十一話 湯けむり庵へようこそ
私の突然の宣言に、一瞬だけ驚いた顔を見せた紅葉さんだったけど、いつも通り「そう」と笑って、もう一度頭を撫でてくれた。
「ねえ、紅葉さん」
「なぁに?」
「今すぐ還っちゃう?」
「どうしようかしら」
少しおどけたような紅葉さんはいつも通りで……。でも分かる。還ってしまうんだ、この神様は。
「引き止めたりはしないよ。でもせめて、最後に一緒にフルーツ牛乳を飲む時間くらいいいでしょ?」
少し上目遣いで紅葉さんを見上げると、優しく笑って「お風呂から上がって髪を乾かして着替えてらっしゃい。浴衣を用意してるから。私も鈴子にまだ言わないといけないことあったの思い出したわ」と言ってくれた。もう少しいてくれる。それが嬉しくて、私は湯船から上がり、目を覚ましたお客さんやおばあちゃんを確認して、紅葉さんが用意してくれた浴衣に着替えた。それはあの日、湯けむり庵に迷い込んだ私が着た赤い浴衣だった。
髪を乾かして、おばあちゃんからフルーツ牛乳を二本受け取って、中庭を臨む縁側へ行くと、寒いのに紅葉さんはそこにいた。さっきまで女型だったのに、男型に変わっていた。
「紅葉さん、そこ寒いから家の中に入りませんか?」
「ああ、そうね。私は平気だけど、鈴子は人間だものね」
それは明確に私と紅葉さんが違う生き物だという線引き。
紅葉さんが立ち上がって、私と紅葉さんはおじいちゃんとおばあちゃんの家の居間に行く。
おじいちゃんは居間にはいなかった。
「あら、こたつ」
嬉しそうにいそいそと紅葉さんがこたつに入り、私も正面に座る。
「はあ、あったかいわ。まるでお風呂に入っているみたい」
「同感です。こたつもお風呂もあったかくて幸せな気持ちになりますよね」
はい、とフルーツ牛乳を紅葉さんに差し出す。
「それで、鈴子、湯けむり庵を継ぐことにしたってさっき言ったわね」
「はい」
「それは就活から逃げるための手段ではないのね?」
紅葉さんの鋭い言葉に私は首を横に振る。
「もちろん違います。実は内定はいくつかもらったんですよ。でも全部辞退しました」
「そう。どうして?」
「私、紅葉さんと一緒に怪異を還していくなかですごく思ったんです。湯けむり庵が大好きだって」
私が幼いころ、私を守ってくれていた茜ちゃんたち。
お札に込められたたくさんの気持ち。
ここを私はこれからも守りたい。
そう強く思ってしまったのだ。
「お父さん、お母さん、おじいちゃんおばあちゃんも反対しました。でも、私はここを守っていきたいって決めたんです。その気持ち1つで説得したら、みんな分かってくれました」
「そう。鈴子にちゃんと経営できるかしら?」
「ちゃんとおじいちゃんとおばあちゃんに習って勉強しますよ。私、一応経済学部ですし」
「あら、だったらきっと大丈夫ね。教える側の瑠璃子はできる子だし」
フルーツ牛乳を美味しそうに飲む紅葉さんがとても楽しげに笑う。
「鈴子なら大丈夫よ。頑張ってね」
「はい」
「それじゃ、今度は私の話ね」
紅葉さんが飲み干したフルーツ牛乳の瓶をこたつの上に置く。
「鈴子の名前はね。私が瑠璃子に頼んで授けたの」
「それは……どうしてですか?」
「あなたが生まれて十日目……だったかしら。あなたの両親が、ここへあなたを連れて来たのよ」
生まれたばかりの小さな命の輝きは神を惹きつけた。
「生まれたばかりのあなたの魂の輝きが文太にそっくりだったのよね。だからこの子は湯けむり庵にとって大事な仕事をする子になるって思ったの。それで瑠璃子にお願いして無理やりあなたの名づけを誘導したのよ」
少し寂しそうに紅葉さんが微笑む。
「あなたのご両親には悪いことをしたわね……。子供の名づけを誘導するなんて、今考えたらいけないことだわ」
紅葉さんの声音に微かににじむ後悔。
でも私はこの名前がすごく好きだ。その名前をくれたのが紅葉さんですごく嬉しい。
「鈴、って字は邪気を払う力そのものの形なの。音を鳴らせば闇を遠ざけ、静かに揺れれば人を癒やす。それから子と言う文字を見てごらんなさい。漢字の一と了に分かれるでしょう?これはつまり生まれた時を一として了は一生の終わりを意味するの。鈴子、という名前には一生清めの祈りをもたらす子、という意味があるの。それはあなたの一生が清らかな祈りに満ちたものであるように、という私の祝福を籠めた名前なの。だから私が名を授けたあなたは私にとっての愛し子なのよ」
「……」
自分の名前の意味、ルーツ。それを初めて知って、私は感動していた。
「紅葉さん」
「なぁに鈴子」
「私も……私も紅葉さんのこと大好きです。いっぱい振り回されたけど、紅葉さんと過ごした時間は全部私の宝物です」
「ふふ、嬉しいわ。私も鈴子と過ごす時間は全部楽しかったし、もっとずっと一緒にいたかったわ」
「……もう、お別れってことなんですね」
「そうね。私は幽世へ帰らないといけないわ。以前、鈴子も見たでしょう?文太が斬った中が焼けてしまったしめ縄」
「はい覚えてます」
「あれをきちんと修復できるのは私だけなの。あれを修復しないと、こちらが隙間から来た怪異で溢れてしまいかねない。そんな風にするわけにはいかないのよ」
「なら、帰らないとですね。ひいおじいちゃんや、茜ちゃんたちによろしく伝えてくださいね。私は元気だよって。それから……」
声が出なくなった。
紅葉さんの綺麗な指先が、こたつの向こうから伸びてきて、私の頬に触れる。
「こら、何泣いてんの」
「え……」
そこではじめて気づいた。私は泣いていた。ほとほとと流れる涙が止まらなくて目をこすろうとすると、紅葉さんの手に止められた。
「ダメよ、鈴子。こすったりしたら肌が荒れるし、目が腫れる」
でもだって。
さみしくてさみしくて。
だから。
「こたつがあったかくて気持ちいいから出たくないけど……」
「……」
「行くわね」
「……はい」
こたつの上に残されたフルーツ牛乳の空き瓶の向こう側で紅葉さんの姿が薄れて、キラキラしながら登っていく。
「さようなら、紅葉さん」
お茶目で、きれいでかっこいいフルーツ牛乳が好きな素敵な神様。
あなたに出逢って、私の人生の方向は決まったの。
「ありがとう」
寂しいことは悲しいことじゃないと教えてくれてありがとう。
この湯けむり庵に来てくれてありがとう。
あとはエピローグです




