第95話 明日へ
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リシュールが父と再会した日から、丸三年の月日が流れた。
穏やかな暖かさが春を感じさせるその日に、リシュールの生家にはシルヴィスが訪れていた。
「こんにちは」
「シルヴィスさん、いらっしゃい」
リシュールは家のドアを開けると、シルヴィスを招き入れる。
昼時ということもあって、暖炉の火もいらないくらい空気が暖かい。
「こっちに来るのは久しぶりだな」
シルヴィスはそう言って中に入りながら、春らしい色をした薄黄檗色をしたコートを脱いだ。コートの下は、彼らしい生成り色のセータにグレースラックスの格好をしている。
「最近、お仕事が忙しそうでしたもんね」
するとシルヴィスは肩を竦めた。
「貴族のご子息とご令嬢が集まって騒いでいたからね。そういうリシュは、アルトランにある部屋と、こっちの家の行き来は慣れたか?」
尋ねられて、リシュールは少し悩む。
リシュールとクモイは、三年前から、こことアルトランの家を行ったり来たりしていた。リシュールの父・リヒテルの看病をするためでもあったが、彼が亡くなってから、この家はリシュールに相続されたのである。
だが、リシュールはアルトランで仕事をしているため、引っ越しは考えられない。そのため、現在二拠点での生活をしているのだった。
「まだ慣れないですね。春から秋口までは隔週の仕事が休みの日にここへ来ていましたけど、今回の冬は雪が多くて結局来ないままでしたし。アルトランでの仕事もありますから、そう簡単にも行けません」
シルヴィスは「そうだよな」と言うと、リシュールに紙袋に入れた手土産を渡した。
「あ、店のお菓子とお茶を持ってきたぞ。もちろんお茶は、ルヴァリシュルだ」
「ありがとうございます。嬉しいです」
リシュールはそれを受け取ると、玄関から入って右側にある調理場のほうへ持って行く。そこではすでに竈に水の入った鉄鍋がかけられており、リシュールは火加減を確認した。茶を飲むための湯なのだが、まだ温まってはいないようだ。
リシュールが居間のほうへ戻ると、シルヴィスは長椅子に座りながら、「絵本」の話をしてくれた。
「今日、喫茶店側のほうを覗いてからこっちに来たんだけど、小さい女の子が『魔法使いウーファイアの伝説』を買ってもらったって、喜んでいたのを見かけたよ」
「本当ですか? 嬉しいな」
「『表紙の空がきれい』って言っていたよ」
表紙は、一番最後の挿絵と同じものが使われている。
その絵は、城を遠くの山の上からウーファイアが見ている後ろ姿が描かれた構図なのだが、挿絵ではウーファイアに寄せているのを、表紙では引きで見ているようにして、空を大きく見せているのだ。
リシュールの得意な空の絵ということもあって、気に入ってもらえたのは素直に嬉しかった。
「あと、案外『ウーファイア』の顔がいいみたいでね。思慮深いって、店にいた母親たちがそんなことを話してた」
リシュールは「そうですか」と言って苦笑する。
「マリのことを良く描けなくて笑っていない顔になっている」というのは、シルヴィスしか知らない。そのため彼は、母親たちがどういうふうに捉えているかをリシュールに、そっと教えてくれているのだ。
「でも、これからですよね」
絵本の役割は始まったばかりである。
これから、人々に「魔法具」のことが周知され、興味を持たれたとしても、下手に手にしてはいけないことが、浸透していかなければならない。
「そうだな。でも、待つのは得意だから、気長に待つさ。それに今のところは順調に本も売れているみたいだし。お陰で魔法具を探すための資金も得られて、助かっているよ」
「それならよかったです」
リシュールは笑うと、シルヴィスの隣に座って、今度は父のことについて話した。
「そういえば、父の絵なのですが、アルトラン美術館で特別展が開かれることになったんですよ」
「本当に?」
シルヴィスは嬉しそうに笑う。
「はい。私が父からもらった絵と、パトロンになっている貴族の方が持っている絵から、これからの時期にふさわしい春や夏の雰囲気がある作品を選んでもらって、展示される予定です」
「よかったじゃないか」
「父が亡くなってどうなるかと思ったんですけど、『リヒテル・ターナー』の絵を待ち望んでいる方がいらっしゃったお陰です。私もクモイも行くつもりなので、シルヴィスさんも一緒に行きませんか?」
「それはいいね。俺が、社交界で唯一まともに話せる芸術の内容になりそうだ」
「またご冗談を」
「冗談じゃないさ。——ところで、クモイは? ひと月前から、大陸の西側に魔法具を探しに行っているだろう?」
「予定だと今日中に帰ってくるはずですよ」
リシュールがそう言って、後ろにある窓を見ると、ちょうど砂色をした春用のコートを羽織った人が、こちらに向かってくるのが見えた。
「あ」
リシュールが声を漏らすと、シルヴィスが明るく笑う。
「帰ってきたみたいだな」
「はい!」
返事をすると、リシュールはすぐに長椅子から立ち上がって玄関に向かう。すると、ドアが開いた。
「ただいま帰りました」
クモイはリシュールを見つけると、灰色の瞳を細めて微笑む。リシュールは久しぶりに大切な人の顔を見て、表情を崩した。
「おかえり、クモイ!」
リシュールはクモイを家の中に入れると、これからのことを、いつものように三人で話し合うのだった。
(完)




