12 ワシントン会議終幕(1922)
大正十一年如月六日、つまり1922年2月6日。俺、中浦秀人はワシントン市のコンチネンタル・メモリアル・ホールにいた。
この日、三ヶ月近く続いたワシントン会議は終わりを迎える。ついに残る二つの条約も調印に漕ぎつけたのだ。
今、俺は日本全権団の一員として閉会式に臨んでいる。
ただし表向きの立場は随員だから、俺やセバスチャンこと瀬場須知雄は単に並んでいるだけだ。あくまで他大勢として粛々と進行していく様を見守るのみである。
「十カ国条約も予定通り、これで国内も満足でしょう」
「色々と土産もあるからな」
囁くセバスチャンに、俺も同じくらいの小声で応じる。
周囲は日本人ばかりだが、これからのこともある。時間が経てば彼らから周りへ、そして先々は外国に漏れるだろうと用心したのだ。
本来の歴史だと九カ国条約と呼ばれた取り決めは、英米の方針転換とロシア共和国の参加で全く違う内容となった。
九カ国条約では、中華民国の権益保護を建て前に日本の大陸進出を阻もうとした。しかし今回結ばれた十カ国条約は、諸民族の自治自立を支えるという名目で各国の既得権益維持や更なる拡大が推進される。
モンゴル、チベット、ウイグル、満州などは列強の後ろ盾で中華民国から離れ、同じく南の諸民族も独立への道を歩む。
元々アメリカが主張していた門戸開放や主権尊重は、出遅れた自分達にも甘い汁を吸わせろというものだった。したがって中華民国の解体で更に多くの利益が得られるなら、彼らは簡単に手の平を返す。
アメリカはフィリピンを植民地とし、そちらでは門戸開放や主権尊重をしていない。なのに海を挟んだ西で正義の味方面するのは下心があってのことだ。
もっとも今回は日本も充分な利を得ており、人のことは言えない。
十カ国条約で日本に関係ある部分は、遼東半島と満州だ。日本は山東半島権益の代わりに遼東半島全体を得て、更にアメリカと共に満州民族を支援する。
このころ日本は旅順などを含む遼東半島の先端部を租借地としていたが、今回の拡大で朝鮮半島と完全に接する。そのため陸軍を中心に山東半島権益放棄でも釣り合うと歓迎する者が多い。
満州は日本人が総督になるが、その下の高官は半数近くをアメリカ人とする。要するに共同管理だが、日本だけだと結局アメリカが文句を言い出して日米戦争の発端となりかねない。
そこでアメリカも利益を得る側とし、かすがいとしたわけだ。
「アメリカはイギリスやフランスと共に南を押さえましたね。やはり、あれが効いたのでしょう」
「南シナ海か……」
皮肉げな笑みを浮かべるセバスチャンに、俺は応じつつも口を濁す。
俺はアメリカ側を、将来中国が巨大な敵に育つと脅した。それも対立鮮明化が二十一世紀というのは伏せ、逆に早い時期に問題が表面化するような言い方でだ。
貴方達が味方をしても、相手は恩知らずにも共産圏となって牙をむく。それどころかフィリピンの至近まで自国の領海と言い張り、西太平洋の制海権を握ろうとする。
つまりアメリカは東アジアから各国を追い払った結果、巨大な敵を育ててしまう。九カ国条約で列強を制しても、調印しなかったロシアが好き放題に共産圏を広げていく。
将来の敵国を養い、子孫に血みどろの戦いをさせたいのか。
こう言われてはアメリカも日本を叩きすぎる愚を悟らざるを得ない。
ロシア・中国による巨大共産圏は、日本など比較にならない難敵になる。ならば今のうちに中華民国から領土を奪い、それらを自由圏に組み込む。
そうすれば最悪でも新たに出来た国で食い止められるし、上手く統治すれば純粋な自由圏に出来るだろう。つまり第二次世界大戦後にベトナムなどで起きた戦いを、一つ手前で留めるのだ。
「ええ。イギリスやフランスも関係していますし」
セバスチャンが触れた関係とは、単に両国が周辺に植民地を持っていることではない。
イギリスは第一次世界大戦の借金を返済するために大陸利権が必要、それに単独でアメリカを制すのは難しいが、日本と共に同盟国として内部から発言力を増したかった。結果的にはフランスも加わったが、それは望ましいことでもある。
日英米仏の四国同盟ではアメリカの国力が飛び抜けているが、三つの国が共同戦線を張ればアメリカも無茶を言いにくい。それどころか立ち回り方次第では、小国の一つがキャスティングボードを握ることも充分に可能だ。
