プロローグ:昨日の僕は眠れたのかな
朝靄の中に立ち尽くす青年は、ただ行き先だけを見つめていた。目の前の交差点、信号の点滅、音響式信号機の干からびた音楽。雑踏の中を行き交うこともせずに、ただ青年は立っている。脳内に響く耳鳴りと、くすむ視界の奥底に沈んでいくような重力を感じて。アスファルトの海を泳いでいく鉄の鰯の群れの中、広がる波紋の中心部には、明滅する、白い月の残像が……。
―ピピッ……ピピッ……ピピッ
「おはようございます、カイ。お目覚めの時間です。」カイ・ブライトは、耳元で聞こえた滑らかな合成音声にはっとした。
胸の上に、いつも通りの重みを感じて目を向けると、デフォルメされた、丸い羊型のアンドロイド――アンドロイド・シープデバイスのアルファが乗っている。
「時間通りですね。バイタルチェックをいたしましょう。」聞き慣れたボイスと電子音が、うす暗いポッドに横たわっているカイの全身を包み込む。
―ヴィーン
「ではいつも通り、順番に実行します。そのままリラックスしていてください。」スーリが告げると、カイの周囲がほのかに明るくなった。
穏やかな稼働音とともに、ポッドから微かな振動が伝わってくる。胸の上で眠るようにうずくまっているアルファのボディが、まるで呼吸をするかのように上下していて、カイはいつもの癖でその背中を優しく撫でた。
頭から足の方へ向けて、アーチ状の光線が一定の速度でスキャンしていく。機械であるはずのアルファから、グルグルと小刻みな音が聞こえる。
「体温・心拍数:正常、血圧:低値、脳波同期:覚醒移行完了、筋緊張度:下肢12%低下、血中酸素飽和度:正常、血中コルチゾール値:基準値内。」ライフサポートAIスーリが淡々とチェックリストを埋めていく。
カイは、ポッド内部に埋め込まれたモニターに表示されるプログレスバーをじっと見ていた。プログレスバーは項目ごとにわずか数秒で処理され、カイにはなんの影響もないままSuccessの文字と計測された数値がインジケーターに表示される。
バーチャル・スリープ(仮想入眠)から目覚めた直後だからか、カイはまだ意識がぼーっとしているようだった。しかし体に重苦しくのしかかるような空気の圧と、こめかみがどくどくと脈打つ感覚に顔をしかめる。乾燥した唇を軽く舐めると、カイはすぐに水が飲めないことを不便に思って、ごくりと唾を飲み込んだ。
「被検体0:カイ・ブライト、バイタル、おおむね良好です。……記録します。データ送信・保存完了いたしました。」バイタルチェックを終えたスーリが、データサーバと通信をしている音声が聞こえる。
モニター上で明滅している結果は、いつもとほとんど変わらない。そもそも、大きく普段と異なるような数値があれば、スーリは即座に安全装置を起動させ、常駐している医務員へと連絡を飛ばすだろう。だから、スーリがいつも通り淡々と結果を読み上げているこの時間は、カイにとっては神経の起動を確認するための時間に過ぎなかった。
「お疲れ様です、カイ。低血圧、疲労の蓄積を確認しました。今日は採血の日ではありませんので、これでバイタルチェックは完了です。本日は動きを控えめに、ゆっくり過ごすといいでしょう。」やや低めの女性のような音声でスーリが告げると、モニターに表示された顔のようなマークが、にこりと微笑むような記号に変わった。
「ありがとう、スーリ。でも今日はフィジカル・キャリブレーション(身体調整)の日じゃなかったっけ。アカデミーのオリエンテーションもあると思うんだけど。」カイは1日の予定を思い出して、苦笑しながらスーリに告げた。
モニターに表示されている日付は月曜日だ。今日はポラリス・アカデミアの入学式で、2年次以降の学生向けに午後からオリエンテーションがあるはずだった。だからスーリが言うほど、時間的な余裕はないのではないか、とカイは思った。
「進学おめでとうございます、カイ。あなたの起床時間は午前6時。アカデミーのオリエンテーションは午後1時からで、その前の午前10時にフィジカル・キャリブレーションがありますね。今日は歩行運動のカリキュラムの予定ですが、体の調子はいかがでしょうか。」スーリがモニターに時刻表を表示させ、フェイスアイコンをくるくると移動させながら説明している。
「ありがとう。そうだよね。……だからゆっくりは、できないんじゃないかな。」カイはそう言いながら、胸の上に乗っていたアルファを脇に下ろした。
