誌が刊行され、受信機の紹介と合わせて製作記事も掲載していた。
このような下地があったから、本来の歴史だと1925年3月の正式放送開始時点で五千人前後の聴取者がおり、半年後には七万五千人を超えたという。
つまり技術力もあれば人々の関心もあり、政府が更なる後押しをすれば一年半の前倒しも決して不可能ではない。ここまで条件が整っているのに、ラジオを使わない手はないだろう。
まず東京に本局を置き、更に震災の影響が少ない北関東にも大出力の支局を作る。もし本局が壊滅状態や長期停電でも軍用無線で支局に情報を届けて放送してもらうし、全国の主要都市にも大規模な支局を置いて同じく混乱を抑えつつ関東への支援を呼びかける。
俺が知っている歴史でも1928年までには全国的な放送網が整備され、感度の悪い鉱石ラジオでも殆どの地域で聞き取れたそうだ。この鉱石ラジオは電源不要だから、避難所に配れば被災者達の不安も幾らかは薄れるだろうし、防災用として意識付けしておけば避難の際に携帯する人もいるに違いない。
これらの構想は居候している閑院宮家の当主載仁親王に伝え、摂政宮たる皇太子裕仁親王の耳にも入れていただいた。それに共にワシントン会議を乗り切った加藤海軍大臣や徳川公爵とも早期開局への施策を帰国の合間に語らい、後の支援も頼んでいる。
全権団の残る面々もラジオ放送の意義を折に触れて語ってくれたし、同行した報道機関の記者達も自社事業に影響すると強い関心を抱いた。
そのため俺のすることは早くも4月頭になくなったし、震災までに一定の放送網が整いそうだと安堵していた。とはいえ極めて重要なプロジェクトだけに、俺も出来る範囲で側面支援をする。
それは4月23日に開催されるア式蹴球全国優勝競技会の中継だ。
俺は洋行中に親しくなった記者に、新聞社がスポンサーになる代わりに試験放送で独占中継をしてはと持ちかけた。この時点で聞き手は殆どいないだろうが、試験でも日本初のスポーツ中継という栄誉が手に入ると強調したのだ。
おそらく電波が届くのは東京市内のみ、無線受信機を入手できる好事家でも余裕があれば直接観戦に来ると思う。しかし接客業なら集客用として店内で聴かせるなど、商業面で使い道を見出す者もいるはずだ。
幸い新聞社も自紙を置く店が増えたらと、結構な乗り気で応じた。このころは新聞や雑誌の閲覧を売りにした喫茶店が多く、それらのオーナーは重要な顧客であり店は良い宣伝の場でもあるのだ。
そこで新聞社は競技会の半月ほど前に『欧米の最新技術と文化の粋、ラジオを体験しよう』といった意味の広告を出した。そこには試験放送の時間帯のみならず合わせるべき周波数も記し、更に輸入した受信機の販売店の名と住所も載せている。
ワシントン会議で支援をしてくれた渋沢栄一に向こうで話を持ちかけたら、面白いと早速手配してくれたんだ。もちろん高くて庶民には買えないが、鉱石ラジオの組み立てキットも一応は揃えたという力の入れようである。
しかも渋沢翁は早期に普及させようと、客寄せの景品に受信機そのものを加えた。当然これも新聞に載せたから、少なくとも話の種にはなってくれるだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
4月23日、つまりア式蹴球全国優勝競技会の当日。場所は東京市麹町区の日比谷公園グラウンド。晴れやかな空の下、観客席は完全に埋まっている。
しかも脇の仮設テントの側には既にアンテナ用の柱も立てられ、発信の試験も始まっていた。
これには選手達も驚いたようで、彼らはグラウンドでアップしながら横目で興味深げに眺めている。詰め掛けた客はともかく送信装置やアンテナ線を調整する技術者達など、彼らは初めて目にするのだろう。
もっとも俺の視線は、それらに向いていなかった。
「……楽しみにしていたが、これは少々行きすぎだよ」
「摂政宮の台覧……事実上の天覧試合に加え、英国王太子の臨席ですよ? このくらい押しかけるのが普通では?」
ぼやく俺に、セバスチャンこと隠密の瀬場須知雄が白々しい顔で返す。会場に集まった顔ぶれ……その一部は、俺の予想以上に錚々たるものだった。