要するにイギリスやフランスは債権国アメリカへの対抗手段を作りたかった。軍拡競争を中断する口実も欲しかったが、対アメリカ同盟を組むのが不可能なら引きずり込んでやれというわけだ。
まさか同盟国に襲いかかるわけにいかないし、将来の敵は太平洋ではなく大陸にいるから尚更だ。
「後は共産主義をどこまで押さえ込めるかだな」
俺は更に声を落とす。
どのような主義を掲げようが、平和的な集団なら問題視する気はない。しかし共産主義の元締めロシア共和国は、革命から今年末のソビエト連邦成立までに五百万人から一千万人とも言われる死者を出した。
ちなみに1920年前後のロシアの人口は一億五千万人ほど、つまり最低でも三十人に一人は革命の犠牲になったわけだ。
このような危険な国が思想を植えつけた集団など、野放しに出来るわけがない。
今回は対中華民国の一環で参加を求めたが、あくまで利害一致の結果である。俺達はアメリカの敵意を逸らしたかったし、ロシアは国際社会での地位向上を望んでいただけだ。
なおロシアだが、この時点では先々中華民国が強力な仲間になると思っていなかったらしい。
もちろん共産主義化を狙ってはいるが、まだモンゴルなども完全に掌握していないし中華民国は軍閥割拠の時代である。そこでロシアはモンゴルやウイグルへの影響力強化と周辺の奪取を狙ったわけだ。
◆ ◆ ◆ ◆
四カ国条約は四国同盟となり、九カ国条約は十カ国条約となった。ではワシントン海軍軍備制限条約はというと、そのままだ。
これは軍縮をしないと各国の財政が破綻するからで、他がどのような結論でも変わるわけがない。
主力艦保有比率は同じで日本は対英米比6割、残るフランスとイタリアの比も俺が学んだ歴史通りだ。ただし細かいところでは幾つかの違いがある。
まず日本は比率に同意する代わり、委任統治領南洋諸島以外の軍事施設強化を認めさせた。俺達は島国日本が島嶼部を防衛するのは当然というスタンスで押し通したのだ。
この中には樺太島や台湾も入っているが、これは同盟が成立しなければ不可能だったに違いない。
次に艦船の大きさや砲の口径などに加え、爆弾の重さも制限して一発あたり2トンまでとした。
これは将来の原爆を見据えたもので、今の時点では殆ど制限とならない。なぜなら第二次世界大戦時のカール自走臼砲の重ベトン弾でも2トン程度、戦艦大和の九一式徹甲弾は1.5トンほど、昭和十年ごろの爆撃機だと搭載できる爆弾は1トン程度だったからだ。
これに対し長崎に落とされたファットマンは4.6トンを超え、広島のリトルボーイは約5トンだ。同規模の威力で2トン以下にするには更に時間がかかるはずで、一定の枷になるだろう。
とはいえ空からの攻撃が主流になるのは間違いない。何しろ『制空』という論文が発表済みで、欧米の一部では実戦にも空爆を取り入れているからだ。
この『制空』はイタリア軍人で軍事学者のジュリオ・ドゥーエが昨年発表した著作で、大規模爆撃の重要性を説いた革新的な戦略理論だ。具体的には、無差別爆撃で民間人も含めて敵国の物心両面を折るべきとしている。
しかも『制空』では、都市などの人口密集地への高性能爆弾や焼夷弾、毒ガスなどの投下を有効な手段として挙げている。随分と酷い話だが、長々と戦争を続けるより人道的だとドゥーエは記したのだ。
「やはり戦艦よりも空母……ですな」
加藤友三郎海軍大臣の言葉は、なんとなく自身を納得させているように聞こえた。
加藤海軍大臣は生粋の軍艦乗りで、日清戦争では砲術長を務めたほどだ。それだけに理屈は分かっていても、後輩の大砲撃ち達が航空機の運び屋に転ずるのは寂しいのだろう。
ここは在米日本大使館、閉幕式は随分と前に終わり内々で祝杯を挙げているところだ。そのため加藤海軍大臣も、思わず心の内を漏らしてしまったようだ。
俺達は昨年の早い段階からワシントン会議に向けて準備を進めたし、俺は先々どのように軍事技術が変わっていくかにも触れた。そのため時代は大艦巨砲主義から航空機主兵論へと移っていくと、加藤海軍大臣も承知している。
そして会議が閉幕すれば、将来に思いを馳せるのは当然だ。新たな時代へと舵を切ったが、進んでいくのはこれからなのだから。
おそらく加藤海軍大臣は、攻め寄せる無数の爆撃機をどう防ぐか思い浮かべているのだろう。本来の歴史では二十数年後に起きた、無尽蔵と思えるほどの航空力との戦いを。
