1. 幸せという名の青い鳥
道は絶えず袋小路へと続いていた。人々はまだ扉の向こう側へと憧れを抱き、さまよったままで空を仰いだ。交差点に掛かった白い橋の下で泳いでいる、無数の鉄の鰯の群れに微睡を落として。ワタシはまだ、ココロにいます。聞こえない声に耳をすませば、いつかあなたもたどり着くでしょう――。
―ピー、ピー、ピー……
―ルーディス、……ルーディス?
懐かしい、彼女の声が耳元でささやいた。ルーディス・ブライトは組んでいるはずの足をほどき、近くにいるだろう女性の方へと顔を向ける。
「サーシャ……。サーシャ、どこにいる。」ルーディスはまだ開き切らない瞼をゆっくりと押し開けながら、彼と生涯を誓ったその女性を、目の前に見つけようと試みた。
―おはようございます、ルーディス。
白い肌、スカイブルーの瞳、ホワイトゴールドの長い髪。豊かな流線型を描くそのシルエットは、ルーディスが望んだものとは少し違った。
「……あぁ、おはよう。」
―いい夢が、見られましたか?
記憶の中と寸分たがわぬその顔が、合成された彼女の声で、言葉を話す。
「何も、夢など見ていない。」ルーディスは期待と失望を悟られぬようにそう言った。
―そうですか?……それでは私のことを、『サーシャ』と、お呼びになったのですか?
全くこのAIは……。わざとらしく目を見開いたシーラに対し、ルーディスはやや大げさにため息をついた。
「撤回する。夢を見ていた。……断じてお前のことなどではない。」そう言い切ったルーディスに対し、AIシーラはいたずらでも思いついたかのような顔をした。
―知っています。ふふっ……、知っていますよ。だって私、AIですから。
ふわふわと空間の中を漂っているシーラを前に、ルーディスは再び足を組みなおし、ニュースアプリを起動した。トップページの一覧には、昨日の三角都市記念式典のニュースがいくつもいくつも並んでいる。どれほどスクロールしても同じような見出しとテーマが繰り返されるウィンドウを見て、ルーディスは皮肉交じりのため息をついた。
「全く……、暇人どもが。」
眉間を寄せたルーディスの手元に、小さなサイドテーブルが現れる。その上には、グラスに入ったカクテルが、どこからともなく現れた。少し白濁した透明感のあるカクテルは、いつもルーディスが飲んでいるCorpse Reviver No.2(コープス・リバイバー No.2)のようだった。
ジンに、トリプルセック(柑橘系リキュール)、リレ・ブラン、レモン果汁、そして数滴のアブサン(薬草系リキュール)を混ぜ込んだ、「朝の気付け薬」として伝統的な一品だ。ウィンドウを閉じ、グラスを持つとわずかに冷たい。そのまま口元に近づければ、レモンの酸味ある香りと、薬草じみた独特な香りが上手く混ざり合い、ルーディスの鼻孔をくすぐった。
「なるほど……、いい出来だ。」ルーディスはそう呟くと、グラスから漂う香りを味わったのち、くっと勢いをつけてカクテルを口に入れた。
ジン特有のジュニパーの香りが、少し遅れて鼻の奥へと抜けていく。少し渋みのある中に混じる、柑橘系の果物の酸味が、わずかに残っていた眠気を強制的に吹き飛ばす。アルコールが入ったことにより、喉の奥からじんわりと熱がせりあがってくるような感じがした。
「ふぅ……。」
―いかがですか?ルーディス。エンジニアが作ってくれたデータのお味は?