俺は将来の天皇杯のような権威ある大会にしようと、皇太子殿下御来臨を実現すべく働きかけた。これはセバスチャンが触れたエドワード王太子の観戦もあり、ほぼ反対もなく現実となる。
イギリスは同盟国日本への友好の証として、将来のサッカー全国大会で優勝カップに使ってほしいとFA杯を贈ってくれた。これは時期的にエドワード王太子の訪日を意識していたのは明らかで、俺は期待に応えるべく開催日程を王太子の滞在中にした。
したがって自動的に皇太子殿下の台覧となったわけだ。
そのため日本は閑院宮載仁親王や宮内省の歴々、そして大日本蹴球協会から名誉会長の徳川公爵を始め主要人物が並ぶ。同様にイギリスも王太子の随員に加え、駐日大使のチャールズ・エリオットさんや補佐官のウィリアム・ヘーグさんが侍る。
しかしアメリカやフランスの駐日大使まで来るとは……。彼らも四国同盟の一員だから友邦には違いないがエリオットさんやヘーグさんのように腹を割ってはいないし、それでいて俺の正体を察しているから面倒なのだ。
「まあ、今後は随員として控えることも増えるから……」
「そうですね。同盟国の間では半ば公然の秘密と化していますし、仲間となった彼らに謎の予言者に接するという特典を与えるべきでしょう」
覚悟を決めて歩む俺に、セバスチャンは更に声を落としつつ囁きかける。
グラウンド脇に設けた観客席の中央、つまり貴賓席は既に殿下達を待つばかりとなっていた。英米仏の三大使や彼らの補佐官は揃い、日本も宮内省の役人などの顔がある。
ちなみに載仁親王と徳川公爵は皇太子殿下、同じくマウントバッテン卿もエドワード王太子に随伴しての入場である。まさか殿下達の後とはいかないから、ここらで合流しておくべきだ。
「遅くなりました」
俺は大使達、特に会ったことが少ない米仏の二人を意識しつつ声をかけた。すると彼らも席から立ち上がり、エリオットさんやヘーグさんと共に俺達へと向き直る。
「まだプリンス達の到着には充分時間がありますよ。……およそ五分三十秒ですね」
太目のアメリカ人は僅かに頬を緩めると、懐中時計を取り出して盤面を眺めた。
彼は駐日アメリカ大使のチャールズ・ビーチャー・ウォーレン、実はワシントン会議の対策要員として日本に送り込まれたという逸材だ。それが会議後も日本に残ったのは、同盟国としての重視からだろう。
ウォーレンが信任状を捧呈したのは昨年9月24日、会議で渡米した俺達と殆ど入れ違いで日本に来た。そのため初対面に近く、しかも彼は既に五十二歳と俺より三十歳も年長だから気軽に語りかけるわけにもいくまい。
随分と恰幅が良いが、実は陸軍中佐の経歴を持っている。もっとも第一次世界大戦中は法務総監部だったから前線向きではないと思われる。
残念ながら俺が未来で学んだ知識に、彼の将来は含まれていない。おそらく今後数年は頻繁に顔を会わせるだろうが、その中で人物像を探っていくことになる。
「さよう、それに中浦殿は準備でお忙しかったでしょうから」
こちらは標準的な体型のフランス人、ウォーレンと同年輩の男性だ。彼がフランスの駐日大使ポール・クローデルである。
ウォーレンと違い、俺はクローデルに関して多くの事柄を知っていた。もっとも有名な劇作家や詩人として『二十世紀前半におけるフランス文学の最も重要な存在の一人』と称された偉人だから、近代史を学べば自然と記憶するだろう。
そのような有名人をタイムスリップした時点の俺が頼らなかったのは、まだクローデルが日本にいなかったからだ。彼の来日は1921年11月19日、つまりワシントン会議の最中である。
クローデルは歴史通りなら、そこから1927年2月までを駐日大使として過ごす。その間も戯曲や詩に加えて評論や紀行文などを残し、更に彼が故国に送った外交文書は遥か後に出版もされた。
この外交官書簡集を俺は二十一世紀にいたころ読んでいた。文学者であり大使でもあった第一級の知識人が近代日本について記した貴重な文書だし、フランス人に日英関係がどう映ったかも興味があったからだ。