「はい。そして島々の飛行場を整備して防御体制を整え、近い将来に空軍を」
「しかし現体制では空軍大臣が必要。これを避けるには、全軍を束ねるのが先というわけですか」
俺の後を引き継いだのは、公爵の徳川家達だ。
加藤海軍大臣と同じく、公爵も早くからワシントン会議の対策要員に名を連ねた。そのため彼は、今のように陸海軍が張り合うようでは空軍設立など無理だと実感したようだ。
イギリスは1918年に空軍を創設したが、元の歴史だと日本は独立した空軍を持たないまま第二次世界大戦を終える。そのため日本の航空力は陸海軍それぞれの道具でしかなく、大局的な航空戦略など育つわけもない。
こうなった理由だが、やはり陸軍と海軍の勢力争いが大きい。そこで俺は三軍を統率する体制の確立が重要だと説いた。
しかし大日本帝国憲法の第十一条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあるが空軍の規定はなく、厳密に言えば憲法改正が必要だった。
統帥権干犯問題を含め、軍の暴走を防ぐには憲法に手を入れるしかない。ただし非常に難しい問題であり大勢の前で語るわけにはいかないから、ここには限られた者しかいない。
「駐米大使だから肩を持つわけではありませんが、アメリカの制度は良く出来ていますよ」
「隠密達も同じ意見です。大統領が総司令、その下の国防長官が実務を担う。ここまでが文民で、その下に各軍の長が並ぶ……指揮権の統一は何にも増して肝要です」
残る二人、幣原喜重郎とセバスチャンがアメリカの事例を挙げる。このアメリカのような形、つまり文民統制が俺達の目指すところだ。
大日本帝国憲法だと軍権を握るのは天皇としているが、一方で議会制内閣を置いた立憲君主制でもある。そのため大正天皇以降の養育係は、内閣が決めたことに異を唱えないのを良しとした。
この曖昧さが軍の専横を許すことになったが、もう一つ大きな原因がある。
「せめて大隈公や山縣公が存命であれば……。殿下も摂政宮となられたばかりだというのに……」
加藤海軍大臣の呟きに、俺は答える言葉がなかった。
先月10日に大隈重信、今月1日に山縣有朋。相次いで二人の元勲が没した。
どちらも八十三歳だから大往生だが、やはり彼らのような大物が消えた影響は大きい。
後の昭和天皇、皇太子裕仁親王が摂政に就任してから二ヶ月少々だ。しかも今年の四月で二十一歳という若さ、加藤海軍大臣が案ずるのも当然である。
「居れば居たで幅を利かせただろうが、大帝の定めた憲法だからと愚か者が金科玉条にするのも悩ましい……頭が痛いですなぁ」
やはり徳川家の末裔としては思うところがあるのだろう、公爵の声音には複雑な思いが滲んでいた。
佐賀藩士だった大隈重信はともかく、山縣有朋は長州藩士で高杉晋作と共に活躍した。そのため徳川公爵が後者を嫌っても無理はない。
ただし山縣は『元老中の元老』と称された一方で『日本軍閥の祖』とも呼ばれ、今回の件に差し障った可能性も大きい。
晩年の山縣有朋は新時代に対応できず不人気で、葬儀の際も人が少なかったという。
一ヶ月前の大隈重信の国葬が『国民葬』と呼ばれるほど多くの人が集ったのに対し、同じ国葬でも山縣は東京日日新聞が『民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ』と報じたそうだ。
したがって少なくとも徳川公爵の言葉の片方は事実で、先ほど元勲達を懐かしんだ加藤海軍大臣ですら反論しなかった。
「お二人の言葉を持ち出す輩も出ますからね。もし御存命であれば、説得して担げたかもしれませんが……」
幣原大使の言葉は、少々皮肉げだった。彼は大阪の豪農の出身で、徳川家や薩長と関係ないからだろう。
加藤海軍大臣や徳川公爵と違って幣原大使は維新後の生まれ、しかも東京帝国大学の卒業後は外務官僚として順調な出世を重ねてきた。したがって彼からすれば、藩閥政治など旧弊の最たるものに違いない。
「……私としては帰国後の皆さんの活躍を祈るばかりですよ。これで外は当面大丈夫、後は明治にやり残したことを片付けたいものです」
「お任せください。まずは来年の秋に向けてですが、先々の布石としても充分に活かします」