「はい、そうですね。移動を最小限にし、途中でこまめに休憩をとりましょう。疲労回復用のタブレットも持参してください。講義が終わったら速やかに帰宅するのはいかがでしょうか?」スーリのフェイスアイコンが瞬きをするように、明滅しながら変化した。
「……そう。分かった。」そう言ってカイが不服そうにポッドの中で身じろぎをすると、アルファがフルフルと揺れた。
「それとカイ、空腹を感じていますね?もうすぐナーサがi-voと一緒に朝食を持ってくるはずです。サプリメントを補給して、栄養とエネルギーの補給をしてください。」カイの様子を知ってか知らずか、スーリはゆらゆらとアイコンを揺らして予定を告げる。
「固形物は?」
「今日はオムレツとベーコンですよ!」スーリが気を利かせて、廊下にある監視カメラの映像を映す。
朝食のトレーを持ったお手伝いロボットのi-voと一緒に、家政婦のナーサが映っている。どうやらフロアにあるキッチンスペースから、この部屋へと向かっている最中のようだった。
「ほんとだ。」モニターから目線を外し、頭を横に倒しながら、カイは小さくため息をついた。
「スーリ……、頭が痛い。……昨日の僕は、眠れたのかな……。」カイは、締め付けるような鈍痛と息苦しさから、ナイトウェアのボタンを外して胸元を開けた。
カイがゆっくりと寝返りを打つと、アルファがその柔らかいボディをカイの腕へと押し付ける。カイはアルファの頭を軽く撫でると、肩をずらして肘をわずかに持ち上げた。
肩と肘の間に巻きついている太めのバンドが、ズレないように気をつけないといけなかった。バンドには採血時や、緊急時の薬剤投与のためのチューブがつけられているため、ずれると少し厄介だった。
カイはそのままサイドモニターを操作して、ポッド内部の温度や湿度を確認する。しかしそれは、すでにスーリによって最適な状態に保たれていた。
「いいえ、カイ。いつも通りの覚醒状態であり、病状に進展はありません。ポッドから出て、体を伸ばしましょう。その後、頭痛薬を投与します。まだ息苦しさはありますか?」スーリが淡々と告げる音声に、カイはわずかな苛立ちを感じた。
「はぁ……。いいよ、開けて。」また昨日も眠れなかったのか――そんな気持ちに支配される前に、カイが答えると、ポッド内部のモニターの表示が消え、上部の蓋がゆっくりと開いた。
―ヴィーン
徐々に開いていく蓋を見ながら、カイはナイトウェアの胸元に手を入れて、空気を入れるようにパタパタと動かした。蓋が開いた部分から、手触りの違う空気が入り込んでくるようだった。
カイはゆっくりと開いたポッドの中で、縁を掴んで体を起こす。アルファはモニターの瞳をパチリと開けて、ポッドからぴょんと出て行った。
窓はまだ閉まっていたが、ポッドルームの照明は、スーリによって柔らかく発光する設定になっており、辺りはぼんやりとした光に包まれている。
ポッドが完全に開き切ると、外界の光量に合わせて室内もゆっくりと明るくなっていく。ある程度明るくなると、細長い窓のカバーパネルが大した音もなくスッと開いた。カイの脳を、突然の刺激で驚かせないための設計だった。
「ふぅ……、はぁ……。」きゅーっと締め付けられるような感覚を目頭付近に感じて、カイはわずかに荒い呼吸を繰り返す。
何年もずっとこんな生活をしているけれど、ここ最近は特にこんなことが増えた気がする。カイは胸を押さえ、ポッドの縁を掴んで体を支えた。窓から差し込む日差しに目が痛んだカイは、光から逃れるようにうつむいた。アルファが、「キュー」と高い声で鳴く。
「被検体カイ・ブライトに、バイタルサインの揺らぎを観測しました。鎮静剤を投与します。」
「いっ……。」スーリの声と共に、カイは左腕に巻かれていたバンドの下で、チクリと皮膚を突き抜けるような痛みを感じた。
腕につながっている細いチューブを通って、黄色い液体がカイの腕の血管へと流れ込む。スーリは鎮静剤と言っていたが、近くにいるスーリ専用のi-voのモニターを見ると、薬剤の中身は頭痛薬との混合だった。
「はぁ……。」薬剤の投与が終わってしばらくすると、カイの心臓はいつも通りの落ち着きを取り戻し、指先の震えがわずかに残る以外は、頭の痛みも特に感じなくなっていた。
「被検体カイ・ブライトのバイタルサインが正常化しました。体の調子はどうですか、カイ。動けそうなら服を着替えるか、リビングに行くのはどうでしょう?」i-voのスピーカーからスーリの声が聞こえてくる。
「うん、そうだね、そうしよう。……ナーサはそろそろ着いたかな。」カイはドアの方を窺いながらも、慣れた手つきで腕のバンドをはがすと、ポッドの外側につけられているラックにそっと引っ掛けた。