「そう言っていただけると助かります」
俺は軽く会釈しつつも、気を引き締める。
情報が少ない相手は要注意だが、知りすぎても心が曇って判断を誤る。これはセバスチャンの評だが、その通りだと俺も思う。
失礼な言い方だが普通の軍人で外交官のウォーレンと違い、資料が多く文化人としても著名なクローデルは自然と高評価になってしまう。しかし他人が纏めた文書ではなく、自身の目で見極めねば真の理解には辿り着けない。
◆ ◆ ◆ ◆
殿下達を待つ間、大使達が話題に挙げたのはラジオの試験放送だった。
中継の機材やアンテナを見れば何をするつもりか一目瞭然、それに情報収集を仕事とする彼らが新聞に広告を出したのを知らぬはずもない。
ただし大震災に関しては国内でも極秘としているから、俺とセバスチャンはアメリカのラジオ放送に感銘を受けたからという表向きの理由のみで応じた。
この面白みのない答えに米仏の大使は更なる追及をせず、礼儀正しい笑みと首肯に留めてくれた。彼らも日本が放送局準備を急ぐだけの何かがあると感じただろうが、謎の予言者の機嫌を損ねてはと見守ることにしたようだ。
現在、中華民国の分割は粛々と進められている。そして四国同盟の構成国は全て大きな利益を得る予定だが、これは相手が謎の予言者に怯んでくれたのが大きい。
つまり金の卵を産む鶏を絞めてはならない。鶏を飼うのが日本でも、卵を分けてもらえる間は祭り上げておけば良い。これがイギリスも含めた三国の見解だろう。
それに日本が欧米に追いつけ追い越せと国家的な取り組みを続けているのは誰の目にも明らかだ。
特に軍事関連や応用可能なものは顕著で、日本は第一次世界大戦で登場した戦車も早速1918年に買い求め、翌年には陸軍科学研究所まで創設して開発の準備を進めた。
戦車無用論が出たりフランスの傑作機『ルノーFT-17軽戦車』の大量輸入が計画されたりと、国産戦車誕生までには幾つかの紆余曲折もあった。しかし国産化の熱意は消えず1927年に試製1号戦車、二年後に八九式軽戦車が生まれる。
ちなみに『戦車』という言葉だが俺がタイムスリップして現れた1920年時点では存在せず、『タンク』や『装甲車』と呼んでいた。最近になって戦車と呼称が定まったというが、うっかり俺が漏らした言葉が発端らしくもある。
もしそうなら非常に地味なタイムパラドックスが生じたことになるが、真実は定かではない。
ただし大使達、そして連れ立って入場した両殿下および側近達の関心は、戦車でもラジオでも俺が胸の内に留めたタイムパラドックスでもない。一般の観客も含め、全員がグラウンドの妙技に釘付けになっていた。
「今の名古屋蹴球団の技、何だ!?」
「あれが鋏だぜ! 覚えておきな!」
「広島高師が奪ったぞ!」
「ああ! ……おっ、護謨戻しだな!」
江戸っ子達が応援するのは、名古屋と広島の代表だ。
元の歴史でも第一回から第四回までは東部、中部、近畿・四国、中国・九州の四地区に分けていた。そして最初のうち中部は名古屋、中国・九州は広島が強かったらしい。
両地域は二十一世紀でも名の通ったチームがあるから俺としても違和感はないが、『鋏』だの『護謨戻し』だのいう技名には命名者なのに今でも笑いを堪えるのに苦労する。
そう、これらは後に誕生するはずの技術だ。『鋏』がシザーズ、『護謨戻し』がエラシコである。
『鋏』はそのままだから悩まなかったが、エラシコの和名は少々困った。エラシコは正しく発音するとエラッスチコ、つまりポルトガル語での『輪ゴム』なのだ。
一瞬アウトサイドに弾いたボールが足元に引っ付くようにインサイドに戻ってくるから『輪ゴム』と名付けたのは分かるし、日本にも既に輪ゴムはあるから直訳でも構わない。しかし輪ゴムはサッカーの試合にそぐわない気がして、少しだけ変えた。
これらを俺は昨年早くから教えたが、実際に試合に使えるまで上達したのは今年に入ってだという。しかし昨日も準決勝の二試合が行われたから、二日続けての観戦者は曲芸めいた球運びの名称を知っていたのだ。
「あれらも君が教えたのだね?」
エドワード王太子はグラウンドに目を向けたまま言葉を発した。
