父親
「こうすれば、簡単に落ちたんだな」
花粉の付いた制服を、薄手のタオルの角に除光液を含ませ軽くたたきながら、生前のある日の母さんが洗濯物を干していた場面を思い出した。
母さんは父さんのポロシャツを広げ、じっと見つめた。
「どうして、どうして落ちないのよ……どうしてよ」
ポロシャツを地面に叩き付け足でグイグイ踏み付けた。
何度も、何度も……。
玄関のドアがカチャリと開き、ただいまと父さんが帰ってきた。
俺はなるべく明るい声を作る。
「ご飯できてるよ、すぐ温めるからね」
振り向きながら言うと、相変わらず元気のない声ですまないなと言った。
食卓に座った父さんにオムライスを出すと、また抑揚の無い声ですまないなと言い、思いついたように俺の顔を見た。
「友利は食べたのか?」
「お腹ペコペコでさ、我慢が出来なかったから先に食べたよ」
数時間前の出来事のおかげで食欲が全くなかった俺は、嘘をついた。
「父さん……父さんは、母さんと出会う前に恋愛経験はあったの?」
「どうしたんだ、いきなり」
父さんはオムライスを口に運ぶ手を休めずに言った。
「俺だってもう高校生だよ少しは興味があるよ。今日、凄い美人に出会ったんだよ、仕草もかわいくってさ喋ってると楽しくって、二歳年上なんだけどどう思う?」
「いいんじゃないか、父さんも大恋愛したよ……ハッピーエンドじゃなかったけどな。人を好きになるのは悪いことじゃない」
「その子の名前は、深井香織って言うんだ」
派手な音をたてて父さんの手からスプーンが転がり落ちた。俺を見る目はまるで死刑宣告を受けた犯罪者みたいだった。
そして父さんの背後から、密やかなクスリという笑い声が聞こえた。
「ユリの庭で会ったんだ……父さんは、今、香織はダメだと心の中で思ったでしょ? ハハッそうなんでしょ図星だね」
父さんは顔を歪めると、うめき声のような溜息をもらした。
「だって俺の姉さんなんだもんね、姉弟の恋愛はいけないんだろう? たとえ母親が違ってもさ、
安心してよそんなことにはならないからさ。それより父さん、父さんの後ろで百合絵さんが楽しそうに笑ってるよ」
父さんは、ビクリと跳ね上がり後ろを振り向いた。
「う、嘘を言うんじゃない!」
声を荒げながら俺を睨む。
「信じてよ、俺には小さい頃から見えるんだよ。
百合絵さんて名前は今日香織さんと会って初めて知ったんだけどね……綺麗な人だよね、香織さんも美人だけどさ百合絵さんの美しさは格別だ。オレンジ色のワンピースを着て、この季節はいつも父さんの傍にいるんだよ」
そして、俺が見ている百合絵さんの特徴を細かく話すと父さんは納得したのか、
わかったよと言った。
「友利には見えるのか、あの庭に行かないと父さんには見えないんだよ……」
息子の前でも恥ずかしげもなく、悲しそうに呟く父さんに絶望に似た感情が湧いてきた。
「母さんも百合絵さんの事は見えなかったし、どこまで知っていたのかは分からないけど、気付いていたよ。
父さんも母さんが気付いていたことを知っていたんだろ? それでも父さんは出かけた。
母さんの残りの命が決められてからも、あの庭に、百合絵さんに会いに行くのを止めなかった。
何年も何年も母さんは毎日、父さんの愛が自分に向いていないことを感じて苦しんでいたんだよ」
もう、父さんは何も答えられなかった。
「父さんは最低だね、好きでもない母さんと結婚したんだから」
そして俺はとどめの言葉を吐いた。
「限界だったんだよ、あと三年も苦しむなんて我慢ができなかったんだよ、だから俺が母さんを楽にしてやったんだ」
「……ゆ、ゆ、うと……おまえ……まさか……」
その問いかけには答えず「おやすみ」と言って背中を向けた。
フフフフフっと声が聞こえた。
振り返ると、百合絵さんが笑いながらワンピースの裾を揺らしてくるりくるりと回っていた。Aラインに広がった裾はユリの花を思わせる。
ふわりと空気が動き、微かなユリの香りが広がっていった。
(嬉しそうだね、百合絵さんが喜んでくれて俺も嬉しいよ、とても綺麗だよ百合絵さん)