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私は“大丈夫”という言葉が嫌いだ。
お母さんが亡くなった日、私に大丈夫と誰かが告げていた。
大丈夫じゃなかった。
お母さんは、私を庇って死んでしまったのだから。
幼かった私は、何が起こったのかも理解していなくて、ただ誰かに縋り付いていた。
その人が、私に大丈夫だと言っていた。
それだけは覚えている。
……違う、私はそれだけしか覚えていない。
事故に遭ったというのも、お母さんが私を庇ったというのも、当時のことはまったく覚えていない。それだけじゃなくて、その前後数日の記憶もほとんど無い。
カウンセリングでは、お母さんを亡くしたショックだろうと言っていたけれど、それが私は許せなかった。
お母さんを殺したのは私だ。
私がちゃんと逃げられていたら、お母さんは今も生きているはずだった。
「香織、父さん仕事行くから、ちゃんと学校に行くんだぞ」
お父さんは朝食を作ると、鞄を持って家を出て行く。
「うん、行ってらっしゃい」
笑顔を浮かべて、お父さんを送り出す。
お父さんは決して私を責めなかった。私が、黒崎香織がちゃんとしていたら、お母さんを失わなかったのに、大丈夫だからと言って、私に優しく接しようとする。
それが、とても苦しかった。
だから、私は“大丈夫”って言葉が嫌い。
「大っ嫌い」
無音の玄関で、言葉が跳ね返って来る。
しばらく立ち尽くしていると、玄関にある家族写真と目が合う。
下関で関門海峡を背景に撮った写真。
幼い私がいて、お母さんとお父さんと一緒に撮った写真。
私が壊してしまった幸せな時間。
罪から目を逸らすように写真立てを倒すと、リビングに戻る。お父さんが用意してくれた朝食を一人で食べて、制服に着替える。
鏡に映る姿はどこか暗くて、笑顔を作ってみても陰がある。見た目はお母さんに似て来ているのに、あの明るかったお母さんとはまるで違う。
笑顔を引っ込めると、鞄を持ってマンションを出る。
時間はまだ早いけれど、遠回りをしたくなった。
朝というのもあって人通りが多く、一部には観光客らしき人の姿も見える。
少し歩くと目に飛び込んで来るのは、海。
観光名所というのもあって展望台や、綺麗な建物もあるのだけれど、それよりもやはり海に引き込まれる。どれだけ素晴らしい建築物でも、大自然の魅力には勝てないのかもしれない。
関門海峡の先には、山口県下関市がある。
母の実家が下関にあるというのもあって、幼い頃はよく関門トンネルを通っていたのを覚えている。
橋を一人で渡って、門司港駅に到着する。
門司港駅は、門司港のシンボルらしい。
ルネサンス式木造建築とか何とか聞いたことあるけど、詳しくは知らない。ただ、夜景が綺麗なのは知っている。
駅にはそれなりに人がいて、同じ学生服の姿も見える。
その中には、同じクラスの子もいるのだけど、お互い積極的に話すタイプじゃないから、話し掛けることはない。
いつもなら、電車がスマホを開いて時間を潰すが、今日はそんな気分じゃなかった。
ただ駅に広がるノスタルジックな景色をぼうっと眺める。
線路があって、背の高い屋根、このがらんどうの空間が時代に取り残されたかのようで、知りもしない昭和の時代を彷彿とさせる。
私は、この景色が苦手だ。
幼い頃に、どこかに連れて行かれそうで怖いと思ってしまい、そのまま今日まで来てしまっている。
でも、お母さんはこの景色が好きだと言っていた。
何が良いのか分からなくて、早く帰ろうと我儘を言うと、
『ここが良いって思えるようになるのは、香織も大人になった時かな』
そうお母さんは苦笑を浮かべていた。
当時は、この言葉の意味が分からなかったけれど、今は何となく分かる。
昔を、懐かしいあの頃を思い出せるから、好きだと言っていたのだろう。
「でも、私は苦手だな」
あの頃に戻りたいとは思っても、この景色は好きじゃない。
きっと好きになる時は、お母さんが言っていたように大人になってからだろう。
電車がやって来る。
これに乗ったら、どこか遠くに連れて行ってくれないだろうか? なんて、そんなあるはずないことを考えならが、私は日常に足を踏み入れた。
◯
私は電車の流れる景色を見て時間を潰す。
電車内を見ると、大抵の人はスマホを扱っているけど、私は乗り物に酔ってしまうから無理だった。
耳にイヤホンをつけると、スマホでラジオを流して目を瞑る。
FMラジオから男女のパーソナリティの会話が流れて、新曲から古い曲まで流してくれる。私は、スマホの代わりにこうやって時間を潰していた。
私が通う高校は、北九州市の中でも都会の小倉にある。
南小倉駅から歩いて十分くらいの距離にあり、電車の待ち時間も合わせると、片道だけでも一時間近くも掛かってしまう。
教室に到着すると、努めて明るい笑顔を浮かべて「おはよう」と友人達に挨拶して行く。
これは私の処世術。
本当の私を見せれば、きっとみんな離れて行く。
無口で、俯いたままの暗い私。
周りの目が怖くて仕方ない私。
それが、本当の私。
「ねえ、香織って門司に住んでるんだよね?」
「うん、そうだけど」
クラスメイトが聞いて来るのだけど、それが一体どうしたのだろうか?
