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四面楚歌と悪意の足音9

国家老は肩を落として帰宅した。


主君は、国家老が色よい返事をするものと思っているだろう。相手は安土から続く名門の家柄で、本来ならば断る理由がなかった。


「四面楚歌か……」


追い詰められていた。


「旦那さま。お早いお帰りですのね。お城で何かございましたか?」


浮かない顔をした主に気付いた妻は、気取られぬようにそっと障子を閉めた。

浮かぬ顔をしていると気づいていた。


「実は……大津の縁談を持ちかけられた」


「まあ……それで、なんと?」


「病身ゆえ婚姻は叶いませぬと、殿に言上して参ったが、高坂の子倅め、何もせずとも傍に居るだけで良いゆえ、大姫をくれと申しおった」


「高坂さまというと、殿の武芸御指南役ではございませんか?そのようなお家の若さまが何故大津をご存じなのです……?」


「三日前に大津が川に落ちたことが有っただろう。義高殿に助けられたその時の様子をたまたま見て居たらしい。あの様子では、大津が男子だと気づいておる。あの者は、つい先ごろ元服は済ませたようだがな……公にはなっておらぬが、何の知識もないまま幼き念弟を抱き、大怪我をさせたことのある粗暴で早熟な少年と、わしの耳にも噂は入って来ておる」


「では、大津を欲しいと言うのは」


「念兄や念弟を持ち衆道をたしなむのは、武家の習いとしていささかも不思議はないが、あれは恐らく女子よりも男子(おのこ)の方に情を感じるのであろうよ。恐らく大津を男子と知り、玩具を欲しがる子供のように手に入れたくなったのだろう」


「義高殿の優しいお申し出に、わたくし夕べは嬉しくて眠れませんでしたのに……今日は、そのような恐ろしいお話を……聞きたくはございませんでした」

「どうしたものか……」


二人は揃って深いため息を吐いた。


翌日、藩校では噂になっていた。

高坂が殿に直接、ご家老さまの御息女を頂戴したいと言上したらしいと。

義高は、藩の御前試合には参加が許されていなかったのが悔しくてならなかった。いったいどのような話になっているのかわからないが、大姫の事を既に我が許嫁などと口にする高坂を歯がゆく思う。


「大槻義高殿!」


帰りを急ぐ義高を、遠くから高坂が呼び止めた。


「お待ちください。それがしも同道いたします」


「同道とは……?貴殿の家は反対方向ではないか?」


「いやだなぁ。見舞いに行くのですよ。聞けば、ご家老さまの御息女は、大層病弱で今も臥せっているそうではありませんか。まだ色よいお返事は頂いてはおりませぬが、ぜひとも傍で可愛らしいお姿を拝見したいと思いましてね」


「……左様でございますか。わたしはお預けの身でありますから、お見舞ならば、ご家老さまの奥方さまにお願いすればよろしかろうと存じます」


級友たちと別れ、武具を担ってさっさと歩きはじめた義高に、背の高い高坂は大股で難なく付いてくる。肩を並べると、声を落としじっと顔を覗き込んだ。


「義高殿。命を懸けて姫をすくい上げたのち、口に直接息を送り込むのは、口吸いとは違うのかな?」


「え……っ!?」


義高の足が止まる。

「高坂殿には……大姫さまが、川に落ちたことをご存じか?」


「仮死状態の姫に、大槻殿が必死で蘇生の術を施したところもな。見事であったな。あれは国許で覚えたのか?」


「わたしの国では……稲作が盛んで、大小いくつもため池があるのです。時折り幼い子らが落ちるので、おぼれた時には傍に居る者が、誰でも命を救えるようにと、班ごとに年長者が付いて教えるのです。そうして毎年、命を拾うものがおります」


「誰にも口外してはおらぬが……わたしは、大槻殿が大姫を着替えさせている所を見た」


義高は、顔色を変えてはいけないと咄嗟に思ったが、膝がしらが震え、一歩後ずさったのを高坂は見逃さなかった。


「ふふ……やはり、そうか。男子の徴(しるし)は見間違いではなかったのだな」


辺りを見回し誰もいないのを確かめると、義高はこちらへと人気のない場所へ高坂を誘った。今は、高坂の口止めをせねばならない。


「高坂殿。この事はくれぐれも内密に頼みます」


「さて、内密にとは?」


「実は……大姫さまは、ご自分が男子だと知らないで育ったらしいのです。今も疑うことなく、自分を姫だと思って居ります」


「ほう……大槻殿は何時その秘密を知った?」


「高坂殿と同じ時に。姫に蘇生の術を掛け、濡れた着物を脱がせた折に知りました。まだ十二の姫に仔細をお知らせするのは、酷ではないかと思います。大姫さまは、お年よりも幼く、何も知らぬ無垢なお方なのです」


「ふん。で、わたしにどうしろと?」


「ご家老さまは、いつ殿に言上すべきか悩んでおられました。だから、いっそ高坂殿がこのお話を引いて差し上げれば良いとわたしは思います。武芸指南の家に迎えるような良い家柄のご妻女ならば、他にもございましょう。高坂殿もご嫡男として、家名を継ぐ男子を上げねばならぬはずです」


「それも、そうだな。もしや大槻殿は、あの姫を好いておるのか?……まあ、それは叶わぬか。何しろそちは、他藩から来た預かり者に過ぎないのだから、口出しなどはできぬな」


義高は曇りの無い眼を、ひたと向けた。


「……かような人質の身で、そのようなことは考えたこともありません。しかし、縁あってご家老さまの家にお預けの身となった今は、あの方がみすみす不幸になる縁談を、見届けたくはないと思っております。わたしには兄弟しかおりませぬが、もし妹というものがあったなら、きっとこのようなものではないかと思います。この家に居候するようになって数年、ずっと兄妹のように接して参ったのです」


高坂は意外にも、ははっ……と破顔した。


「大槻殿は誠に生真面目な性分だな。わたしは家を継ぐ男子を上げるには、側室を置けばいいだけの話だと思って居る。我が子さえ成してしまえば、お家の存続に問題はない。それに、わたしはもともと男色の方が性に合うのだ。以前、年弟を抱いたときには、作法も知らず陽物で菊門を裂いてしまったが、もうそのようなことはせぬ。大姫は大切に床の間に飾るように、可愛がって進ぜようと思う」


「裂いた……無体なことを」


思わず、義高の顔が曇る。

今は華奢な大姫でも、女と偽って嫁いでしまえば、いつかは無理が出るだろう。

そうなるとこの男は、世間の目を欺くために、あのいとけない大姫を屋敷奥に閉じ込めたまま、一生表にはださないだろう。


義高の脳裏に、義高さまぁ……と助けを呼ぶ大姫の姿が浮かんだ。

家中のものではない義高には大姫を守るすべは何もなかった。


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