乳房
父さんにはあんなことを言ったけど、本当は死んだ母さんが父さんの事で苦しんでいたのは別になんとも思っていなかった。父さんを選んで結婚したのは母さんなんだし、父さんの行動で苦しむのは母さんの勝手だ。
だけど、父さんから得られない分の愛情を俺に求めるのにはウンザリだ。代理の愛情なんてまっぴらだった。
本心を隠して取り繕い、ご機嫌を取り良い妻を演じる母さん。
病気になってからは増々俺に甘えてきたかと思えば手のひらを返すように不機嫌になった。チャコにだって美味しい刺身を食べさせたと思えば、あっちに行けと蹴り何日もエサを与えない……耐えられなかったんだ。
そんな毎日の中で春から夏の季節にかけての、家での楽しみは百合絵さんを眺める事だった。百合絵さんはどんな女の人より綺麗だった。そしていつも微笑んでいた、そう、母さんを見る時以外は……。
父さんが家を抜け出して帰ってきた直後の百合絵さんはポウっと発光して見惚れずにはいられなかった。
数日すると百合絵さんは身体が透け徐々に存在感が薄くなり、父さんが抜け出すとまた輝きを取り戻し帰ってきた。
そして冬になると消えてしまうのだった。
いつしか俺の中で百合絵さんは特別な存在になっていった。
中二の冬の終わりだった。俺はもうすぐ百合絵さんに会える季節がやってくると心待ちにしていた。そして、夢を見た。
百合絵さんが白いユリの咲き乱れる中で踊っていた。真白なユリの中にオレンジ色のワンピースが映えて美しい。舞うたびに揺れるユリから白い靄がたなびいて、蛇の様に幾重にも百合絵さんの身体に絡みついた。
百合絵さんはアッアッと小さく声を漏らし、恍惚の表情を浮かべながら身体は発光していった。
俺に気が付くと手招きをした。
あまりの妖艶さに鼓動が高鳴り、下半身が熱を帯びる。
百合絵さんは、微笑みながら俺の手を取り自分の頬にあてがう。冷たく滑らかな頬の感触は熱くなった下半身を更に火照らせた。
フフッと百合絵さんが笑って、つかまれた手が下方に滑らされ、俺の手は何か柔らかいものを感じていた。手の先を見るとそこには白い乳房がある。
顔が近づいてきて濡れた唇が触れそうになるその瞬間、濃厚なユリの香りが鼻を突き快感が全身に走って目が覚めた。夢精していた。
汚れた下着をスウエットパンツのポケットに丸めて、洗面所の洗濯機に入れて戻ろうと、リビングを通りすぎようとした時だった。
「友利どうしたの?」
声をかけられた……母さんだった。
「ちょっと、喉が乾いてさ、母さんこそどうしたんだよこんな時間に」
「眠れなくって起きちゃったのよ。また、春がやってくるわね。
母さんは暖かい季節はキライよ、お父さんの持ってくるあの香りもキライ。友利はいい子だからお母さんの気持ちがわかるわよね、優しいし親切だし母さんは誰よりも信用してるからね。
友利は母さんをずっと好きでいて頂戴ね、大好きよ友利……」
「……気持ち悪い……」
「……え?」
「我慢できないんだよウンザリなんだよ、キモイんだよ、だから父さんに嫌われるんだ。母さんはあのユリの香りの人には勝てっこない。」
「あの人ってやっぱり……女がいるのね……ゆ、友利は、父さんの……を知ってるの?」
「名前は知らないけど、父さんの愛しているのは、あの人で母さんじゃないってことはわかるよ。
これから先もずっとね。知りたいのならば直接父さんに聞けばいいじゃないか、これ以上嫌われたく無いから聞けないの?
大丈夫だよ、父さんは母さんの事なんて最初から愛してないんだから。」
ここまで、本当の事を突き付けられても「……そんなことないわ……」と言う母さんに無性に腹が立った。解っているくせに……認めなよ、泣いて騒ぎなよ、どうせ醜いんだからさ。
俺もそんな母さんがずっと前から大嫌いだったよ。
もう要らない、母さんの感情なんかに付き合っちゃいられない。たくさんだ。
今まで欲しくもない愛情をたっぷりくれて有り難う母さん、お礼に今すぐプレゼントをあげるからね。
「あ、そうだ言い忘れるところだった。チャコがね、父さんが買ってきたユリの蕾を食べたそうにしてたから、好きなのかなと思ってキャットフードに混ぜてあげたんだ。
母さんが何日もエサをあげないから悪いんだよ、だから俺が代わりにあげておいたよ。
でもね、ユリって猫には猛毒みたいなんだよ可哀そうなことしちゃよ……」
リビングのカーテンの隙間から猫のしっぽが見える。俺はカーテンを持ち上げ、ほらねと見せた。
そこには白目を剥いて舌を出したチャコが冷たくなっていた。
ギャーーーーッ!!と叫ぶ母さんとプレゼントを置き去りにして俺は自室に戻っていった。