幣原大使の期待の篭もった視線に、俺は大きく頷き返す。
来年の秋とは関東大震災のことだ。この未曾有の危機を乗り切るべく準備を進めているが、最後の詰めを誤っては意味がない。
そして震災の被害減少を、俺達は新たな時代に必要不可欠なものとしていた。大正から昭和に至る中での混乱を小さくし、それどころか新時代への転換点になるはずだから。
◆ ◆ ◆ ◆
こうしてワシントン会議を成功裏に終えた日本全権団だが、帰国までは少々時間が必要だった。
もっとも長いと思ったのは俺だけかもしれない。何しろ東京ワシントン間を片道一日以内で移動した経験の持ち主など、俺しかいないのだから。
せっかく首都ワシントンまで来たのだから、会議後も多少の懇親や視察くらいある。そして行きと同じく船旅は二十日近く、俺達が横浜港に着いたのは会議の終了から一ヶ月と少し先の3月10日だった。
「長かったな……」
「ええ、特に中浦さんにとってはね。……ほら、あそこで貴方のプリンセスが手を振っていますよ」
俺をからかったのは、英国外交官のウィリアム・ヘーグさんだ。
ヘーグさんは会議期間中をイギリスとのパイプ役として奔走し、多忙な日々を過ごした。しかし長期かつ重要な役目から解き放たれ、帰りは随分と食が進んだらしい。
実際ヘーグさんは以前より太っており、服に余裕がない。
「およそ五ヶ月ぶりの帰国だから、長いのは間違いないですよ」
俺は照れを隠しつつ、少々太目の英国紳士に反論した。
今、俺達はデッキから横浜港の埠頭を眺めている。そして埠頭には大勢の出迎えが集い、その中には俺の婚約者である智子さんもいた。
もちろん智子さんだけで来るはずはなく、閑院宮家の使用人が周りを固めている。それどころか当主の載仁親王の姿まであった。
既に電信などで聞いてはいたが、国内もワシントン会議の結果を好意的に受け取ったそうだ。
英米仏と対等の同盟を結び、会議では樺太や台湾も日本領として扱われた。それに山東半島の代わりとはいえ日清戦争から遺恨のある遼東半島を得て、その北の満州にも宗主国として総督を送り込む。
これを大勝利と言わずして何と言うべきかと各新聞は持てはやし、海軍力が英米より下となったことも随分と扱いが小さくなったそうだ。逆に英米は大西洋もあるのだからと、六割で充分という意見が大半を占めているらしい。
これらはセバスチャンの仲間、つまり『天皇家の忍』が情報操作をした結果でもある。彼らは会議前から日本の世論を望む方向に持っていったのだ。
そのため埠頭にいる人は出発時よりも明らかに多いし、多くは手に持つ小旗を振ったり手製の横断幕を掲げたりとお祭りのような歓迎ぶりだ。
ただし今の俺にはすべきことがあると、促す者が現れる。
「お嬢様がお気付きになられました」
「ああ……」
セバスチャンの声に押され、俺も智子さんに手を振り返す。すると彼女は先ほどよりも頬を染め、ますます嬉しげに応えてくれる。
「これは初々しいですね!」
「ヘーグ殿も奥様と娘さん達がお迎えのようですよ?」
なぜか手を叩くヘーグさんに、セバスチャンが外国人のいる一角を指差した。
そこには横浜領事館のみならず東京の大使館から来た者達もいる。そして大使のエリオットさんの脇には、確かにヘーグさんの家族も並んでいた。
「私の妻などどうでも良いですよ。それより可愛らしいプリンセスと見事大役を果たしたナイトです!」
「そうですね。お二人にとっては一生の思い出になるでしょう」
ヘーグさんとセバスチャンの顔は、再び俺へと向く。どうも二人は、徹底的に俺で遊ぶつもりのようだ。
俺は無視しつつも、加藤海軍大臣や徳川公爵が側にいないことを感謝していた。
この二人は主役だから、続く高官達と共に少し離れた場所にいる。それに対し俺とセバスチャンは表向き単なる随員で、ヘーグさんはオブザーバーで使節団に所属していない。
そのため俺達は他大勢として好き勝手できるが、お陰で冷やかされ続けるなど予想の外だった。
ともかく無事に横浜へと帰り着き、俺達は日本の大地に降り立った。もちろん埠頭はコンクリート製だが、五ヶ月ぶりだから無機質な灰色の塊にすら故国を感じる。
優しく降り注ぐ三月の日差し、そよぐ風で運ばれてくる東京湾の潮の香り、全てが俺の生まれ育った場所だと教えてくれる。たとえ今が大正十一年で、俺が生まれる七十五年も前だとしても。