「関門トンネルの噂って本当にあるの?」
「関門トンネルの噂? ごめん、何のことか分かんない」
いきなり何だろうか?
私がそう返したからか、クラスメイトは「何だ、やっぱり嘘か」と興味を失ったかのように離れて行く。
せめて説明してくれない?
そう思っても、引き止めることはない。
気にはなるけれど、誰かの時間を犠牲にさせてまで聞きたいというほどではない。
だから、その噂話を私が知ることはないだろう。
そう思っていたのだけれど、時間が経つに連れて、噂話の中身が聞こえて来てしまった。
『関門トンネルを通ると、過去に戻れる』
このような荒唐無稽な噂話が耳に入って来た。
ルールみたいな物もあるようだけど、それが本当なのかも分からない。というより、そもそもの噂が信じられるような内容ではないので、全てが嘘だと断言できる。
ただ、誰がこんな噂を流したんだろうと気にはなる。
「ねえ、門司の噂って誰が言い出したのか知ってる?」
そう何人かに尋ねても、返って来るのは「知らない」という回答だった。
噂話なんて、所詮こんな物。いつもなら、それで諦められるのだけれど、過去に戻れるという言葉に引かれてしまい、出所を探してしまった。
噂話を聞いたという人を辿り、ある人物に行き着く。
「私は浅野さんから聞いたよ」
「浅野さん?」
浅野さんは、門司港駅で一緒になったクラスメイトだ。
彼女は私に似ている。
ただ、私と違って自分を偽らず、笑顔を振り撒いたりしない。誰かが話し掛ければ会話はするし、用事があれば話し掛けにも行く。
でも、他人の顔色を窺うことはしない。
そんな人だ。
「浅野さん、関門トンネルの噂話って知ってる?」
「ええ、私が流した噂だから」
「そうなんだ……。それって作り話だよね?」
落胆した。意図的に流された噂話なら、もうそれは信じるに値しない。そもそも荒唐無稽な内容だった。信じる方がどうかしている。
そう思ったのだけれど、浅野さんの返答は意外な物だった。
「黒崎さんは、中川大輔を覚えてる?」
「なかがわだいすけ? ごめん、知らない」
中川という苗字には覚えはあるけれど、大輔という名前には心当たりが無い。
「そう……。私は、大輔からこの話を聞いた。条件も聞いてるけど、それが成功したことはない。出鱈目な話しだけど、それでも聞く?」
明らかに嘘。
でも、嘘でも知りたかった。
「教えて」
そうお願いすると、浅野さんは淡々と喋り始めた。
「過去に戻るには、満月の夜二十時ちょうどに、関門トンネルの中央を通過しないといけない。その時に必要なのは、戻りたい時の写真。あと、電子機器は持ってたらいけない。この三つの条件で、過去に戻れるらしいよ」
とても簡単な条件だ。
そう思ったのだけれど、二つの条件が不可能だと気付いた。
関門トンネルは基本的に、車両しか通行出来ない。
電子機器が無ければ、正確な時間が分からないから、二十時ちょうどに通過するなんて不可能だ。
やっぱり、嘘の話だなと諦めた。
浅野さんが試したというのも、ただの嘘だろう。
「教えてくれてありがとう」
心にもない感謝の言葉を告げて、私はこの噂話を終わりにした。