落ち着いた口調からは、『鋏』と『護謨戻し』が未来の技と確信したのが明らかだ。どちらも第二次世界大戦後、しかもシザーズが有名になったのは二十一世紀も近くなってだから大正時代のサッカーを熟知する者なら一目瞭然ではあるが。
「はい。ですが開発者については内密にお願いします」
俺の返答を聞き、側に控えていた今村次吉さんと深尾隆太郎さんが僅かに表情を動かした。双方とも、この偽装には関わっているからだ。
今村さんは大日本蹴球協会の初代会長であり、未来の技やトレーニング法の伝授には深く関与している。これらの技を編み出した人物も、表向きは彼の母校である東京高等師範学校の教師ということにしたのだ。
同じく協会要人の深尾さんは大阪府の生まれで、関西方面の技術指導には彼の伝手を用いた。彼の働きがなかったら、名古屋蹴球団や広島高等師範学校は決勝に残れなかっただろう。
俺がワシントン会議や大震災の対策で動いている間にも、二人を始めとする多くの人々の力で日本サッカー界は大きく成長しているのだ。
「そうか……素晴らしいことだな。クローデル殿も、そう思わないか?」
大きく頷いた王太子は、隣国人へと顔を向けた。
四つの国のうち、イギリスと並ぶサッカー大国はフランスのみだ。アメリカはサッカーより野球だし、日本はイギリスから教わる立場だったから。
つまり王太子からすれば、対等にサッカーを語れる相手はフランスだけという認識だったはずだ。俺が未来の技を広めたと知るまでは。
「仰せの通りでございます。これは本国にも早速伝えねば……」
クローデル大使は深い一礼をし、続いてチラリと俺に視線を動かした。彼がサッカーに詳しいと聞いたことはないが、それでも目にした技が革新的な代物だと理解したのだろう。
「中浦よ。これは強敵が出現しそうだな」
「御意。しかし正々堂々の闘いを制してこそ、我が国の名が高まるでしょう」
皇太子殿下のお言葉に、俺は卑怯な戦いなど日本男子にそぐわないと応じた。殿下は穏やかな笑みを浮かべており、決して言葉通りの意味ではないと感じたからだ。
◆ ◆ ◆ ◆
未来の技をワールドカップまで秘匿して優勝する。俺も一度は考えたが、すぐに捨てた。
まず卑怯に過ぎるというのが一つ。命を懸けての戦争ならともかくスポーツにそぐわないこと甚だしいし、ここまで謎の予言者に注目が集まれば今回のように誰もが俺の入れ知恵だと察するからデメリットも大きい。
それに現実問題として、実戦に使わないまま高いレベルまで磨けると思えない。代表選手のみに伝授するなど非現実的だし、ある程度に教えたら漏洩は時間の問題である。
そして最大の理由は『それでは面白くない』ということだ。これは俺の好みではなく、もっと広く長い目で眺めての話だ。
そして自身の考えを語り終えた俺は、やはり間違っていなかったと笑みを浮かべた。
「あ、あれは!?」
「くるっと回って躱したぞ!」
「あんな粋な技があるのかよ!」
「いいか、あれが東京大回転だ! 忘れるんじゃねえぞ!」
観客達が目にしたのは、本来ならマルセイユ・ルーレットと呼ばれる技だ。
まず利き足でボールを引いて同時に体を回転、更に逆足にボールが近づくと今度は利き足を軸にする。そして浮いた逆足でボールをコントロールしつつ回転を続け、進行方向へと向き直る。
ボールを守るように背を向けるから、相手はファウルを恐れて手を出しにくい。しかもボールコントロールは足裏の他にインステップなどバリエーションがあり、優れた使い手だと初動を見抜くことすら難しい。
まさにサッカーの芸術、ファンタジスタやマエストロと呼ぶに相応しい名手が生み出す感動と興奮の源泉である。
もちろん後の世界的名選手と違い、今の技は強引さが目立つし動きも鈍い。しかし俺以外からすれば初見の超絶美技だから、競技場は揺れんばかりに沸いている。
「なるほど……確かに広めた方が競技全体のためか」
「はい。ア式蹴球を人気競技に育てるには、華となる妙技が必要です。日本は野球好きが多いので……」
納得顔のエドワード王太子に、俺は僅かに遠慮しつつ答える。イギリスではサッカーが大人気だから、このあたりは実感しにくいと思ったのだ。