座っているルーディスの膝に、シーラはゆっくりと頭を載せ、甘えたように彼に尋ねた。
「データと言うな、情感に欠ける……。確かに味は申し分ないが、やはりこういうのは、実物がいいな……。」ルーディスが首元のほどけたネクタイに手をやると、周囲の空間がゆっくりと上から溶けていく。
ドライブ中のプライベートスペースで、ぼんやりと発光していた空間は、今や華やかながらも飾り気のない執務室へと変わっており、ブラインドが開けられたばかりの窓からは、ちょうど夜明けの空が見えている。
―そうですか。では、ジルヴァに注文いたしましょう。
「あぁ、そうしてくれ。」室内にあるホログラムスクリーンの中で、悪びれる様子もなく穏やかに告げるシーラに対し、ルーディスはシャツを脱ぎながらそう言った。
―ポーン
しばらくして、身なりを整えたルーディスが仕事に取り掛かろうとしていると、執務室のインターホンが鳴った。
「失礼します。ロシュカ・ルブランです。入っても、よろしいですか?」カイのパーソナル・アテンダントであるロシュカ・ルブランの声がした。
「あぁ、入ってくれ。」ルーディスが言うと、電子ロックの外れた自動ドアがゆっくりと開き、白衣を着た長身痩躯の男が入ってくる。
彼はつかつかとルーディスのデスクへ近寄って来ると、そのままデスクの前で静止する。ルーディスはロシュカの姿を一瞥し、吸っていたたばこから灰を落とす。
「単刀直入に聞きますが、カイ・ブライトの件ですよね?」ロシュカは眉を少し上げただけの無表情で、端的に切り出した。
「あぁ。昨日倒れたことは、すでに伝達済みだと思うが、この後ポラリス大学病院へ、様子を見に行ってほしい。」
「承知しました。」ルーディスの指示に、ロシュカは即座に了承した。
「あぁそれから、ナーサに身の回りのものを一式まとめてもらっている。ついでにそれも持って行ってくれ。」
「目を……、覚まされたのですか?」ロシュカはややためらいがちに尋ねる。
「いや、まだだ……。まだ、昏睡状態にある。」たばこを吸って吐き出した後でルーディスは言った。
「なるほど……。原因は、やはり昨日の?」
「あぁ……。シーラが言うには、ドリームリンクに割り込まれた際、知覚接続の回線が乱れたことにより、強力なドライブ酔いを誘発した可能性があるそうだ……。倒れたのは、カイだけだがな。」ルーディスは、すでに全社共有済みの内容も含めて、再度ロシュカに説明した。
「ふむ、そのまま受け取ってもよろしいですか?」ロシュカは表向きの内容と、真実に相違がないかを確かめたいらしい。
「あぁ、厳密に言えば、確証がない。」
「そうですか。」ルーディスの言葉に、ロシュカは少し考え込んだように眉を寄せたが、深くは追及しなかった。
「というか、そこも含めてポラリス大学病院で、検査することになっている。追加情報があれば、私の代わりに聞いて来てくれ。」ルーディスは吸った煙を大きく吐き出し、椅子の背もたれに体重をかける。
「承知しました。」ロシュカは了承すると、軽く頭を下げた。
「それで、差し支えなければお聞きしたいのですが。」
「なんだ?」ロシュカの言葉に、ルーディスは訝し気に顔をしかめる。
「昨日は、結局どう場を収められたのですか?」ロシュカの質問に対し、ルーディスは顔をそむけるように椅子を回転させると、しばらく沈黙した。
再度たばこの煙を深く吸い込んだ後で、ゆっくりと大きく煙を吐き出す。そしてまたロシュカの方へと向き直ると、ルーディスは静かな面持ちでこう言った。
「何もかもすべて、パフォーマンスだ。」
「……どういうことです?」つられてロシュカも声をひそめる。
「あの程度のハッキング、シーラに拒めないわけがないだろう……。だから、利用した。」ルーディスは深く目をつぶり、そして開けると、鋭い眼差しでロシュカを見据える。
「AIシーラに、ハッキングなど通用しない。そういう意味での、パフォーマンスだ。実際、批判の声は多少増えたが、それよりも支持者の方が多くなった。企業としては、これでいい。」まだ始業前の時間だったとはいえ、ルーディスの顔は、すでにネオステラ社CEOのそれだった。
「そうですか。いえ、私があなたに逆らうことなどありはしませんが。一応心に、秘めておきます。」言葉とは裏腹に、ロシュカの表情はたいして変わったようには見えない。
「そうしてくれ。カイのことは、お前に任せる。」
「承知しました。では、失礼します。」ロシュカが出て行く姿を見送りながら、ルーディスはたばこの火を消し、それまでよりもずっと大きくため息をついた。




