10.試合の果て
私は昨日と同じように部屋の中に倒れ込む。だが今日の疲れは別格だった。本当は一日に三回計画されている試合の一つを治療により棄権しているのにこのざまだ。地面に掠れる赤い痕に、さすがに服の替え時を悟る。
今日は酷かった。私が監獄に入ってから十年程度になるが、その中でも断然死の危険を感じた。日々の生活の中で摩耗し、すり減る身には随分な経験だった。
シュナは多分今日、部屋に帰ってこない。帰ってくるのは一週間に一回。二回帰ってくるのはあまりない。いや、ほとんどない。
何をしているか?――――さあ?恐らくというか間違いなく一級といるのだろうが、私には関係がないし、知る必要もない。でもまあ、一週間は七日であるから、三名の一級のところに二日ずついくならちょうど良い。
私はずるりと身体を引き上げた。傷はなかった。アイナの《刻印》は傷跡を残さぬほどに優秀であった。治癒に特化した《刻印》ではないだろうに、恐るべき技術の高さ。だが、この身体を縛り上げていた鎖の、縫い止めていた針のその金属の感触を、忘れることなどできなかった。たった今でもまだ、針が私の身体を貫通しているのではないかと、不意に冷や汗が流れる。
よくあることだった。酷い傷を負った後に治療を受けても尚、傷が存命であるかのように感じることは。――――よくあることだが、一生慣れないと思った。真夜中の就寝中、何の変哲もない食事中、廊下の移動中、ふとしたことにその傷は痛みを伴って思い出され、私を捉えて逃がさない。
呪いのようであった。どうしても私はそれを避けることができない。
痛みを伴ってこの人生を生きるしかない。私にはその選択肢しか存在しない。
私は無表情で歩き出した。誰もいない実に簡素な部屋を進む。
実のところ、シュナが日中何をしているのかさえ私は知らなかった。訓練を受けるにしても何をしているにしても、シュナが私と同じ階層で何かをやっていることはないだろう。一級がそんなことを許すはずがない。
私は乱暴に身体を洗った。傷口は一つとしてないのに、水が当たるとまるで傷口があるかのように身体に染み入る。私は唇を強く噛んだ。身体は休憩を渇望していた。髪をろくに拭く余裕もなく二段ベッドの上の段に這い上がる。下の段に寝て、シュナが潜り込んでくるのだけは勘弁だ。
倒れ込む。目を閉じようとした瞬間、大きな音を立てて扉が開いた。
「ヴィア!!」
眠りに落ちかけた意識は、辛うじてその声に頭をもたげる。五月蝿い音。外の廊下には青白い光が灯っていた。直ぐに扉は閉められる。
声の主は、シュナは、私に問いかけた。
「試合あったよね?大丈夫?」
大丈夫であるものか。休息を妨げられて、私はむしゃくしゃに苛立った。怒りに呑まれそうな頭がぼうっとする。
どうこの世界が転んだって、監獄中でシュナが私みたいに殺されかけることはない。とはいえそれはシュナが一級に気に入られるという大事を成し遂げたからである。
シュナのようなことができない私に、シュナを恨む理屈はない。そう自分で自分に言い聞かせたが、いかんせん時が悪かった。
「……死にかけた。アイナに治してもらった」
ぼそりと私は言った。それは意趣返しの気分も入っていた。シュナには分からないだろうと私は本気で思って、それが仄かに嘲りの色を滲ませていた。シュナを傷つけるかもしれないという予感があって、それは押し寄せる疲労の波にたやすく潰された。
「――――っ」
シュナは何も言わなかった。小さく息を呑む音と、言葉にならない躊躇いだけがはっきりと感じられた。それがどうにもこうにも鬱陶しかった。
「どうして私は生きてるの?」
私はそう言った。それは今日のうちだけでさえ二回聞かれた問いであって、今まで幾度となく考えた問いだった。
私は自分に矛先が向けられている場合だけだが、その問いに大して重みを感じなかった。死の到来を予期することは多かれど、自ら死のうと思ったことは一度としてない。だからその問いは、私にとっては細やかな戯れに過ぎなかった。
シュナにとっては――?まあ、どうでも良い。
「ヴィア、死んではだめだよ。死なないでね」
部屋は暗かった。私は寝るために電気を消していて、シュナの表情を読み取ることはできなかった。それでもシュナがどういるかは想像が付いた。黒い髪を一部肩にかけて、銀の目を燦めかせているのだろう。少しだけ困ったように眉をよせて、心配そうな色を灯して。心の底からの恐れを纏って。
「ヴィア、生きてね」
どうして?なんで?シュナ、貴方がその望みを言うの?どの口で、どの分際で?
私の思考は攻撃的だった。私は口を噤んだ。何も言わない方が誰にとっても良いことであった。だがシュナは私を待っていて、私はついに口を開いた。
「そうだね」
私は小さく返答した。シュナは何を言うでもなく、だが安心したような気配が滲んだ。音がする。シュナはシャワーを浴びに隣の部屋へと移動した。
シャワーの音が聞こえる。水の降る音が聞こえる。
私は扉の奥を見透かすように、その方向をじっと見つめ、そして身体を反転させて扉に背を向けた。背を向けたところで聞こえてくる音に変わりはないのだが。
ただの言葉のくせに。なんの拘束力もない言葉のくせに。ねぇ、どうして安心する?どうして信じることができる?
どうして私に同情できる?どうして要らない優しさをかける?それが自然であるかのように、それが人類共通の普遍であるかのように。
この監獄内で、どうして無力な貴方が正気を保てている?どこまでも善意で埋め尽くされるのならば、それは私には気味が悪い。貴方は得体の知れない生き物のように思える。
目を閉じた。
柔らかな微笑みも、一級を手玉にとる手腕も、最底辺にすら向ける優しさも、どうにも覆せぬ無力さも、全て受け入れて生きていける、そんな人など実在するのか?
私は貴方が嫌いだ。
貴方の言葉一つ一つが、反吐が出るほど大嫌いだ。