今回ほど長い期間を外国で過ごしたことはなかったから、自然と日本に対する意識が高まったのか。あるいは国難を乗り越えて祖国を守れたと思うからか。
感慨に浸っていたからだろう、帰還を祝う式典は俺の心を通りぬけてしまったらしい。そして代わって飛び込んできたのは、智子さんだった。
「秀人様、お帰りなさいませ……そして、上首尾おめでとうございます」
瞳を美しい輝きで煌めかせ、智子さんは俺を見上げる。
二十一世紀なら抱き合うところだが、今は大正時代で周囲には宮家の人々がいる。智子さんも駆け寄りはしたものの平成時代なら早足といった程度、手を伸ばすことすら躊躇ったままだ。
服も矢絣の御召に女袴のハイカラさんスタイル、女子学習院の制服で着飾ってはいない。それに髪をリボンで後ろに纏めて流しているのも、出国前に見たままだ。
まだ、華美な装いなど不謹慎と眉を顰められる時代なのだ。おそらくは新調の制服と初めて目にする卸し立てらしきリボンが、精一杯の御洒落に違いない。
「智子さんに良い報告が出来るようにと、それだけを考えて頑張りました。そうやって思い続けたからでしょう、以前に増して御美しく感じますよ。それに少し大人びたような……」
手くらい取ろうかと思ったが、父君の目の前だから止めておいた。
俺自身は構わないが、はしたないと智子さんが叱られたら可哀想だ。そこで、せめて言葉だけでもと思ったわけだ。
もっとも少々強調しすぎたようで、智子さんは真っ赤になって俯いてしまう。
「洋行で弁舌に磨きが掛かったか。頼もしくはあるが……」
「ご安心を。中浦様は稀に見る一途な御仁ですので」
立派な髭を捻りつつ評す親王に、澄まし顔で応じるセバスチャン。二人の言葉が耳に入ったのだろう、智子さんは身の置き所もないくらいだ。
「早く車に乗りましょう! 東京までは長いでしょうし!」
「そ、そうですね……」
慌てたせいだろう、俺は無意識に智子さんの肩に手を掛けてしまう。
単に車に急ごうとしただけで深い意味はないのだが、智子さんは耳の先まで朱に染めていた。とはいえ嫌ではないらしく、彼女は俺が誘うままに歩んでいく。
「……少しは進展したか。可愛い子には旅をさせろと言うが、婿殿にも当て嵌まるのだな」
「婿も義理の息子ですから」
この二人、いつまで冷やかし続けるのか。
少々憤慨した俺は顔を向けるが、意外なものを目にする。親王とセバスチャンは、今まで見たことがないほど優しい笑顔だった。
冗談めかしてはいるが、本心から案じていたのだ。もちろん殆どは智子さんに対してで、俺はオマケだろうけど。
「秀人殿、上野の博覧会にでも行ってきたらどうだ? 7月末まで開催しているから、少々ゆるりとした後で良いが」
載仁親王が触れた博覧会とは、この日から始まる上野公園の平和記念東京博覧会だ。
これは自由と平和を謳うと同時に各国の文化紹介もする博覧会で、日本が立派な文明国だと示すために計画された。
タイムスリップ前に大学の講義で聞いたが、戦前だと最大規模で延べ一千万人も訪れたという。アトラクション的な乗り物に各国の食べ物などもあれば最新の科学技術の紹介も多数あり、万国博覧会と呼ぶに相応しい規模と内容らしい。
「ありがとうございます。それでは智子さんの御都合の良い日に」
「は、はい!」
俺が感謝の言葉を口にすると、智子さんも思わずといった様子で続く。そのためだろう、親王は声を立てて笑い出し、セバスチャンを含め宮家の使用人達まで和していく。
「世界各国の文化を学び、平和な世を作りましょう」
「はい、私にも教えてください!」
俺は周囲を放っておき、智子さんに語りかける。
掴み取った協調と穏やかな時間を、本当の平和に繋げなくては。そして世界を知るには博覧会で様々なものを眺めて回るのも良い。もちろん俺達の未来を築くためにも有益に違いない。
きっと智子さんには伝わったのだろう。それに載仁親王やセバスチャン達にも。宮家の車に乗り込んだ後も、俺達は浮き立つような声で言葉を交わしていく。
外から降り注ぐ春の日差しと、車内の和気藹々とした空気。それらが醸し出す温かな空間は、矢のように東京へと向かっていく。
そして楽しい会話は途切れることなく、麹町区永田町の閑院宮邸に着いたとき俺は少々名残惜しいほどだった。
お読みいただき、ありがとうございます。