しかし王太子を始め居並ぶ人々には理解してもらえたらしく、それぞれ首肯などで同意を示してくれる。
スポーツといっても観客からすれば興行だから、見せ場がなければ詰まらない。それも出来れば初心者でも簡単に分かり、かつ大きな動きを伴うものが良い。
サッカーにもロングシュートやスーパーセーブといった分かりやすい美技もあるが、中盤での駆け引きは工夫なしだと単なるぶつかり合いと化してしまう。そしてサッカーは野球に比べると一試合あたりの得点が少なく、ゴールだけに目を向けては魅力の半分も味わえない。
それに日本人の場合、剣術のような持ち技があると受けやすいと思う。マルセイユ・ルーレットは元の名の趣きを残すべく地名と回転の組み合わせを選んだが、俺も『何とか返し』など武術めいた名も良いのではと惹かれはした。
そこまで詳しく触れはしなかったが、王太子は俺の言いたかったことを充分に受け取ってくれたようだ。しかし、それが俺に新たな悩みを齎すことになる。
「やはり君に頼もう。……私が東京にいる間に、お忍びでどこかに案内してくれないか? 平和記念東京博覧会でも良い……五日前に行ったが全く自由がなくてね」
「中浦、近く博覧会に出かけると聞いたぞ」
王太子に助け舟をと思ったのか、なんと皇太子殿下が言葉を添えた。
二人の側では、閑院宮載仁親王が済まないと言いたげな顔をしている。他に伝わる経路はないから載仁親王だとは思っていたが、やはり彼からだったのだ。
載仁親王は名を変えて降嫁する智子さんを大層可愛がっているから、何かの折に娘の話題でも出したのだろう。しかし王太子殿下の案内をしたらデートどころではないという意識もあるらしい。
「これは大変な栄誉ですな!」
「ええ。あのように素晴らしい博覧会を駆け足で済ますなど、王太子殿下も心残りでしょうから」
アメリカのウォーレン大使の言葉は、失礼だが型通りとしか聞こえなかった。しかし続くフランスのクローデル大使の一言に、俺は表情を改める。
二十一世紀で読んだ外交書簡だと、クローデル大使は平和記念東京博覧会を酷評していたからだ。
クローデル大使は日本古来の美術や技術に理解を示したものの、欧米に倣った部分は劣化も激しい模倣だと切り捨てた。それを知っている俺は、欧米関連から猿真似を廃して本物を展示するか日本人でも向こうで充分な評価を得た者を中心にするよう載仁親王に進言した。
大使がフランスに送った書簡には、載仁親王が博覧会の開会宣言をし更に彼を含む大使達の案内もしたと書いてあった。そのため親王には充分な影響力があると思ったのだ。
どうやら俺が事前に打った手は、一定の効果を示したらしい。
これも元の歴史で綴られた書簡からだが、クローデル大使は初日以外に十日も経たないうちに博覧会を再訪している。そして酷評は再訪の結果を踏まえたもので、決して一瞥で見所なしと断じたのではない。
そういう人物が褒めるのだから、お世辞以外の何かもあると俺は受け取ったのだ。
「分かりました。それでは私達がご案内します」
さりげなくだが、俺はパートナーがいると示した。
エドワード王太子の同行は、何とかして智子さんに許してもらう。駄目なら俺達も二度三度と巡れば良いだけだ。
それにクローデル大使が褒めてくれた部分を、同じ欧州人の王太子から探るのも良いのでは。そう俺は感じてもいた。
俺が前向きな言葉を口にしたからだろう、載仁親王も愁眉を開く。それに殿下達も、これで一つ片付いたと思ったのか顔を綻ばせた。
そして俺達の問答が終わるのを待っていたかのように、左右の観客席から再び歓声が響く。名古屋蹴球団のフォワードがシュートを決め、その直後に試合が終わったのだ。
青空に響き渡る大歓呼は、これからの日本サッカー界を祝福しているようだった。そして日本が新たに得た友人達の微笑みも。そのためだろう、勝者を称えるべく拍手をする俺の手にも自然と力が入っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。




